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習志野市民フォーラム

市民情報交流センター

カジノ法制とボートピア陳情

2016年12月15日 | ボートピア習志野反対運動
15日未明に参院で「カジノ法案」が強行採決されました。
賭博が我が国の経済戦略の目玉だそうだ。
「トランプ」詣でをしてTPPを反故にされ、喜びそうなカジノ解禁
を急きょ国会でゴリ押ししているとしか思えません。
536万人いるといわれている我が国の「ギャンブル依存症」はそのままで。
依存症は自己責任ではなく病です。
依存症に追い込んでいるのは政策そのものではないでしょうか。
今だけ、金だけ、貧乏人を中心にむしりとる。
カジノの裏で蠢く無数の様々な魑魅魍魎の利権。

一方では生活保護利用者に対して予断を持って差別的に監視しろと言う連中もいます。
「生活保護」を狙い撃ちしたギャンブル監視強化はギャンブル通い
を本人の責任としか捉えず、ギャンブル全体の問題や依存症のことには
全く触れていません。まさに執拗な生活保護バッシングの一環として利用している
悪質な議論としか考えられないのではないでしょうか。
社会的「弱者」と呼ばれる生活保護利用者をバッシングすることで、
自らが優越感を持ちたいとする差別主義の根幹があるからではないでしょうか。
生活保護に関するデマを意図的に流し、そういった主張を補完するために
「不正受給」キャンペーンが当市をはじめ各地の陳情も含めて行われているのではないでしょうか。
このような連中と、「カジノ反対」や「ギャンブル場建設反対運動」とは相容れるものは全くありません。


ボートピア習志野が開業して10年。反対運動が起こって12年。
開業後も毎回陳情が市議会に提出されています。
今回の陳情はカジノ法案に対する深刻な依存症を含めた的確な批判と国へ要請を
求める内容です。
同時に売上大幅減少の「ボートピア習志野」は今こそ撤退すべきではないでしょうか。


ボートピア習志野反対運動の経緯(24)(開業1周年抗議行動と平塚交流)

2015年05月10日 | ボートピア習志野反対運動
※このシリーズは2004年より新習志野駅前に計画された競艇場外舟券売り場建設を巡る当時の反対運動の経緯です。
 再開します。

 前回の掲載分 http://blog.goo.ne.jp/narashinoshimin/d/20141005
 シリーズ   http://blog.goo.ne.jp/narashinoshimin/c/20e10ae5fbd4d039e536a21e6f89acdd

平塚でも同様の問題が起こり、全国のボートピア反対運動の連帯の一環として2006年8月に平塚よりマイクロバスに
反対住民が乗り、習志野に視察に来て、市民連絡会との交流が持たれた。
(17回目に掲載 http://blog.goo.ne.jp/narashinoshimin/d/20140223)

今度は市民連絡会側が平塚の集会にに行くことになった。
2007年9月2日に習志野より4名が「ボートピア平塚建設反対シンポジウム」に参加した。
当日は百数十名が集まり、習志野市以外でも小田原市、大和市、厚木市よりの参加もあり、それぞれが発言をした。
シンポジウム終了後は建設予定地の大神地区を視察した。建設予定地は厚木インターに近い広大な農地で 後継者のいない
農家20数戸には高額な買収金額が示されているとのこと。
その後、買収地の近くで交流会が開かれ、意見交換がなされた。


平塚との交流はその後も続く。2008年9月21日には大型バスで平塚より51名の大視察団が再び習志野を訪れた。
視察団は三々五々とボートピアの場内に入り大型スクリーンやレースの様子を観察した。
その後、新習志野公民館で交流会が開かれ、お互いの現況報告や意見交換が持たれた。

その後最終的にボートピア平塚は建設を断念した。

裁判は高裁で審理が進む一方、2007年9月でボートピア習志野は開業1年を迎えた。
市民連絡会は開業1周年抗議行動を呼びかけた。

10月8日の抗議行動はあいにくの雨ではあったが50名以上が集まり、新習志野駅前で現状報告やリレートークの後、
東洋エンジニアリング正門前までデモを行い、申し入れ書を手渡した。休日のため社員はいないので守衛に手渡した。


※文中敬称略・肩書き等はいずれも当時のもの
  次回へ続く


ボートピア習志野反対運動の経緯(23)(住民に対する圧力・中傷)

2014年10月05日 | ボートピア習志野反対運動
※このシリーズは2004年より新習志野駅前に計画された競艇場外舟券売り場建設を巡る当時の反対運動の経緯です

「ボートピア習志野」に最も近い香澄6丁目自治会は2006年4月に「ボートピア反対決議」を行ったが、これに対し
2007月香澄6丁目自治会旧役員が連名でこの決議に対してクレームをつける文書を出した。
題名は「香澄6丁目自治会運営について(お願い)」としてあり、その中の項目に「ボートピア反対運動について」
として次の点が述べられていた。
・自治会の活動として基本的にやってはいけない事業として、「宗教活動」「特定政党などの支援活動」
 「公序良俗に反する事業」
・ボートピア問題は今回の統一地方選挙の争点の一つになり得ることは多くの人が認識している。
・特定政党などの人間と協調して市議会へ陳情までいった行為は政治活動の支援と取られても仕方のない事実。
・自治会活動として香澄6丁目自治会がボートピア反対運動を行い、しかもそれが役員会の議決のみで決定する
 ことはあってはならない。

明らかに旧役員まで動員した介入妨害工作であることは明白であった。しかも親切にも反対活動を行うなら、名称を
変えて行えとまで述べている。選挙に対してボートピアの影響を少なくさせようとしていることが考えられる。
この場合は陳情であるが請願は議員の紹介が必要で特定政党の支援とは全くの言いがかりにすぎないことではないか。
一方では診療所再開に関してボートピア推進の地元選出市会議員宮本博之氏(香澄・芝園まちづくり会議議長)に請願を
行うための署名活動も行っておりこちらの方こそ恣意的な政治活動で事前選挙運動とも捉えかねない行為ではないか。
このようなことを考え併せると選挙対策のため裏で糸を引いている構図が浮かび上がってくる。

又この宮本博之議員は2007年6月の総務常任委員会で、香澄公園の舟券散乱事件を香澄地区住民の仕業と決めつける
発言まで行い地元住民に対する誹謗まで行った。(下記会議録)・・この発言は宮本ゴミ発言として後々まで話題となった。


