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急逝から12年のZARD坂井泉水 テレサ・テンと交わった数奇な運命
2019.5.27 11:00
ZARDの坂井泉水さんが亡くなって、12年がたった。平成19年5月27日、40歳で死去。前日、ガン治療のため入院中だった病院内のスロープから転落して、脳挫傷を負い、そのまま息をひきとった。
その作品は今も多くの人に愛されている。代表作「負けないで」は「24時間テレビ」(日本テレビ系)のマラソンや高校野球の応援歌として定番化。今年4月には「ZARDよ永遠なれ 坂井泉水の歌はこう生まれた」(NHKBSプレミアム)が放送された。
このドキュメンタリーでは、彼女が作詞をするために書き溜めていた膨大なメモの一部が紹介され、「負けないで」の「視線がぶつかる」「走りぬけて」といったフレーズがそれぞれ「目と目が合った様な」「あきらめないで」からギリギリで書き改められた話などが明かされた。そこには恋のときめきや不安に人一倍敏感で、それをひたむきに言葉で表現しようとしていた王朝歌人のような姿が浮き彫りにされていた。
ただ生前、メディアにほとんど登場しなかったこともあって、その魅力の源泉はまだベールにつつまれている。たとえば、故・テレサ・テンさんとの不思議な縁などもあまり語られないことのひとつだ。その話をする前に、彼女がZARDになるまでのキャリアを見ておくとしよう。
■「最強の二番手」としてのスタート
坂井泉水こと蒲池幸子(本名)は、子供の頃から歌が好きで、ピンクレディーや松田聖子、河合奈保子をマネしたりしていた。部活は陸上やテニスで活躍、高校の文化祭では「ミス」にも選ばれている。短大卒業後、バブル景気を謳歌していた第一不動産に就職するが、街でスカウトされたのを機に芸能活動を始め、約2年で退社した。
その後、東映カラオケクイーンに選ばれてカラオケビデオに出演したり、岡本夏生らとレースクイーンをやったりしたものの、目標はあくまでも歌手。ドラマやバラエティのちょい役をこなしたり、セミヌード写真集を出したりしながら、チャンスをうかがった。そんななか、大きな転機が訪れる。23歳のとき、B.Bクィーンズのコーラスメンバーを決めるオーディションに挑戦、ビーイングの総帥・長戸大幸に認められたのだ。
とはいえ、このとき選ばれたのは宇徳敬子で、落ちた彼女には別のソロプロジェクトが用意されることに。それがZARDだった。思えばここから「最強の二番手」としての彼女の歌手人生が幕を開ける。表舞台で派手に歌い踊るのではなく、時代にひっそりと寄り添いながらその伴奏をするようなスタンス。そこに彼女は、見事にハマっていくわけだ。
そんな方向づけについて、長戸自身がこんな発言をしている。2年前にAERA dot.で連載された「永遠の歌姫 ZARDの真実」(神舘和典)からの引用だ。
「プロデューサーとして坂井さんに求めたのは“平成に生きる昭和の女”です。昭和の中盤から後半にかけて、歌謡曲やJポップで歌われ続けた、愛する男性の夢のためには身を引く女性です。(略)髪型も変えず、そのコンセプトを最後まで変えなかったことが、数多くの大ヒットを生み続けたと感じています」
まるで、テレサ・テンの歌のヒロインみたいだが、じつはこのオーディションで彼女は「つぐない」を披露していた。また、カラオケでは同じくテレサの「別れの予感」もよく歌っていたという。そして、彼女の前に「最強の二番手」だったのがまさにこの「アジアの歌姫」なのだ。
■「露出」を武器にしていた森高千里
テレサは昭和59年から3年連続で日本有線大賞を受賞。日本レコード大賞ではなく「有線」だったあたりが「二番手」たるゆえんで、当時、歌謡界の中心には松田聖子や中森明菜がいた。その影に隠れながらも、確実に支持を集めていたわけだ。そういうスタンスに、ブレイク後の坂井泉水が重なるのである。
