goo blog サービス終了のお知らせ 

院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

「踏み絵」の役割

2015-01-18 05:46:44 | 歴史

(踏み絵。ウィキペディア「踏み絵」より引用。)

 俳句とは関係がなさそうに見えますが「踏絵」は春の季語です。毎年、正月4日から長崎奉行所などが人々に踏み絵を踏ませるのが恒例だったからです。

 私は踏み絵を踏めないとキリシタンとみなされ、拷問を受けたり処刑されたりするものだとばかり思っていましたが、じつはそうでもないようです。

 つまり、たとえキリシタンであっても彼らを放免するために、踏み絵を踏みさえすれば目こぼしをする目的でも絵踏みは行われていたらしいのです。史実の意味にはつねに二面性があるので注意しなくてはなりませんね。


※今日、気にとまった短歌

  赤い顔淡し産衣の生まれ子に未来があると強くは言はず (京都府)松岡九十九

九州二泊旅行(高千穂町)

2015-01-08 00:12:04 | 歴史

(高千穂町の夜神楽。高千穂町のHPより引用。)

 二日目はニニギが天下ったとされる高千穂町へ。アマテラスがこもった天岩戸が残っていますが、天岩戸といわれる遺跡は各地にあります。年末年始のことで資料館が休みだったので、神話にまつわる遺跡や遺物が本当にあるのか確認できませんでした。(資料館には矢じりなどが陳列されているそうですが、矢じりは日本各地で出土しますし。)

 この地の重要無形文化財として夜神楽があります。神楽もとりたてて珍しいものではありません。私が幼いころには東京の末社でも神楽をやっていました。

 神楽は巫女が神に奏する舞です。じつは能にも曲によって神楽がでてきます。シテが神楽を舞っているうちに次第に神がかりになってくるという筋立てです。巫女(シテ)は幣をもって舞いますが、神そのものになってもまだ幣をもっているのはおかしいと、元東京芸大教授の横道萬里雄氏は指摘しています。(だからか、幣の代わりに扇をもつ流派もあるそうです。)

 能の中で神楽舞にはいると囃子が変わり、笛の音が揺れ、小鼓が低音を打ち続けるようになります。この囃子は、神社の神楽の囃子とはぜんぜん違う音楽です。能の神楽の囃子は巫女の鳴り物を模しています。(正直なところ能の神楽に比べて、夜神楽は洗練されていません。)

 要するに、高千穂旅行はまったく詰まらないものでした。ただ一点、泊まった「神仙」という旅館が、建築も料理も仲居もきわめて良質で、東京や京都の名のある料亭のようだったことが救いでありました。


※今日、気にとまった短歌

  今朝もまた鼻くつつけておはやうと言へばひんやり遺影の吾子よ (小田原市)陌間みどり

九州二泊旅行(熊本市)

2015-01-07 06:12:17 | 歴史
 日本史で詳しいのは奈良、京都、鎌倉といった都のことばかりで、秀吉家康以前の地方の歴史はほとんど知られていないと言ってよいでしょう。

 熊本では細川家が有名ですが、細川家が熊本に入ったのはわずかに加藤(清正)家が断絶した後で、羽柴秀吉の導きによるものでした。それ以前は、菊池家など10ほどの豪族が割拠していたとしか分かっていません。

 もっと遡ると、いきなり古代の古事記、日本書紀に行ってしまい、熊襲(くまそ)が支配していたとなります。熊襲と熊本そして球磨川という名称は互いに関係がありそうですが、それ以上のことは分かりません。

 熊本市に一泊しました。熊本城や水前寺公園はいまさらご紹介するまでもないでしょう。熊本市街で有名なのは、バス会社各社の路線バスが行列をなすことです。下の写真は尻尾のほうまでは見えませんが、なんと11台のバスが数珠つなぎになっているところです。



(馬刺しは非常にうまかったです。これまで食べたことがない馬刺しでした。)


※今日、気にとまった短歌

  祖父だった祖父だった
  このただの灰
  祖父だった驚くことに

  (茨城県立下妻第一高等学校)坂入葉月



トルコがものすごい親日国なのはなぜかご存知ですか?