この文書は市民連絡会のチラシとして刷られ、住民に配布された。

又この6月議会では宮本泰介議員(現市長)も市民に対して誹謗だ中傷だとの暴言を吐いた。
ボートピアに関しては推進を思わせるこの宮本両議院の発言がとりわけ目立った。


更には香澄6丁目ではボートピアの巡回警備員が火のついたままのタバコを街路に投げ捨てる行為が行われ
これを見かけた住民が抗議するという事件までおきた。当初この警備員は投げ捨てを否定したが誤魔化しきれなくなった。

一方「ボートピア習志野」の日々の場内の様子どうであったか。
場内で実際に見た住民の報告書があるので紹介する。


※文中敬称略・肩書き等はいずれも当時のもの
  次回へ続く



ボートピア習志野反対運動の経緯(22)(2007年4月市長・市議選挙)

2014年08月31日 | ボートピア習志野反対運動
※このシリーズは2004年より新習志野駅前に計画された競艇場外舟券売り場建設を巡る当時の反対運動の経緯です。

市民連絡会は2007年4月選挙に向けて、荒木現市長に対抗する市長候補を模索するとともに出来る限り多くのボートピア反対議員を
当選させることも模索した。但し「市民連絡会」は特定の候補者を支持応援する団体ではないため、市長候補を擁立するならば
「市民連絡会」とは別組織で行うことが確認されていた。又特定の市議候補を支援応援することも行わない方針とした。

従って「市民連絡会」としては選挙に係っていないが、その経緯に若干触れておく。

2006年暮れにかけて荒木市政に対抗するため「クリーンな市政をつくる市民の会」が結成され候補者の策定に入っていた。
メンバーはボートピア反対運動にかかわった人間がほとんどであった。
当初はB、W、元市議の立崎氏の名前が挙がったが今一つ決まらない状況であった。
そのような中で、立崎氏の紹介で小林洋二氏(全国革新懇世話人、全労連元議長、習志野市元職員、茂原市在住)の名が挙がった。
候補者の要件としては以下の通りであった。
●ボートピアに反対であること
●クリーンな市政を安心して預けることができる人物であること
●選挙に勝てる候補であること
暮れもおしせまった2006年12月28日に小林氏を呼んで初めての全体的打ち合わせが行われた。
問題点として以下が挙げられた。
●ボートピア反対運動にかかわっていない。
●共産党員であり無党派でない。
●習志野市に住んでいない。
一方の立崎氏が市長候補では共産党がまとまらないという事情もあった。
以下の団体が小林氏を推すことが報告された。
明るい市政の会9団体(新日本婦人の会、民主商工会、習志野市市労連、全教八千代習志野、年金者組合、地域子供サークル、
習志野市平和委員会、日本共産党習志野委員会・・)
3会派(共産党、新社会党、水と緑の会)は推薦する。

小林氏からは下記の表明があった
O他より強い要請があり多くの会派が纏まっているということを鑑みまた、ボートピア反対の経過を熟慮し1.10までに真剣に熟慮、
検討することとなっている。
Bとの深い付き合いも有る。
党派を超えて3会派だけでなく一致できるものはもっと結集させたい。
茂原も保守派割れている、勝つ戦に参画したい。
立候補するとすれば市の行政に深く係わる者として全力を出したい。

その他意見
●各会派の一致についての確認の質問と候補者は習志野市民でないことについて(K)
正式決定ではないがニュアンスとして参画するだろう・・(W)
市議は3ヶ月以内に住民で有る必要有るが市長の場合は市外でも差し支えない(TA)
習志野へ転居することも含め熟慮している
●新社会(M)
横堀からも聞いている  新社会党としては議論をしていないが異論はない
●問題点について3点(T)
①ボートピア問題は政党と関係なくやってきが小林は共産党員である
②対立候補側の攻撃材料になる
③習志野市に住んでいない
※前回市長選では立崎に学会の票も入った +αの票の必要性
●問題点3点(K)
①習志野市に住んでいない
②共産党員であり無党派でない
③ボートピアに係わっていなく、先の住民投票署名の11000筆やボートピア反対者の何処までが小林に投票するのか
※上記問題を克服できるのか
●問題点について(A)
習志野市役所に入って市職労にいたのが最大のポイント
党員では有るが無所属で出るということで克服できるのではないか
●ボートピアとの関連(T)
ボートピア反対の人々が散ってしまうのであれば難しい
政党選挙になる恐れあり(K)
●会の呼びかけメンバーなどについて(TK)
立崎氏は是非入って名前を出して欲しい
「明るい市政の会」も名前を連ねて欲しい
●メンバーについて(M)
政党、議員は役員に名前を連れられない
市長選でも同様に避ける方が良い
ボートピア問題では市民主体を尊重して政党は前面に出なかった
●市議会の問題(W)
我々の市長が当選しても市長派は少数会派である
それに耐えうる力の有る人が必要
候補者は限られてくる最大公約数であることが必要
●ボートピア問題との関連(TU)
ボートピア問題とは切り離してやっていく
同時に2つのことを行うことによって(BP反対、市長選)BP反対運動を成功させられる
よって小林候補者は必要
●候補者について(TK)
市民主導の候補者として擁立する
各会派一致して動くことが必要
小林は革新懇の代表世話人手あり共産党が前面に出ることはマイナスである
党派は全面に出て欲しくない
●候補者について(O)
小林はBP問題、住民投票条例の否決問題は良く分かっており市長選に当たってはこの2つのことをアピールする必要あり
文教住宅都市憲章は習志野市の憲法である
今の市政(市議会)は憲章を蔑ろにしている
BP反対運動を主導して市民を纏められるなら異論はなく小林については市職として過去に闘ってきた非常に得がたい価値観が有る
●候補者について(A)
吉野市長や埋め立て問題以来のつきあい
習志野市を二分した40年前の選挙の再来が必要
鴨も含め陳情を否決する議員ではダメである
連合・・荒木支持   鴨・・民主党
民主党の鴨支持については異論(M)
●政党の市長について(T)
吉野は社会党員として出たか
当時は飛鳥田全国革新市長会の影響で出た
第一期・・社会党員  第二期・・無所属  第三期・・自民党
選挙が高揚してくると消極的だった人も盛り上がり広く結集してくるものである
どう段取りを考えるかも必要である
●段取りの仮案についての説明(T)
事務所、役員などについて
●組織について
ボートピアとは別組織にする必要(M)
BPの加盟団体も行動しないと組織にならない(A)
並行しながらも仲間に加わる方向(TU)
●会について
会の早期結成の必要性(小林)
今までの経過を確認して会の結成と小林を押すことのこの場での確認の必要(A)

会議では大勢は小林市擁立で固まる方向にあった。
但しボートピア反対運動を基盤とした無党派候補でないとの理由でKはこの会議を持って離脱した。

その後年明けに「市民連絡会」構成団体の一つ「巨大ギャンブル場をやめさせる会」メンバーでTK、Kを含め討議が行われ
小林氏擁立に対する異論が出た。「やめさせる会」のメンバーは立崎氏を推す方向となった。

結果、「クリーンな市政をつくる会市民の会」は候補者一本化することができず小林氏擁立を見送り解散することとなった。
理由としては、共倒れになる点とボートピア反対運動に亀裂を生むことが大きな点であった。

小林氏を擁立した人、離脱した人、立崎氏擁立をした人、それぞれ言い分はあると考えるが、結果候補者の一本化が
出来なかった失敗例であった。
どこに問題があったのか・・・候補者か、その擁立への経緯なのか??

