Blog満賊亭

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墓マイラー@松蔭寺

2013年10月19日 | 飛耳長目
臨済宗を中興した白隠禅師。500年に一人と謳われた名僧のお寺は地元にありまして、ちょいと沼津まで出張り調べてきましたぜ。
沼津はJR原駅北口から500mくらい。立派な参道の先に目指す「松蔭寺」がある。

駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれた白隠

地図にある通り、この近くで生まれた白隠は、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて悟りを開くも満足せず、修行を続け、のちに病となるも、内観法を授かって回復し、信濃(長野県)飯山の正受老人(道鏡慧端)の厳しい指導を受けて、悟りを完成させた。また、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救ったとある。(Wikiより)

以後は地元に帰って布教を続け、曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。 現在も、臨済宗十四派は全て白隠を中興としているため、彼の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦している。
寺の境内はこんな感じ。地方のお寺としては立派ではあるが…

入り口前の地図以外、説明書きらしきものが見当たらない。
「あれ?ここだよね?」と探していたら、切り出した大きな大木の裏にひっそりと。

ちょっとさびしい感じ。確か、有名な逸話になっている「擂り鉢松」はどこ?

■擂り鉢松他サイトより)
享保2年(1717年)に松蔭寺の住持となったが、その学識や人柄を慕う者が多く、松蔭寺が旧東海道に面していたこともあって、参勤交代を行う大名にもファンがいた。その1人が備前国岡山藩主の池田侯(第3代池田継政?)だった。

いつものように、池田侯が東海道原宿を通ると、白隠禅師を訪ねて禅談義などを交わした。帰りしなに、池田侯が禅師に寄進を申し出たところ、禅師は「特に欲しい物はないが、先ほど小僧が擂鉢を毀してしまったので擂鉢が欲しい」と答えた。禅師の無欲さに感じ入った池田侯は、大きな備前焼の擂鉢数個を届けた。

あるとき、松蔭寺の境内の松の木が台風で折れてしまった。白隠禅師は、その折れた枝に池田侯から贈られた擂鉢を被せておいたところ、松はそのまま大きく育った。一説には、松の木の折れたところから、血のような赤い液体が流れ出ていたともいう。この松を「擂鉢松」といい、東海道の名物ともなった。

う~む…どれだ?探すこと15分。
あっ…あれか!(松のてっぺんに擂り鉢らしきものがある…よね?)

これは気付かないね…^^;
現在のものは一度交換したらしい。

でも、松の下には説明書きはなく、表題の写真の白隠禅師だと思われる石像があるのみ。
下調べせんとわからないねぇこれは^^;

そして白隠禅師の眠るお墓へ…ところが
これまたわからない(;*д*?)ドレ?

結局、スマホに助けてもらい、ようやく発見。こちらがそうらしいのだが、真中と思いきや

正解は一番左だそうで…(;^人^)


お墓からふと空を見上げると見事は富士山が。

駿河の国に過ぎたるものの二つを同時に拝見することができちゃうスポット(?)

ただ、これだけの名僧が出たお寺でありながら、やけにさびしい。
そんなはずは…と目についたのがこれ


「う…鳴らすべきか鳴らさぬべきか」

あれこれ考えたが、30分近くいるのに境内には人っ子一人なく、数多く残したとされる達磨様の展示もなさそうなのでこれにて撤収。白隠時代には相当な貧乏寺であったことと白隠の教えを考えると、質素なままの方が趣があるかもしれないが、書画においても見事な腕をもつ白隠禅師。白隠展などは全国でも開催されるほどなので、も少し継続して調べてみようと思います。

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