2014-10-28 00:06:22 | 歴史

(株)デスティネーションコンサルタンツのHPより引用。)

 明治23年、串本沖でトルコ船が難破したとき、地元漁民がトルコ人乗組員を献身的に救助し、日本海軍がトルコまで送り届けたことがあります。以来、トルコは親日的になったという説がありますが、じつはそれだけではないようです。

 日本は明治38年に日露戦争に勝利しました。それまでトルコは欧州の白人世界に痛めつけられてきました。日本という黄色人種の小国が白人国家ロシアをやっつけてくれたと、トルコは一層親日的になったという話があります。

 さらに続きがあって、日本は第2次世界大戦に負けましたが、トルコでは「日本は負けると分かっていても戦って、最初から降参をしなかった」と称賛されたそうです。

 むろん、以上は伝聞に過ぎません。

 イラクの湾岸戦争のおりに、邦人救出を日本の航空会社が渋っていたら、トルコ航空がさっさと日本人救出をやってくれました。そのとき、トルコが親日的だというのは本当なんだと思いました。

 現在のトルコ国民はどうかというと、日露戦争どころか串本沖の難破事件も知らないそうです。ですから、トルコが現在でも親日的だというのは、もはや伝説に過ぎないのかもしれません。

人間に向いた仕事なんてない!

2014-09-26 00:02:39 | 歴史

ニュートピアのHPより引用。)


 新入社員で「この仕事は自分に向いていない」と3か月以内に退社してしまう若者が多いそうです。ここで、私は「自分に向いている仕事なんて元来ない!」と主張しますが、だからと言って「辛抱が足りない!」と言いたいわけではありません。

 そうではなくて次のように言いたいのです。「現代社会において、人間に向いている仕事なんてない!」と。

 人類は7万年くらいは狩猟採集で生活をしていました。約5千年前から農業を始めたのがいけないのです。(ここからは昔からの私の読者には自明のことですので、読み飛ばしてください。)

 移動しながら動物や植物を採って食べる、というのが元来の人間の働き方でした。ところが農業が始まってから人間は定住を余儀なくされ、半年先の秋の実りを想像しながら春に種をまくという、たいへんな抽象労働を行うようになりました。抽象労働はもともと人間には向いていないのです。

 さらに近代以降、機械文明が発達して、やり投げや小川を跳んで跨ぐことが上手な人よりも、言葉で他人を操る人のほうが価値があるという奇形的な世界が現出しました。

 このような現代の労働に向いていない人のほうが健康だと私は思います。仕事の構造が極端に抽象的になって、人間世界の全員が仕事の局所しか取り扱わないようになりました。本来は獲物を獲って捌いて料理するまで、すべてが見通せたのです。これらが見通せない仕事なんて、人間には耐えがたいものです。

 適者生存の法則で、耐えがたい世界でも生きていける人間が生き残ったのではないでしょうか?しかし生き残った人間でも、わずかに残されている原始の心は「いやだいやだ」とわめいているように思えてならないのです。

防災の日に寄せて

2014-09-02 00:07:44 | 歴史
 私は「戦争を知らない子どもたち」です。父母は「(関東大)震災を知らない子どもたち」です。

 私は先の戦争のことを父母から聞いて知っています。関東大震災のことは祖父母から聞きました。

 俳句では戦争が終わった日を「終戦日」と呼び、秋の季語です。防災の日を俳句では「震災忌」と言います。それらをリアルに体験した人から聞いていますから、私は「終戦日」、「震災忌」という季語で俳句が詠めます。

 でも、私たちの孫の世代は、また聞きでしかそれらを知りません。実際に体験した人からのビビッドな伝達を受けられなかったのです。

 近所に住んでいた仕立て屋(テーラー)の小父さんは、関東大震災のとき山の手に逃げて、下界を見ると火の海だったと、興奮して幼い私に語りました。

 父は着もしないのに、そのテーラーさんから毎年、決まったようにスーツやオーバーを2着買っていました。それが町内の約束事でした。

 そうした約束事が残っていないのに、「終戦日」や「震災忌」だけが大威張りで生き残るはずがありません。防災の日に、理由も分からずに防災訓練をさせられている孫たちにとって、それらは「大化の改新」と同じくらい過去のことでしょう。

非武装は戦争を防ぐだろうか?

2014-08-27 05:02:30 | 歴史
 先日(2014-06-26)、ポルノは性犯罪を助長するのか防ぐのか、ほんとうははっきりしないと述べました。ポルノによって劣情を募らせ性犯罪に及ぶこともあるでしょう。ですが逆に、ポルノのレベルで性欲が満足させられて、多くの性犯罪が予防されているかもしれません。(友人は、今のネット上でのポルノの氾濫が、草食系男子を作ったと解釈していました。)

 軍事力にも同じことが言えます。軍事基地は最初に叩かれますから、地元への基地誘致を地元住民は当然反対します。一方、反撃能力が十分にある国を、他国はうかうかと攻撃することはできません。このように軍備は攻撃を招いたり抑止したりします。マスコミでは両者がごちゃ混ぜに論じられているので、整理しなくてはいけません。