2007年4月市長選挙は荒木、村上、鴨、立崎の4人が立候補した。
立崎氏は最後まで悩み一時は鴨氏との一本化も考えたが引けない状況になっていたのかもしれない。
TK氏も立崎氏応援のため市議に立候補し、共同の事務所を京成津田沼駅前に持つことになる。
事務所にはボートピア反対運動にかかわっているボランティアが詰め、手作りの看板も掲げられた。
街宣車運転手、ウグイスも全てボランティアであった。リコールをすすめる会のメンバーも加わった。
しかし立ち上がりの時点でのゴタゴタや、素人の集まりで、荒木陣営と比べると圧倒的に見劣りがした。
共産党は自主投票。

結果 荒木 24,190 村上 16,563 鴨 14,062 立崎 8,083 で最下位の結果に終わった。
TKも票が伸びず最下位で落選した。


「市民連絡会」の行動としては、市長候補、市議候補にアンケートを実施し、市長候補派村上氏以外が回答。
市議候補20人が回答をした。

このように市長選は遺恨を残す残念な展開であったが救いはボートピア反対議員が10名となったことと
「市民連絡会」の活動はその後も継続して行ったことであった。

2007年市長選の経緯は当時の文書や議事録を元に出来る限り客観的に掲載しています。
当時かかわった方にはいろいろな思いやご意見があると考えます。来春4月には荒木-宮本市政を問う市長・市議選も控えています。
ご意見ご指摘がありましたらコメント欄に投稿されるかnarashinosf@yahoo.co.jpにメールをください。



※文中敬称略・肩書き等はいずれも当時のもの
  次回へ続く


ボートピア習志野反対運動の経緯(21)(開業後の状況)

2014年07月21日 | ボートピア習志野反対運動
※このシリーズは2004年より新習志野駅前に計画された競艇場外舟券売り場建設を巡る当時の反対運動の経緯です。
2006年9月の開業後数カ月がたったが、新習志野駅からボートピアへ向かう客はパラパラ程度。
無料バスの乗客も目立って多くはなかった。
大半がくるまでの来場者と見られるが予想された交通渋滞も見られなかった。
駐車場にはそれなりに車が止まっているが満車というような態度はなかった。

市民連絡会は定期的に夜間調査を行ったが、場内は1階は200数十人何程度。2階は百数十人程度。
指定席はほとんど満席。3階はオール指定席でいつもガラガラ。常時300~400名前後と言ったところ。
レースが始まると声をかけたり、舟がターンする所で大声をあげる人もいるが全体的におとなしいイメージ。
各階に食堂レストランがあるがガラガラ(間もなく3階のレストランは閉鎖された)
最終レース後のバスは3台で1台目、2台目は満員。
駐車場はこの時は帰りの車でゲート付近は混雑8。
場内のこの状況は入場者は減っているが今も変わっていない筈。
徒歩で新習志野へ向かう人は百数十人程度。警備員の誘導にもかかわらず水泳場の裏を通るのは稀で
ほとんどが水泳場の正面を通り駅へ向かう。

周辺への影響や環境は変わったのだろうか。
時々秋津公園や香澄公園や住宅地でハズレ舟券が散乱していたり、出走表や予想紙が捨てられていることがあった。
食べ物のカスやビールなどの空き缶が捨てられていることが以前より多くなった(ボートピアとの関連は不明)。
又競艇客と思われる人から「金を貸してくれ」とか女性が「一緒にボートピアに行こう」と声をかけられる
ことも報告された。
しかしこのような事象は各ギャンブル場では一般的に見られる現象で想定されていたことでもあり、むしろ
他のギャンブル場と比べるとおとなしい方であると思われる。
それだけボートピア自体に活気がなくなっていることかもしれない。
(場内の状況も掲載された市民連絡会のチラシ)


一方、この「ボートピア習志野」の訴訟に懲りたのか政府は「競争法の一部を改正する法律案」を提出し国会で
審議が始まることとなった。市民連絡会は全国の反対する団体に呼び掛け各党に申入れを行った。
この申し入れ行動後「ボートピア反対全国市民連絡会」が結成される運びとなった。
参加団体は下記チラシの通り。


(推進派の巻き返し)
2007年2月の下旬に香澄、秋津を中心に「ボートピアの健全な運営を望む住民の会」なる団体?から
「ボートピア習志野Watch」というチラシが各戸に配布された。
内容はボートピアが開業しても問題はなかったじゃないか。売り上げも伸びてきている。隣接の茜浜ホールを活用しようなどと
いうボートピアよいしょのチラシである。「市民連絡会」が発行する手作りのチラシと比べチラシの質はかなり良く費用をかけて
いることもうかがえる。

このチラシは3月下旬の第四号まで発行された。
この年の4月は統一地方選挙で、習志野市でも市長・市議選が行われる。「ボートピア」問題は地元を中心とした住民の反発を
かい、特に地元香澄選出の宮本博之議員は評判がかなり落ちていた。会の住所は香澄2丁目で発行責任者は宮本議員の後援者
であり4月の選挙に備えた巻き返しであることは容易に想像される。
4号では舟券を散らかしているのは秋津、香澄の住民ではないかとのとんでもない内容が住民の声と言う形にして掲載されている。
地元住民に疑いの目を向けさせようとしているこの内容は後にこの年の6月議会で宮本博之議員が議会で同様の発言をして物議を起こした。
このチラシの連絡先に電話をしたが常に不在であった。


市民連絡会は2007年4月選挙に向けて、荒木現市長に対抗する市長候補を模索するとともに出来る限り多くのボートピア反対議員を
当選させることも模索した。但し「市民連絡会」は特定の候補者を支持応援する団体ではないため、市長候補を擁立するならば
「市民連絡会」とは別組織で行うことが確認されていた。
「市民連絡会」としては市長や議員候補者に質問書を送ることとなった。