というのも、彼女が世に出て行こうとしたとき、Jポップシーンではひとりの美人シンガーが脚光を浴びていた。森高千里だ。自ら手がけた等身大の詞を澄み切ったボーカルで歌うところは似ているが、こちらはミニスカ姿で歌番組に出たりライブをやったりという「露出」も武器にしていた。その露出を極力避けることで、坂井は差別化に成功する。本人があがり症で体調不安も抱えていたという事情もあるようだが、意図的な戦略でもあっただろう。
なぜなら、ビーイングはすでにあるものをヒントにして似て非なるものを作り出すのが得意だからだ。サザンオールスターズからTUBEを、BOØWYからT‐BOLANを、のちには宇多田ヒカルから倉木麻衣を、というように。そこには長戸のこんな哲学があった。昭和58年、ビーイング設立から4年半後の発言だ。
「物事をより展開するときに、すべてを否定して同じものをつくったら、まったく違うものができるでしょう」(『よい子の歌謡曲』13号)
ここでいう「すべて」とは「最大の武器」とか「秘められた本質」といった意味だろう。坂井は「露出」を避けただけでなく、森高が当初かもしだしていた「人工的な多幸感」とはウラハラの「ナチュラルなのに薄幸な感じ」をどことなく漂わせていた。その後、森高が妻となり母となり、坂井がああいう最期を迎えたことで、両者は似て非なるものという印象がいっそう強まることになる。
ただ、1990年代という区切りでいえば、坂井泉水は最も多くCDが売れた女性歌手だ。「最強の二番手」を超えた「真の女王」でもあったのである。
■謎の死を遂げたテレサ・テン
さて、彼女が世に出た頃、テレサ・テンは不遇な日々をすごしていた。台湾出身で中国の民主化運動を支援していたため、平成元年に起きた天安門事件に深いショックを受け、パリに移住。恋におちた14歳年下のフランス人男性と暮らしていたものの、CDは売れなくなり、体調もすぐれなくなった。
やがて、平成7年の5月8日、静養先のタイで急逝(享年42)。死因は持病の喘息だったが、中国による謀殺説も取り沙汰された。警察が自殺を疑ったという坂井と同様、謎めいた死だったわけだ。
生前最後のシングルは、2年前に発表された「あなたと共に生きてゆく」。作詞は坂井泉水(作曲・織田哲郎)である。タイアップの化粧品CMを制作した会社の意向でこのコンビになったとされるが、坂井はまだデビュー3年目で、他のアーティストへの詞の提供は初めてだった。しかも内容は、テレサが得意とし、デビュー前の坂井もよく歌っていた不倫ソングではなく、ハッピーな結婚ソング。両者がともに未婚のまま亡くなったことを思うと、なんともいえない気持ちにさせられる。
その12年後、坂井はこの曲をZARDとしてセルフカバー。収録されたのは、生前最後のオリジナルアルバムだ。その発売から9ヶ月後に子宮頸ガンの手術を受け、一度は回復したものの、10ヵ月後の平成19年4月、肺への転移が確認され、再入院となった。その翌月、亡くなるわけである。
手術を受ける前月には生前最後のシングル「ハートに火をつけて」が発売された。奇しくも、テレサと同じく結婚ソングだ。前出の「永遠の歌姫 ZARDの真実」によれば、このプロモーションビデオを撮るにあたり、彼女は珍しく自分の希望を口にした。それは、
「ドレス、着てみたいな」
というものだ。教会を併設したレストランで純白のウェディングドレスをまとい、キャストの子供たちとカードゲームの話で盛り上がったりしながら、楽しそうにしていたという。だが、すでに体調を崩していた彼女はその夜、救急搬送され、これがオフィシャルな意味では最後の撮影になってしまった。
それでも、入院生活のなか、彼女は詞を書くための言葉を紡ぎ続けた。前出の「ZARDよ永遠なれ 坂井泉水の歌はこう生まれた」ではこういう一節が紹介されている。
「長い人生にはどうしても避けられない道がある そんな時は黙って歩くんだョ」
もし回復して、活動が再開されれば、これも作品に活かされたことだろう。願わくば、それも聴いてみたかった。そう思う人は数多くいるはずだ。未完の歌姫・坂井泉水は、死後もなおファンの心を惹きつけてやまない。
■宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など。