 満州に住んでいた日本人が、敗戦後ひどい目にあったのはロシアが侵攻してきたからです。なぜ、ロシアが条約を破って攻めてきたかというと、関東軍がすでに烏合の衆になっており反撃能力がなかったからです。(そのころ兵として満州に投入された父は、戦わずしてロシアの捕虜となり、シベリヤに2年間抑留されました。)

 歴史上、軍事力が弱くて辛酸をなめたケースは多々ありますが、軍備をもたなかったから相手が見逃してくれたというケースがあるでしょうか?(アメリカに威圧されたハワイ王国は軍備がなかったために、乞われて東郷平八郎の海軍が一時味方をしました。が、日本海軍は日清戦争中だったこともあり、けっきょく島民の武装蜂起はすぐに鎮圧され、島民の大虐殺が行われました。その後、ハワイ王国はやすやすとアメリカに併合され、パールハーバーの大海軍基地の建造へと繋がったのでした。)

 国際関係はもっと歴史に学んで科学的に考えなくてはなりません。非武装を唱え、すべて話し合いで解決するべきだと主張する人々は、歴史上にそのような幸せな事例がどれだけあったか、科学的に立証する義務があるでしょう。

終戦記念日に寄せて(2)(負けを認めると見えてくるもの)

2014-08-19 05:31:30 | 歴史
 先の大戦はまだ総括されていないと言われます。ここでいう「総括」とは、日本の戦争責任とか日本がいかに悪いことをしたか、ということをきちんと言語化することのようです。(そんなこと、できっこありません。戦争はお互い様なのですから・・。)

 戦争に善玉も悪玉もありませんが、勝ったほうはすべて負けた方が悪いことにしてしまいます。これは常識です。勝てば官軍という言葉があるように、戦勝国の好き勝手はいま始まったことでことではありません。

 先日、広島の原爆記念日の項目でも述べましたが、アメリカ軍に何十万という非戦闘員を殺されても、式典でのアメリカ批判はタブーとなっています。石碑には「過ちは繰り返しませぬから」と刻んであって、この文の主語は誰であるかが問題となったりします。何十万人殺されても、アメリカに恨み言ひとついえない。これが戦争に負けるということです。

 「戦後、アメリカの圧倒的な豊かさを見て、こんな国と戦争しても勝てっこない。愚かな戦争だった」とか「物量から言って勝ち目はなかった」なぞと、あとづけの感想がしきりに聞かれますが、(変な言い方ですが)これは負けたから言えることです。もし、仁科博士らの学派がアメリカより先に原爆を開発していれば、勝ったかもしれません。

 日本人は負けたことを、もっと受け入れる必要があります。「敗戦」を「終戦」と言い直して、ひどい負け方の感じを薄めたのはだれでしょうか?日本が敗戦国であることを、きちんと意識すると、基地問題や国際問題で意味が分からない部分が、あっそうか!と分かることがあります。

 ロシアの裏切りと見えるシベリヤ抑留や北方領土の占領も、軍事力のバランスから生まれたもので、ロシアが一方的に不可侵条約を破ったと責めるのは、あまりにお人好しです。条約を破っても誰からも非難されなければ、条約はいつでも破られます。国とはサイコパスと同じですから、そのように付き合わなくてはなりません。

    終戦と言はぬ男の敗戦日  詠み人知らず

終戦記念日に寄せて(1)(戦争は負けるとひどい目にあう)

2014-08-18 06:03:26 | 歴史

(ウィキペディア「大阪大空襲」より引用。)

 最近の新聞から拾った言葉。「生きたまま焼かれた」(80歳、男性)、「機銃掃射から逃げた」(82歳、男性)、「勤労動員で照明弾を作った」(83歳、男性)。これらの言葉から「戦争はイヤだ」、「二度と戦争をしてはならない」という結論が導かれます。

 みなさん、言っていることはまことに正しいのですが、私はふと考ます。先の大戦にひどい負け方をしたから、こういう言葉が出てくるのではないでしょうか?もし勝っていたら、同じ人がいまと同じことを言ったでしょうか?