※文中敬称略・肩書き等はいずれも当時のもの
  次回へ続く








ボートピア習志野反対運動の経緯⑳(開業後の反対運動・訴訟)

2014年06月09日 | ボートピア習志野反対運動
※このシリーズは2004年より新習志野駅前に計画された競艇場外舟券売り場建設を巡る当時の反対運動の経緯です。

2006年9月30日の開業抗議行動で開業までの抗議行動は一つの節目となった。
一方では裁判は継続し佳境を迎えようとしている。
市民連絡会としては今後どのように運動を展開していくかのことになる。
一つには公判への対策と傍聴。
二つには開業したボートピアへの監視行動。
三つには全国で派生してきたボートピア反対運動との連携。
その他、署名活動、メールファックスニュースによる宣伝などであった。

署名活動は2006年9月末で東京地裁(行政訴訟)宛て9,945筆、千葉地裁(民事訴訟)宛て10,001筆が集約された。  
署名は11月10日に両裁判所に提出された。
10月29日には第一回目のナイター監視行動が行われた。
既に秋津公園などでははずれ舟券がばらまかれていることが度々起こっていた。
夜7時に新習志野駅前の国際水泳場に集合、駅周辺、ボートピア門前、場内に分かれて視察が行われた。
場内は男性メンバーが担当し入場者の数や無料バスへの乗車状況、レース観戦の人の様子などを観察した。
又、駐車場の車の台数もカウントされた。
門前では、競艇場に向かう人、出てくる人の人数や、通行経路などを観察し、水泳場の表、裏を通る人数のカウントもされた。
水泳場の裏に誘導する警備員の効果はなく特にレース終了後は水泳場の正門を通る人がきわめて多かった。
又通ってはいけないボートピアの付属施設である「茜浜ホール」を通り抜ける人も多かった。
「茜浜ホール」については後日市議会に陳情が出され、門が設けられて以降ボートピアよりの通行はなくなった。
一方入場人員は当初見込みと比べはるかに少なく、市に入る環境整備費も大幅に減る見通しとなった。

裁判は千葉地裁が11月6日に第15回公判が行われた。
東京地裁では11月29日に第10回公判が予定され結審となることになった。
この裁判の動きを受けて、12月16日午後に新習志野公民館において「公判報告集会」が開催される運びとなった。
報告集会は弁護団の小島、田久保両弁護士が出席し、裁判の現状と見通しなどが報告された。
東京地裁は敗訴した。敗訴理由は原告不適格(原告住民には訴訟をする資格がない)という不当なものであった。
2007年1月4日、直ちに上告の手続きが取られ訴訟委任状を集めた。

(新習志野駅前の国際総合水泳場)

(市民に訴える市民連絡会2007年新年のチラシ)

ボートピア習志野反対運動の経緯⑲(開業抗議行動)

2014年03月30日 | ボートピア習志野反対運動
※このシリーズは2004年より新習志野駅前に計画された競艇場外舟券売り場建設を巡る当時の反対運動の経緯です。


ボートピア開業準備は着々と進み2006年9月26日(火)には「開業記念式典」が開催される運びとなり、各方面に案内状が
出された。これに対し、開業式典から開業日までの連続抗議行動が計画されることとなる。

9月26日の開業式典抗議行動は新習志野駅前に動員目標10名のところ約30人が集まった。
スピーカーで街頭宣伝、立崎誠一の宣伝カーでも街宣を行った。
街頭宣伝の後、施行者に抗議文を手渡した。
9月27日の開業抗議駅頭宣伝にも約30人が参加。新習志野駅の南北ででマイク宣伝とチラシ配布が行われた。
9月30日(土)には午後12時30分より新習志野駅前の広場で本格的な開業抗議市民行動が開催された。
集会の目的は下記のとおりであった
・開業に対する対テック抗議と裁判の訴え
・住民無視の市政及び賛成議員に抗議し住民の権利を守ることの訴え
・裁判でストップできることと当該建物は係争中の違法施設だということの訴え等

12:30よりの集会に先立ち資材などが運び込まれた
のぼり、横断幕、 プラカード、 ハンドマイク、演壇用ビールケース、 署名の机、宣伝カー等
集会が始まる頃に、自称「競艇ファン」を名乗る男一人が大声でどなりながら演壇の前に割り込もうとした。
「競艇を愛好するものに失礼ではまないか」「集会をやめろ」など
実行委員会は男に対し「ギャンブルそのものに反対しているわけではない」「何処から来たんだ?」と問い詰める。
さらに「言いたいことがあるならマイク貸してあげるからしゃべれよ」「根性入れてきてるんだろ」と問いかけると
男は「うるさい」「反対派ばかりのところでしゃべれるか」等と言いながら立ち去って行った(男もガラ悪いが実行委員もガラがいいとは言い難い)。
会場から離れた駅前の植え込みのところでは望遠レンズ付きのカメラを構えている男もいた。警察関係かもしれないが
こちらも間もなく立ち去った。

集会は音楽の演奏(副島他)で始まった。参加者は約100人。当日署名を持参した参加者も幾人かいた。
司会(尾高)より開会が宣言された。
実行委員会(川辺)の挨拶のあと事務局(常岡)より基調報告。裁判の経過報告(竹川)。
各団体個人の発言に移りPTA関係(三宅)、千葉工大の近藤教授よりのメッセージ代読、秋津の「おやじの会」(坂本)
市北部の住民(吉田他)、参加の市会議員(辰巳、中村他)の挨拶と続いた。
抗議文の採択(脇屋)がおこなわれ行動提起と閉会の挨拶(藤原)のあと最後に全員で「ふるさと」を斎唄した。

横断幕を先頭にプラカードを持ち「ギャンブル場反対」「開業反対」などと声を上げながら水泳場横を
通りテック本社正門に移動した。
テック正門では抗議文をマイクで読み上げ、テックに手渡した。
その後再び新習志野駅前に戻り集約を行い、最後にシュプレヒコールで行動を終えた。

開業後の抗議行動がはたしてどこまで効果があるか、あるいは単なるガス抜きであったかもしれないが、新習志野
においては着工時抗議行動に続く2回目のまとまった集会デモであった。
 


※文中敬称略・肩書き等はいずれも当時のもの
  次回へ続く

ボートピア習志野反対運動の経緯⑱(結審に向かう裁判・原告本人尋問、間近に迫る開業)

2014年03月16日 | ボートピア習志野反対運動
※このシリーズは2004年より新習志野駅前に計画された競艇場外舟券売り場建設を巡る当時の反対運動の経緯です。