急逝から12年のZARD坂井泉水 テレサ・テンと交わった数奇な運命
2019.5.27 11:00
ZARDの坂井泉水さんが亡くなって、12年がたった。平成19年5月27日、40歳で死去。前日、ガン治療のため入院中だった病院内のスロープから転落して、脳挫傷を負い、そのまま息をひきとった。
その作品は今も多くの人に愛されている。代表作「負けないで」は「24時間テレビ」(日本テレビ系)のマラソンや高校野球の応援歌として定番化。今年4月には「ZARDよ永遠なれ 坂井泉水の歌はこう生まれた」(NHKBSプレミアム)が放送された。
このドキュメンタリーでは、彼女が作詞をするために書き溜めていた膨大なメモの一部が紹介され、「負けないで」の「視線がぶつかる」「走りぬけて」といったフレーズがそれぞれ「目と目が合った様な」「あきらめないで」からギリギリで書き改められた話などが明かされた。そこには恋のときめきや不安に人一倍敏感で、それをひたむきに言葉で表現しようとしていた王朝歌人のような姿が浮き彫りにされていた。
ただ生前、メディアにほとんど登場しなかったこともあって、その魅力の源泉はまだベールにつつまれている。たとえば、故・テレサ・テンさんとの不思議な縁などもあまり語られないことのひとつだ。その話をする前に、彼女がZARDになるまでのキャリアを見ておくとしよう。
■「最強の二番手」としてのスタート
坂井泉水こと蒲池幸子(本名)は、子供の頃から歌が好きで、ピンクレディーや松田聖子、河合奈保子をマネしたりしていた。部活は陸上やテニスで活躍、高校の文化祭では「ミス」にも選ばれている。短大卒業後、バブル景気を謳歌していた第一不動産に就職するが、街でスカウトされたのを機に芸能活動を始め、約2年で退社した。
その後、東映カラオケクイーンに選ばれてカラオケビデオに出演したり、岡本夏生らとレースクイーンをやったりしたものの、目標はあくまでも歌手。ドラマやバラエティのちょい役をこなしたり、セミヌード写真集を出したりしながら、チャンスをうかがった。そんななか、大きな転機が訪れる。23歳のとき、B.Bクィーンズのコーラスメンバーを決めるオーディションに挑戦、ビーイングの総帥・長戸大幸に認められたのだ。
とはいえ、このとき選ばれたのは宇徳敬子で、落ちた彼女には別のソロプロジェクトが用意されることに。それがZARDだった。思えばここから「最強の二番手」としての彼女の歌手人生が幕を開ける。表舞台で派手に歌い踊るのではなく、時代にひっそりと寄り添いながらその伴奏をするようなスタンス。そこに彼女は、見事にハマっていくわけだ。
そんな方向づけについて、長戸自身がこんな発言をしている。2年前にAERA dot.で連載された「永遠の歌姫 ZARDの真実」(神舘和典)からの引用だ。
「プロデューサーとして坂井さんに求めたのは“平成に生きる昭和の女”です。昭和の中盤から後半にかけて、歌謡曲やJポップで歌われ続けた、愛する男性の夢のためには身を引く女性です。(略)髪型も変えず、そのコンセプトを最後まで変えなかったことが、数多くの大ヒットを生み続けたと感じています」
まるで、テレサ・テンの歌のヒロインみたいだが、じつはこのオーディションで彼女は「つぐない」を披露していた。また、カラオケでは同じくテレサの「別れの予感」もよく歌っていたという。そして、彼女の前に「最強の二番手」だったのがまさにこの「アジアの歌姫」なのだ。
■「露出」を武器にしていた森高千里
テレサは昭和59年から3年連続で日本有線大賞を受賞。日本レコード大賞ではなく「有線」だったあたりが「二番手」たるゆえんで、当時、歌謡界の中心には松田聖子や中森明菜がいた。その影に隠れながらも、確実に支持を集めていたわけだ。そういうスタンスに、ブレイク後の坂井泉水が重なるのである。
