院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

続・芭蕉の俳句がわからない!

2017-09-01 09:35:04 | 俳句
 日本でもっとも有名な俳句は「古池や蛙とびこむ水の音」(芭蕉)でしょう。しかしながらお恥ずかしいことに、私にはこの俳句の良さがわかりません。いや、芭蕉の俳句はすべて私には、そんなによいとは思われないのです。(この記事は「芭蕉の俳句がわからない!」2015-07-20 の続きです)。

 現代気鋭の俳人、長谷川櫂氏によれば、和歌の時代から「蛙(かわず)」と言えば声のことを指しており、「水の音」に着目したのは革命的だったのだそうです。和歌の素養がない私は「そうなのか」と聞くしかありません。

 ついでに私は蕪村の俳句もあまり理解できません。「さみだれや大河を前に家二軒」はある程度「いいな」とは思いますが・・。

 千代女の「朝顔や釣瓶取られてもらひ水」も、さほどとは思えません(あとで「朝顔や」に替えたようです。「朝顔に」ではありません)。小学校時代、千代女の朝顔を切らないやさしい心情が出ていると教わりましたが、そんなに浮世離れした句でもないようです。そんなことをしていたら、朝顔が枯れるまで井戸が使えないことになります。

 私が打たれるのは、やはり虚子の俳句ですね。「遠山に日の当たりたる枯野かな」なんて、すごい着眼点ではありませんか!

 じつは虚子の師である子規もつまらないと思っています。「子規は駄句の山を築いた」と考えている俳人は多いようです。「鶏頭の十四五本もありぬべし」というそのまんまの句を短歌界の人が称揚したこともあって、「鶏頭論争」2012-12-13を招きましたが、私はこの句をよいとは思いません。
  
 久保田万太郎や能村登四郎はいいですねぇ。

 湯豆腐や命のはてのうすあかり  万太郎
 春ひとり槍投げて槍に歩み寄る  登四郎

 でもやっぱり芭蕉は理解できないなぁ。


(枯野の景色。「足成」より引用。サカタノタネ氏撮影)。

 ※私の俳句(秋) 
    聴き流すことも処世よ露の秋