2006年7月19日(水)千葉地裁において原告本人尋問が行われた。
傍聴には原告・支援者50名超が詰めかけ、傍聴席が足りず一部の人は廊下で待機し交代で傍聴をした。
午前4名、午後2名の証言がおなわれた。各人がリアルな体験を語り、説得力のある内容だった。
・パニック症候群の母親が治療のために通っている国際水泳場でのトラブルの発生の心配(Y)
・高校生まで過ごした大阪・岸和田市が競輪場のある土地であったため危険な体験をした(S)
・かつて住んでいた競輪場のある松戸で競輪客から金をせびられた(G)
・京葉線沿線の小学校に通っている子供が一人で新習志野からで電車に乗る際不安(T)
・香澄公園から不審者に覗かれた体験(M)
・交通渋滞の実態(T)
これに対する被告側の反対尋問は、ボートピアが地理的に離れていることを実証させるために意図的に選んだ
地点だけを地図に印をつけさせたり原告の真横に威圧的に立ちふさがるなど極めて質の悪いものであった。
「プールで舟券を売っていないことを知っていますか?」などと質問し、原告は無知であるとばかりに侮辱するものであった。
2006年9月6日(水)に千葉地裁で第2回の原告本人尋問と、被告側尋問が行われた。
この日も原告・支援者・学生が48人詰めかけぎっしりと法廷を埋めた。
・病気で倒れた時の経験や日常の看護、渋滞による救急車の到着の遅れの不安(S)
・ぜんそくや、心筋梗塞などの場合、救急病院への搬送が心配(病院経営のM)
・新習志野駅前での子供の集まり場所への影響(S)
・新習志野駅前は通学だけでなく部活で行くことも多く現在でも痴漢や自転車事故の多いこと、
生徒が舟券の誘惑に駆られる(津田沼高校T教諭)
・大学の立場から、学生が道を誤りかねない、大学のイメージ社会評価を下げる(千葉工大近藤教授)

被告側証人としてテックエステート側担当役員の河瀬への尋問では、「渋滞はない」「住民の生活空間への影響や
ボートピアがもたらす懸念」については道路で区切られているとか未成年者は入場禁止だとかの杓子定規のものであった。
地元の定義についてはボートピア推進本部の指導で、当初は茜浜第二企業連絡協議会であり、その後地元ではないと答えた。
千葉工大の理解を求めるよう国交省から指導があったのではないかと問われ、「国交省からの指導はなく習志野市から
アプローチしてほしいと言われただけ」と他人事の無責任なものであった。

一方、東京地裁における「行政訴訟」は8月30日に第8回目の公判が開かれ、29人の原告と支援者で傍聴席が埋められた。
原告側準備書面と証拠書類が提出された。
違法な施設設置確認を許すことにより、人権侵害を被ることは改正行政訴訟法や最高裁判例で確認されていること、証拠書類
として原告団長土居の生活日誌や29人の原告の被害を訴える陳述書が提出された。
「国交省は確認申請審査をボートピア推進本部に丸投げした」という原告側の指摘に対し、この日も被告側からは審査過程を
示す資料が提出されなかった。


一方ボートピア開業準備は着々と進み2006年9月26日(火)には「開業記念式典」が開催される運びとなり、各方面に案内状が
出された。これに対し、開業式典から開業日までの連続抗議行動が計画されることとなる。


※文中敬称略・肩書き等は当時のもの
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ボートピア習志野反対運動の経緯⑰(山場を迎える裁判闘争と平塚交流会)

2014年02月23日 | ボートピア習志野反対運動
※このシリーズは2004年より新習志野駅前に計画された競艇場外舟券売り場建設を巡る当時の反対運動の経緯です。

2006年7月千葉地裁における証人尋問の日程が決まってきた。
7月19日午前 原告4人(Y、S,Z、Su) 午後原告3人(F、M、T)
9月6日   原告4人(S、M、S、T先生、K先生)被告(テックエステート川瀬)

これに先立ち7月7日(金)に裁判長の現地実地見分が決まった。
実地見分は裁判の大きなポイントであり、裁判長への説明者を4人決定した。
裁判長の見聞ルートは原告(住民)の要請したルートに決まった。
対応として見分経路の香澄にポスター、横断幕を掲示し、平日の視察のため土日の写真
を裁判所に提出すること、口頭での説明目のポイントについて決められた。
当日の反対集会も提案されたがこちらは実施されなかった。
当日の視察は東洋エンジニアリングの屋上から始まった。こちらは被告側が説明。
この後は原告側が主導。千葉工大の近藤教授を中心に説明が行われた。
国際プールを見学、プールの見学者30数人、泳いでいる人も多数いた。
見学者には原告側のサクラも多くいた。
その後、香澄公園、アスレチック広場、香澄公園駐車場を経て帰路についた。
公園などには近所の人に多数出てもらった。帰路の道路には「反対」の横断幕が張られ裁判長の目に入った。

8月20日(日)には平塚市のボートピア設置計画に反対する市民との交流会が開かれた。
平塚市には古くから競輪場があるが、新たにボートピアが設置される計画が持ち上がっていた。
当日はマイクロバスで平塚から習志野に来た。まずマイクロバスに市民連絡会3人が同乗しボートピア予定地の
案内と説明を行った。
新習志野公民館で交流集会が開催された。
平塚側23人、習志野側16人(うち習志野は市議会議員5人・・馬場、谷岡、入沢、辰巳、中村)
谷岡習志野市議より開会の挨拶と習志野ボートピアの概略説明が行われ、反対市議の紹介が行われた。
渡辺平塚市議より平塚の現状について説明が行われた(以下)。
当初は市会議員だけでの視察の予定であったが、急きょ、住民も含めた大規模な視察に膨らんだ。
現在ボートピア計画者から、予定地の地権者20数人に土地買い取りの申し入れが来ていること。
平塚市長は反対の立場だが市にはまだ話が来ておらず、市長選も近く市長交代の懸念がある。
予定地の市街化調整区域の見直しの可能性もあり開業可能な用途地域にすることが目論まれている。
推進側は「命がけでやる」との物騒な言動と看板も設置された。

市民連絡会からは、反対運動の経緯、裁判の現状、地元の状況や「まちづくり会議」の実態問題点や、
PTAの反対決議、署名運動、等などそれぞれ連絡会会員が立って報告をした。