 ローマ軍によるカルタゴの完全破壊、平家の全滅、南アメリカ大陸の完全スペイン、ポルトガル化。いずれも、負けた方は徹底的にやられました。戦争とはそういうもので、負けた側は滅亡します。あるいは、言語や文化を失ないます。奴隷にされるかもしれません。

 いつぞや述べましたが、亡父はシベリヤ抑留を経験し、母は東京大空襲に襲われました。シベリヤでは極端な食糧不足とロシア兵による理由にもならないことでの処刑。東京は10万人が死に、焼け野原となりました。だから2人とも「戦争はつらかった」とは言います。しかし、なぜか「二度としてはいけない」とは言わないのです。

 私には2人とも「負けたんだから仕方がない」と諦めているように見えます。つまり、「勝っていれば、こんなことにはならなかったのに」という含みがあるように感じるのです。

 だから、冒頭のお年寄りたちの発言から導き出されるのは、「戦争をしてはいけない」ではなくて、本当は「戦争は負けてはいけない」ということではないでしょうか?

 日本が日露戦争にぎりぎりで勝ったとき、国民は提灯行列をして盛大に祝いました。ぎりぎりの戦勝でしたから、ロシアからこれ以上の賠償は取れません。それ対して民衆は「政府はなまぬるい」といきり立ち、日比谷焼打ち事件まで起こしたのでした。日露戦争でも戦死者はたくさん出ました。栄養状態が悪く、陸軍では2万人もの兵が戦争ではなく脚気で死に、それなりに悲惨でした。

 それでも「悲惨だ」、「イヤだ」、「二度と戦争をしてはならない」という声は聞こえませんでした。戦争に勝つと、国民は戦争に反省なんかしません。逆に「もっとやれ」と言うのです。ですから、いまお年寄りが先の大戦を「間違っていた」と感じるのは、戦いに負けたからに他なりません。

 私は戦争奨励論者ではありませんが、故山本夏彦翁の「春秋あるべし自然なら」、「最後は暴力の出る幕だ」という言葉が理解できるのです。

原爆記念日に寄せて--戦争に負けるということ

2014-08-08 06:40:53 | 歴史

(碁盤の裏側。朝日新聞デジタルより引用。)

 碁盤の裏側の中心に四角い溝が掘ってあります。これはなんのためにあるのかご存じですか?4本ある碁盤の足のうち1本だけ抜けるようになっています。それも、いったいなんのためでしょうか?(抜ける足の見えない部分には作者の銘が掘ってあります。)

 一つの伝説ですが、囲碁に勝った方が碁盤の抜ける足を抜いて、その足で負けた方を殴り殺すのだそうです。そして最後に、負けた方の首をはね、その生首を碁盤の裏側の中心に置きます。中心に掘られた溝は、生首から流れる血の血溜めだとのことです。

 勝負とは生きるか死ぬか、という厳しいものだという教えです。

 アメリカは日本に原爆を落として、一挙に何十万人という非戦闘員を殺しました。ほとんど勝っていた戦争を、アメリカは原爆で駄目押ししたのでした。

 このたびの広島の原爆記念日には、キャロライン・ケネディ駐日大使とジョン・ルース元駐日大使が初めて参列しました。ルース元大使は、アメリカにいたまま論評だけしている方がどんなに楽か、と複雑な心境を覗かせています。

 原爆記念日の式典では、毎回そうですがアメリカに対する恨み言は一言も出ませんでした。ニュース報道でも、加害者であるアメリカの「ア」の字も出ませんでした。原爆投下はまるで加害者がいないかのようです。日本への原爆投下は、アメリカの庶民の間では、日本軍の横暴から東南アジアを救ったとか、双方でさらに多くの犠牲者が出るのを防いだということになっています。

 でも、なんと言われようとアメリカに恨み言を言うことはできないんです。アメリカの属国のような扱いをされても、アメリカの都市に韓国の慰安婦像を建てられても(これはアメリカ市民の賛成がなければできないことです)、文句ひとつ言えない。

 これが負けるということです。負けた方は惨めな思いをするしかないのです。戦争とは古来そういうものではないでしょうか?

「いつか来た道」とは何か?(2)(第一次世界大戦)

2014-07-16 00:00:21 | 歴史

(ウィキペディア「第一次世界大戦」より引用。)

 第一次世界大戦は、各国が総力戦を行った初めての戦争です。戦車、飛行機、毒ガスが初めて使用された戦争でもあります。犠牲者数は太平天国の乱に続く歴史上2番目という悲惨なものでした。

 この戦争に至る過程を「いつか来た道」と呼ばないのはなぜでしょうか?第二次世界大戦とは25年ほどしか離れていません。

 「いつか来た道」が問われないのは、日本が第一次世界対戦に勝ったからだと思われます。第二次大戦では負けたから戦前が反省され、指導者が責任をとらされたのではありませんか?

 企業でも成功すれば首脳陣が称えられますが、失敗するとボロクソに言われます。戦争も同じだったのではないでしょうか?