というのも、彼女が世に出て行こうとしたとき、Jポップシーンではひとりの美人シンガーが脚光を浴びていた。森高千里だ。自ら手がけた等身大の詞を澄み切ったボーカルで歌うところは似ているが、こちらはミニスカ姿で歌番組に出たりライブをやったりという「露出」も武器にしていた。その露出を極力避けることで、坂井は差別化に成功する。本人があがり症で体調不安も抱えていたという事情もあるようだが、意図的な戦略でもあっただろう。
なぜなら、ビーイングはすでにあるものをヒントにして似て非なるものを作り出すのが得意だからだ。サザンオールスターズからTUBEを、BOØWYからT‐BOLANを、のちには宇多田ヒカルから倉木麻衣を、というように。そこには長戸のこんな哲学があった。昭和58年、ビーイング設立から4年半後の発言だ。
「物事をより展開するときに、すべてを否定して同じものをつくったら、まったく違うものができるでしょう」(『よい子の歌謡曲』13号)
ここでいう「すべて」とは「最大の武器」とか「秘められた本質」といった意味だろう。坂井は「露出」を避けただけでなく、森高が当初かもしだしていた「人工的な多幸感」とはウラハラの「ナチュラルなのに薄幸な感じ」をどことなく漂わせていた。その後、森高が妻となり母となり、坂井がああいう最期を迎えたことで、両者は似て非なるものという印象がいっそう強まることになる。
ただ、1990年代という区切りでいえば、坂井泉水は最も多くCDが売れた女性歌手だ。「最強の二番手」を超えた「真の女王」でもあったのである。
■謎の死を遂げたテレサ・テン
さて、彼女が世に出た頃、テレサ・テンは不遇な日々をすごしていた。台湾出身で中国の民主化運動を支援していたため、平成元年に起きた天安門事件に深いショックを受け、パリに移住。恋におちた14歳年下のフランス人男性と暮らしていたものの、CDは売れなくなり、体調もすぐれなくなった。
やがて、平成7年の5月8日、静養先のタイで急逝(享年42)。死因は持病の喘息だったが、中国による謀殺説も取り沙汰された。警察が自殺を疑ったという坂井と同様、謎めいた死だったわけだ。
生前最後のシングルは、2年前に発表された「あなたと共に生きてゆく」。作詞は坂井泉水(作曲・織田哲郎)である。タイアップの化粧品CMを制作した会社の意向でこのコンビになったとされるが、坂井はまだデビュー3年目で、他のアーティストへの詞の提供は初めてだった。しかも内容は、テレサが得意とし、デビュー前の坂井もよく歌っていた不倫ソングではなく、ハッピーな結婚ソング。両者がともに未婚のまま亡くなったことを思うと、なんともいえない気持ちにさせられる。
その12年後、坂井はこの曲をZARDとしてセルフカバー。収録されたのは、生前最後のオリジナルアルバムだ。その発売から9ヶ月後に子宮頸ガンの手術を受け、一度は回復したものの、10ヵ月後の平成19年4月、肺への転移が確認され、再入院となった。その翌月、亡くなるわけである。
手術を受ける前月には生前最後のシングル「ハートに火をつけて」が発売された。奇しくも、テレサと同じく結婚ソングだ。前出の「永遠の歌姫 ZARDの真実」によれば、このプロモーションビデオを撮るにあたり、彼女は珍しく自分の希望を口にした。それは、
「ドレス、着てみたいな」
というものだ。教会を併設したレストランで純白のウェディングドレスをまとい、キャストの子供たちとカードゲームの話で盛り上がったりしながら、楽しそうにしていたという。だが、すでに体調を崩していた彼女はその夜、救急搬送され、これがオフィシャルな意味では最後の撮影になってしまった。
それでも、入院生活のなか、彼女は詞を書くための言葉を紡ぎ続けた。前出の「ZARDよ永遠なれ 坂井泉水の歌はこう生まれた」ではこういう一節が紹介されている。
「長い人生にはどうしても避けられない道がある そんな時は黙って歩くんだョ」
もし回復して、活動が再開されれば、これも作品に活かされたことだろう。願わくば、それも聴いてみたかった。そう思う人は数多くいるはずだ。未完の歌姫・坂井泉水は、死後もなおファンの心を惹きつけてやまない。
■宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など。