平塚からの質疑応答がなされ、最後に辰巳習志野市議より閉会のあいさつがなされ、平塚市民はマイクロバスで
帰路についた。

但し、今回の交流会は平塚側は以前よりきめられていたが市民連絡会の世話人の1人より直前に交流会の計画が
連絡会に知らされた経緯(渡辺平塚市議のホームページにはかなり前に習志野視察のことが載せられていたことで発覚)、があり情報
の共有の仕方や市民連絡会会議に諮られてないことが連絡会内部よりも指摘された(習志野と平塚の同一政党間だけでの取りきめ、
結果として市民連絡会を引きまわそうとした点)。又、今後のボートピア反対運動の全国的な広がりになる重要な交流会にもかかわらず
小部屋しか取っていなかった。そのため今回は市民連絡会主催とはしなかった。

平塚との交流はその後、習志野からも平塚現地を訪れたり、習志野開業後も視察交流が続くことになる。
写真は平塚駅近くに古くよりある競輪場

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ボートピア習志野反対運動の経緯⑯(社民党福島みずほ党首との面談・申入れ)、町会の動き

2014年02月16日 | ボートピア習志野反対運動
※このシリーズは2004年より新習志野駅前に計画された競艇場外舟券売り場建設を巡る当時の反対運動の経緯です。

2006年5月29日夕刻社民党党首福島みずほとの面談が実現した。
これは、市民連絡会メンバーの一人が社民党土井元党首の姉と職場の関係で知り合いであったことにある。
議員会館で行われた面談には市民連絡会から8名が参加。
福島党首と秘書が応対した。
福島党首より説明を求められ連絡会事務局長が経過を説明した。
要点として
・3点セット(地元同意、市長の承認、議会の承認)
 地元を無視しいてること、市長は住民に知らせず同意したこと、住民投票条例請求否決から現在訴訟に移行していること。
 笹川問題について、モーターボート競走会が前面に立ちギャンブルの民営化が図られ、習志野をモデルケースとしようとしていること。
 来春の市長選において全国ユニオンの鴨桃代が地元習志野市から立候補可能性もあり、福島党首は鴨の応援に入る可能性もあり、鴨の
 主人の鴨市会議員はボートピア賛成議員であることを訴え、くぎを刺した。
その他福島党首への説明・要請として
・省令およぴ千葉工大反対について説明
・ 裁判の問題・・施行令で17箇所作ってしまった
・ギャンブル問題を国会で取り上げることの要望
・ギャンブル依存症と青少年の出入り
・政治的判断がなされる恐れ
・堂本千葉県知事への問いかけと県営プール経営難の問題
・ 市教育委員会でこの問題について逃げている
・地元自治会の問題
・我々が築いた環境をいとも簡単に崩す行政・政治のあり方
・裁判の行方、天下り、文教住宅都市
・教育基本法改悪を先取りした習志野市・・教育や地元を意のままに従わせるシステムが既に地域では完成。この問題を含め国会で取上げるべき
・その他・・不正選挙の問題、裁判の今後の行方について
福島党首より 
・ボートピアがこのように大掛かりであったこと初めて知った
・内容をさらに精査したい
・鴨桃代は良く知っている
・訴訟の弁護団小島弁護士は良く知っている
福島党首は過去の経歴や、自らの環境・人権・女性・平和を重視した観点から市民運動の理解者でもあり長時間熱心に聞いてもらえた。
鴨全国ユニオン代表と福島党首

町会の動きとして香澄6丁目が全会一致で反対を決議する一方、秋津では反対発言の妨害もあった。

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ボートピア習志野反対運動の経緯⑮(教育フォーラムと2年目に入る裁判)

2014年01月05日 | ボートピア習志野反対運動
※このシリーズは2004年より新習志野駅前に計画された競艇場外舟券売り場建設を巡る当時の反対運動の経緯です。

(2006.4.15市民連絡会・教育フォーラム)
2006年1月の世話人会において、こどもとボートピア、教育問題をテーマとしたフォーラムの開催が決まった。
日にちは4月15日 場所は当初は京成労働会館を予定していたがインパクトのあるボーピア建設予定地に隣接して
いる国際水泳場の会議室となった。
実行委員会が結成され無償のパネラーを選出することとなった。
教育フォーラムは107人の参加で成功した。
地元小学校の元PTA会長がコーディネーターとなり各パネラーは10分ずつの報告がされた。
ギャンブル依存による生活破壊やゲームからギャンブルにはまり込んでしまう子供の問題などが語られた。
会場からも質疑応答が続いた。会社の金持ち出し一点勝負で9000万円を使い込み本人は刑務所、会社は破たん
した例と、その時押収され返還された9000万円分のはずれ馬券の実物も会場に廻された。
裁判の状況についても報告され閉会した。


(市民連絡会組織のあり方)
2006年2月の世話人会において今後の運動の方向について委員より提起された。
①連絡会組織の在り方について
 発足当初は14団体が結集しそれぞれ代表者を出して連合組織として運営する方針だったが実態は3団体で運営している。
 他はほとんど参加していない。開業や裁判が今後佳境に入る中、運動の持続性、今後の発展などを考えれば内外の
 更なる結集を図る術を考える必要があるのではないか。個別の戦術も重要だが幅広い結集こそ最大の力ではないか。
②大衆行動について
 訴訟期間中にボートピアはオープンする可能性がある。地元の実態としてはあきらめムードも漂っている。
 住民から見れば、市当局に対する我々の活動は手ぬるいと映っている。当初の連絡会の方針1,6(同意撤回及び諸団体
 の協力体制のもと、全市的展開)を強化すべきではないか。
③来年地方選への対応について
 2007年市長市議選について今後政治的流れになると考える。ボートピア反対を軸として反行政で一本化できるかは
 それそれの候補者のスタンスや思惑も違い、連絡会としては特定の候補の応援はできないが、少なくとも地元を
 無視している市長及び市議の次回議席(後継者も含め)をはく奪(落選)させる運動をすべき。

(2年目に入る訴訟をめぐるやり取り)
「訴訟委員会」は「連絡会」とは別組織であり又それとは別に「支援する会」もあった。
 実質は「連絡会」が運営しており組織を一本化することが提起された。役割分担としては訴訟に係る事項は「世話人会」
 で討議され、実務は「訴訟委員会」が行う。
 追加の資金調達が必要であり100~150万円を目標としたカンパ活動も提起された。
 当初の訴訟費用をめぐり原告団長と世話人会との間で意見の違いが表面化した。
 当初100万円は1年分として50万円が実費、弁護士費用は50万円(30万円は弁護士、20万円本訴訟を研究した大学法務研究室へ寄付)。
 原告団長は100万円は当面の費用であり1年分の支払いではない。弁護士との確認書も含めあいまいである。
 見解が分かれた。
 事務局見解としては当面とは1年分の支払いであり、着手金ではない点。又弁護士との書面の取り交わしはないが弁護士の意見とし
 て「追加の弁護士費用は不要」との確認メールあり。
 この問題は最後までかみ合わず、やがて原告団長は控訴からも降りることになる。原告団長は元裁判所事務官で元々は市長の
 応援団であったが、ボートピア反対の一点で訴訟をリードしてきたが、連絡会としては引き留めず最後は混乱した結果となってしまった。
 一方公判は7月~9月の原告本人尋問を控え陳述人と陳述書が絞られていった。
 又7月7日には千葉地裁裁判長の現地見聞も決まった。