「いつか来た道」とは何か?(1)(国防婦人会)

2014-07-15 05:30:25 | 歴史
(新潮社刊。)

 上の本は30年近く前に出版されたものです。「いつか来た道」という言い方は当時からありました。そして、戦前は暗黒時代だったと言われていました。ところが上の本には、戦前だって暗くはなかった、娘たちは箸が転げたといっては笑っていた、とあります。著者はとうぜん戦前に大人だった人です。

 いま80代で、思春期に戦争を経験した人たちが「誤った戦争」と言っていることに、きのう私は疑問を呈しました。彼らは戦後の空気に迎合しているのです。戦後生まれの私たちは、戦争経験者が言うことを信じてしまいがちです。しかしながら、時代の空気に迎合する人たちがいつの時代にでもいることを、私たちは知っておくべきでしょう。

 戦時中、「国防婦人会」という団体があって、「ぜいたくは敵だ」という標語のもと(ぜいたくとされた)長い袖の着物で街を行く女性をつかまえて、はさみで袖を切って辱しめたのだそうです。その女性団体は当時の時代の空気に迎合していたのだと、私は思います。

思春期に先の大戦を経験した人たちの投書

2014-07-14 06:13:43 | 歴史

(空襲警報発令・警視庁玄関前。ウィキペディアが『警視庁百年の歩み』(著作権切れ)から引用したものからの孫引き。)

 このたびの集団的自衛権行使の賛否にからんで80代半ばの人たちの発言を、新聞が投書欄に取り上げています。

 80代半ばの人々は先の戦争を思春期に体験しています。彼らの意見の中でも、新聞は「先の戦争は悲惨で、誤まっていた」という見解をもっぱら採用しているようです。

 ところが86歳の私の母の感想は違います。東京大空襲を経験している母は、「とにかく大変だった」とは言います。しかし、「誤った戦争だった」とは言いません。母の意見は「戦争に正しいも誤ったもない」ということです。投書者の「誤っていた」という感想は、あとから教育で刷り込まれたものではないでしょうか?

 亡父が満州でロシア軍の捕虜になりシベリヤ送りになったことは 2008-08-13 に書きました。亡父はシベリヤでの抑留生活がいかに苛烈だったかを私に語りました。しかし、亡父もまた「誤った戦争だった」とは言いませんでした。

 亡父にとって、戦争とは勝つか負けるかのどちらかで、負けるとはこういうことかと亡父は骨の髄まで分かったそうです。負けたから「誤っていた」と総括されましたけれども、勝っていたら戦争に対する評価はまた違っていただろうと、私は推測します。

 「誤っていた」と投書した高齢者は、もし勝っていたら同じ口から戦争賛美の言葉を言ったことだろうと、私は思います。

※今日、気にとまった短歌

  前後の子等おのおの傘をさしていて母は合羽で自転車をこぐ  (横浜市)宇佐美伸子

昭和レトロはなぜ懐かしいのだろうか?

2014-06-15 00:12:12 | 歴史

(金沢の古い床屋。)

     土雛を昭和レトロの覚えとす  ひとし

 昭和レトロが懐かしいのは何故だろうか?昭和時代は長く、その時代を過ごした人が圧倒的に多いから、懐かしむ声も大きくなるのだろうか?

 愛知県犬山市に「明治村」という明治時代の建築を展示した野外博物館がある。これも昭和レトロに劣らず懐かしい。私が幼いころにまだ現役の建物だったからからだろうか?

 「明治村」と類似の施設に民間が経営する「大正村」があるけれども、こちらはなんとなく惹かれず、まだ行ったことがない。「明治村」は名古屋に住んでいたころ、何回も行ったが。


(明治村正門、旧八高正門。明治村のHPより引用。)

NHKドラマ『東京が戦場になった日』を見て

2014-03-16 00:23:55 | 歴史
 表題のドラマは東京大空襲を、警視庁消防隊を軸にして描いたドラマである。泣けた。

 母は、広島の原爆で30万人が死亡したことがテレビで回顧されると、「東京大空襲でも10万人が死んだんだよっ!」とムキになることがあった。母は東京大空襲を経験している。

 そのころ父は満州にいた。敗戦後、シベリアに抑留され、2年後に生還した。父はロシア兵への恨み言は語らなかった。日本が戦争に勝っていたら、日本も同じようなことをしただろうと考えていたフシがある。

 母はまだ存命で東京にいる。父は20年以上前に死去した。妹はそのまた20年以上前に小学校6年生で死去した。

   父偲ぶ妹偲ぶ梅見酒  ひとし