 ※文中敬称略・肩書き等は当時のもの
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ボートピア習志野反対運動の経緯⑭(市民連絡会結成1周年集会と裁判)

2013年12月30日 | ボートピア習志野反対運動
※このシリーズは2004年に新習志野駅前に計画された競艇場外舟券売り場建設を巡る当時の反対運動の経緯です。

2005年10月に工事は着工されたが、運動は衰えることはなく、逆にすそ野はさらら広がっていった。
無関心だった人も工事が開始されると関心を持つ人も出てきた。
裁判も東京、千葉で進行して、これを支援することも含め市民連絡会結成1周年集会が10月の世話人会で提案され準備が始まった。
実行委員会が結成され秋津のOが委員長となり10数人の体制で進められた。
開催日は2005年12月3日 場所は新習志野公民館と決まった。
スローガンは「“ボートピア・ノー”の私たちの不退転の決意をいっそう鮮明にし、広く全国の仲間とも手を結んで運動を発展させていくために」
当日集会には約90名が集まり以下の行動提起が採択された。
・長期戦に備えた構え、運動の継続
・原告など運動の中心部分と市民の団結維持
・定期的な集会、リレートークの継続
・メールニュースなどの継続発行
・市長、市議会への抗議及び働き化の継続
※世話人会段階で公正な裁判を求める署名と2007年市長・市議選にBP反対議員を当選させる勝利させる件も
討議されたがいずれも否決。主な理由は署名運動はこれまでの度重なる反対署名で地元が疲弊していることと
選挙は連絡会としては特定候補の応援は趣旨と違うとのことであった。もっともなことではある。
又、「文教都市にギャンブル場はいらない市民の会」(代表木村しず子)が連絡会から脱退。市民連絡会が
リコールに着手しないことへの不満であった。

一方裁判は回を重ね佳境に入ってきたる2005年12月14日東京地裁傍聴20人。12月21日千葉地裁25人。次回は2月。
行政訴訟は5月に判決が出る見通しとなっていた。山場の原告陳述を控え陳述人が絞られ陳述書が作成された。
並行して全市宣伝行動が取り組まれて行く。
2006年1月6日JR津田沼駅前(習志野賀詞交歓会)14人でチラシ400枚
   1月20日実籾駅前5人でチラシ420枚
   1月22日袖ヶ浦ショッピングセンター12人でチラシ250枚、大久保駅前6人でチラシ350枚
その他各戸配布・・・秋津、香澄、袖ヶ浦、津田沼一丁目、谷津1~2丁目、谷津パークタウン
※推進派は誹謗中傷のビラを貼り、連絡会のホームページの掲示板に妨害書き込みが集中した。
  

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ボートピア習志野反対運動の経緯⑬(着工阻止現地行動)

2013年11月05日 | ボートピア習志野反対運動
※このシリーズは2004年に新習志野駅前に計画された競艇場外舟券売り場建設を巡る当時の反対運動の経緯です。

 2005年5月29日議員会館で福島社民党党首(当時)に面会。連絡会より8人が参加。40分にわたり事情を説明し意見交換をした。
 7月16日には大久保地区で集会が開かれ19人が参加して活発な意見交換がなされた。
 7月17日 交量調査委員会が結成され10名が参加、道路調査研究資料を原告団長の土居が分析。
 七中のPTA臨時総会で反対の決議がなされた。
 7月29日警察協議が終了し市に資料が渡される。
 交通量調査と並行して住民の生活実態調査も行い500余世帯より回収した。
 9月3日夜香澄地元集会が開催され20人が集まる。
 工事着工時に備え見張り、着工時には現場前で抗議行動を開き搬入を止めることなどが話し合われる。

 工事着工の準備は進み、10月1日に杭打ちが始まるとの掲示。トラック搬入が行われるとの情報が入る。
 10月1日早朝7時より現場前に40人が集まった。既に新習志野駅前周辺には搬入のトラックが待機している。
 離れた場所には県警のパトカーが警戒している。
 抗議行動は現場正門前で行われ、次々と抗議のリレートーク。
 約2時間ほど行い引き揚げた直後にトラックの搬入が始まった。
※この着工抗議行動の成果としてはトラックの搬入を数時間遅らせたこと。
  これについては様々な評価がある。連絡会内部でも異論もあった。
  何故、入り口前でピケを張って阻止行動をしなかったのか。目に見える阻止行動が行われなかったではないか。
  その通りではある。道路交通法や威力業務妨害の恐れがあったにしても、実力行動は行うべきではなかったのか。
  仮に排除されたとしても住民の意思は目に見える形で示され、ニュースにも取り上げられ裁判の下支えになったはずだ。
  「市民連絡会」に批判的だった「リコールの会」の動きはどうだったのか。この時こそ阻止行動を起こせばリコールの
   弾みになったはずだ。抗議行動には「リコールの会」のメンバーも数人加わっていたが「市民連絡会」と同化してしまっていた。
  
  10月2日日曜日に新習志野駅前で着工反対の抗議集会が開催される。

  10:30頃から署名活動。ビール箱や、プラカード身、拡声器、楽器、紙芝居などを持ち込み昼からの本集会。
  100人超が参加、ボートピア反対運動を行っている甲府から連帯のメッセージ。
  参加者は次々と抗議のアピールを行う。
  推進派議員の黒塗りの車が遠くに止まり、運転手が写真を撮っていたらしい。
  その後現地までデモ行進し、手をつなぎ「人間の鎖」で包囲。
  下記は反対デモの様子を伝える当時のチラシ
  

  10月3日 新習志野駅前で宣伝行動の後、東洋エンジニアリングに抗議。総務部長に署名5,950筆を手渡す。

  着工に対する一連の抗議行動はこれで終わるわけだが、工事は着実に進むことを許してしまった。

  
  ※文中敬称略・肩書き等は当時のもの
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ボートピア習志野反対運動の経緯⑫(訴訟の経過と支援行動)

2013年10月06日 | ボートピア習志野反対運動
※このシリーズは2004年に新習志野駅前に計画された競艇場外舟券売り場建設を巡る当時の反対運動の経緯です。

訴訟と並行して訴訟支援活動や工事着工反対行動が行われた。
2005年6月市内各所で「反対運動1周年集会」が開催された。
最大の集会は6月19日(日)に新習志野公民館で開催された「秋津・香澄6.19報告集会と
終了後建設予定地に向けたデモ行進であった。

   当時の呼びかけチラシ
メインは小田原ボートピアを中止に追い込んだ松本茂の報告であった。
小田原市は古くから小田原城の近くに「小田原競輪場」があるが新たに小田原駅東口前のビル内に
「ボートピア小田原」の場外舟券売場を誘致する計画話が浮上したが阻止した経緯について報告がされた。
訴訟の経緯と今後の見通しについての報告や質疑応答が行われた。
集会終了後、60~70人の参加者は公民館前の広場に集合し用意したプラカードを手に隊列を整え横断幕を先頭に
新習志野駅前を通り、国際水泳場の前を通りボートピア建設予定地に到着した。
隣接する東洋エンジニアリング(ボートピアを運営するテックエステートの親会社)の前でシュプレヒコール
を上げ、申し入れ書を手渡した。休日のため担当責任者はおらず、守衛を通してということになった。
その後新習志野駅前に戻り、簡単な総括を行い最後にシュプレヒコールの声をあげて解散した。
その後小田原の松本茂を交えて近くで交流会が開かれた。

訴訟の理由の一つとしてボートピア開業に伴う、幹線道路を中心とした渋滞が挙げられていた。
ボートピア建設側は渋滞に関する資料を出していたが、原告側も独自に渋滞の予測を調査することとなった。
原告団長の土居が中心となり取りまとめて行った。秋津の集会場で調査団の結成と役割分担が行われ
新習志野駅前交差点や香澄交差点、など数か所と遠くは船橋に近い若松交差点も対象となった。
夏の暑いさなか、数日にわたり住民数十人が交通量や渋滞の長さなどの調査を行った。
調査資料は裁判所に提出された。
この調査をめぐっては渋滞にあまり手間と時間をかけるべきでなく建設阻止へ向けた他の行動に注力すべき
という意見もあった。開業後現在に至るまでボートピアが原因の目立った渋滞はなく、結果としては調査は
意味を持たなかったが、当時としては戦えるものは全て行うということで止むをえない事であったかも知れない。
それ以上にボートピア習志野の入場人員が予想を遥かに下回り少なかったということもある。

※文中敬称略・肩書き等は当時のもの
次回は公判とボートピア着工に対する現地反対行動。 

ボートピア習志野反対運動の経緯⑪(訴訟)

2013年09月08日 | ボートピア習志野反対運動
※このシリーズは2004年に新習志野駅前に計画された競艇場外舟券売り場建設を巡る当時の反対運動の経緯です。

 訴訟の検討は「市民連絡会」結成前後から始まっていた。どのような形で訴訟に持ち込むことが可能か
過去の判例を参照しながら検討された。訴訟の検討や原告団は秋津の土居利徳が中心となって進めた。
土居は元裁判所の書記官であり住民の中では訴訟に明るいということと、秋津五丁目自治会から別途
秋津五丁目町会ボートピア反対特別委員会を作り会長となりボートピア反対を町内ぐるみで進めてきた。
秋津五丁目は当時大半の家々にボートピア反対市民連絡会のポスターが貼られていた。
同町会はW、Sを始めとしたとした活動的な住民が中心となり署名はやカンパなどを集めていた。
 訴訟の検討については住民の一人が繋がりのあった早稲田大学の法学部の教授、学生でつくり無料で
相談を受け付けてくれる「民事クリニック」に持ち込まれた。。「民事クリニック」はこの事件を受任
することに当初は否定的であった。原発や有害工場ならともかくギャンブル場という特性は訴訟に馴染まない
ということが理由であった。しかし学生がチームを作り判例・法令・事例を調査するうちに周辺住民の通行人格権
の侵害やモーターボート競争法の既定の不備などに該当するのではないかということになった。
丁度2005年4月から改正行政事件訴訟法が施行され行政訴訟に対する機運が盛り上がっていた時期でもあった。
2月13日には地元の環境問題などで住民との関係が深い弁護士も出席した訴訟の説明会が開催された。
 訴訟の準備は急速に進展し、「市民連絡会」とは別途「訴訟委員会」が結成され近隣住民を中心とした原告団を募った。
同時に訴訟費用(年間100万円)が必要でありカンパ活動が行われた。
3月29日原告団集会が袖ヶ浦自治会館で行われ原告団の区分けや最終確認がなされた。
香澄小学校PTA会長に就任したYも原告となり市民連絡会に加わり、同小学校のPTAに大きな影響を与えた。
 「住民投票条例」が議会で不採択となった直後の2005年3月31日に訴訟が千葉地裁、東京地裁に提訴された。
●場外発売場設置確認を定めるモーターボート法施行規則(国土交通省令)第8条の違法確認及び同条に基づく
 確認処分の予防的差止めを求める行政訴訟・・被告国及び国交大臣(東京地裁)
 ★モーターボート競争法施行規則第8条の違法確認
 ★国交省によるボートピア習志野設置確認の差止め
 ★賠償金の支払い
●建設工事の差止めを求める民事訴訟・・被告テックエステート(千葉地裁民事第一部)
東京地裁に対する行政訴訟は原告31人、千葉地裁に対する民事訴訟は原告64人であった。
原告団弁護士は小島延夫弁護士を主任に総勢6人の弁護団となった。
 ★ボートピア習志野設置の差止め
 ★賠償金の支払い
 2005年4月27日に民事訴訟の第一回公判が千葉地裁で開かれ50~60人の住民が傍聴した。
 原告団を代表して市民連絡会事務局長の常岡が陳述をした。地元問題、交通問題などを訴えた。
 2005年6月8日に行政訴訟の第一回公判が東京地裁で開かれ約50人が傍聴をした。
 ボートピア予定地隣接の千葉工大教授近藤弘が陳述を行った。

下記は東京地裁第一回公判に集まった原告団の写真の入ったチラシと香澄の道路沿いの住民の自宅に建ったボートピア反対の大看板(今でも建っている)


「市民連絡会」はメール・ファックスニュースを随時作成し訴訟や反対行動の情報を幅広く流した。
 当時のメールファクスニュースの一部


※文中敬称略・肩書き等は当時のもの
次回は公判の流れとボートピア着工に対する現地反対行動。