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①J-POPタイムカプセル~あの日からあの日へ~沢田研二

2016年01月03日 | TV・ラジオ・CM・映画

先月お知らせした東海ラジオ『音楽プロデューサーで、元渡辺プロ制作部、ジュリーの事務所ココロのプロデューサーだった大輪茂男さん出演のラジオ『名古屋東海ラジオ「J-POPタイムカプセル~あの日からあの日へ~・第12回・沢田研二」

J友さんから内容を教えていただきました。レアなお話が聞けたようです。中には?と思うところもあったようですが。インタビュアーは田家さん。 


(田家)ゲストは音楽プロデューサーで、元渡辺プロ制作部、ジュリーの事務所ココロのプロデューサーだった大輪茂男さん。

「はるかに遠い夢」1985年、知られざる名曲。ジュリーが事務所を独立して作った最初のアルバムの曲。今日はゲストが知られざる名曲として上げたのが、この曲です。ジュリーはデビュー45周年。大輪さんは元ナベプロの製作部、CO-COLOのプロデューサーで、現在は音楽プロデューサーで大輪塾主催、大輪茂男さんです。

(大輪)「はるかに遠い夢」はジュリーがナベプロから独立して一緒にやらないかと、CO-COLOという会社を作りった。新しい何かを作りたい、それまでの傾向を見た、もう一度大野克夫さん、阿久悠さんの力を借りたい。大人のジュリーという気持ちで。

「架空のオペラ」は(アルチュール・ランボー)まさにジュリーをオペラにしたい、歌劇を作りたい。阿久さんがよく来たね。二人に待っていたと言われた。「吟遊詩人」など、石間秀樹というギタリストのエポック・メイキングな曲だと思っています。

(田)大輪さんは1969年にナベプロに入った、ジュリーに最初にあったのは覚えていますか?

(大)ナベプロは2年くらいで担当が変えられた、前は布施さん、梓みちよさんを担当していた。ある日、今度ジュリーをやってくれ、と言われコンサート中のジュリーに横浜まで会いに行った。「危険なふたり」が終わったくらいの時で、楽屋であってそのまま東京へ帰ってきた。その日に、朝の7時くらいまで飲んだ。


(田)大輪さんがナベプロに入った頃の曲タイガースの「美しき愛の掟」思い出の沢田研二という事で、この曲を選ばれた。

(大)ちょうどナベプロに入社した頃、トッポが抜けて タラップから降りてくるシローを羽田まで迎えに行った。この時、中井国二さんは大プロデューサー、日本のロックはこの人がいたから。

(田)田園コロシアムは日本の野外の最初ではないか。

(大)ステージの裏側で見ていました、タイガースの曲はあまりやらず、「I spel put on You」などをやった。あの頃はスモークなどがなくて発炎筒を焚いていたが、煙が凄くジュリーが「歌えねー!バカヤロー!」と蹴ったのでその発炎筒がスタッフの胸に当たり大ヤケド。中井さん「歌え!」ジュリー「歌えるか!このヤロー!」ああ、プロデュースってこういう事かと思った。

(田)華やかなタイガースの裏側ではそういうことがあったんですね。


 

1974年ソロシングル「追憶」No.1ヒットになりました。

(大)想い出深い曲でタイトルをつけさせていただいた思い出がある。最初、「ニーナ」というタイトルでしたが、西〇秀樹の「傷だらけのローラ」の出た後に「ニーナ」はどうか?ロバートレッドフォードの映画「追憶」からつけた。カンツオーネのイメージ、ミルバのパクリ。フランスやイタリアのイメージを思いついた。 (※大輪さんの思い違い、ジュリーの「追憶」の方が先に出ています)


 PYGのデビューシングル「花・太陽・雨」

(大)僕は布施さんを担当していた「愛は不死鳥」で、布施さんに着いて行った万博でPYGが歌っていた。いい曲だな。PYGは一年で解散した。井上さん、ショーケン、サリーなど凄いバンドだった。PYGを代表する曲。(※万博は70年で、71年に結成のPYGは万博には出演していません。タイガースは万博に出演していました。)

(田)GSからのオールスッターキャスト、スーパーバンドでした。それがPYG。

(大)GSの挽歌という気がする。僕たち世代はこの曲で青春と別れて大人になった気がする。しみじみ青春よさらば、側で終焉を見ていた。

(田)スーパーバンドは志にも関わらず、京大西部講堂で石を投げられ解散せざるをえなかった。。(※解散はしていません)

(大)中井さんが、タイガースもPYGもコーラスなんだよ。すぎやまさんが、コーラスに力を入れていて一番大事にしたのはハーモニー。ロックにコーラス、その後はなかなかそういうのは 出てこない。

(田)時代が早かったんでしょうか?


「アマポーラ」1984年 時代がちょっと飛びました。カバーした曲でシングルになった。

(大)この頃はジュリーの担当ではなかった。相談ということで、紅白の演出。をやらせていただいた。新しいことをやりたい。ジュリーが紅白をストップさせるには、どうしたらいいか?ジュリーが撃たれる、沢田が胸を撃たれてドンとやる、ウっとなって倒れる。リハーサルをしたが、誰が撃つのか?ボーヤ。リハーサルをしているのが社長にモレて、何を考えているんだお前たち。沢田が撃たれるのは無理だけど、撃たれたという形で、血がブアーっと吹き出すのはいいだろう。

NHKには言わずにホ-ルの端でポンプを準備していた。リハーサルでやると止められるだろうと本番でやる。付け人にやれというと、いつやったらいいのかわかりません。アマポーラの「ポ」の時に血糊が出るとカッコイイ。自分で「ア」の頃にやろうとしたら、エイと押したら終わる頃にドンと出た。後でNHKのディレクターにあれは三大流血でした。と言われた。

僕はヤッタヤッタ!!ところが次はトシちゃんで、血糊でステージでスッテンコロリン倒れたらしいと楽屋でザワザワしていて、ジュリーと謝らなければいけない。ところがジャニーさんが来て、「ユーたち最高!」と指を上げて言ってくれた。ジュリーだから許すという感じでホっとした。

 

(大)この時代は(1984年)、加瀬さんのTOKIOや、自分で作った「ストリッパー」、少しパンクっぽくなり、違う時代になり、何か変化をつけたかったのかな。それでアマポーラになったのかな。この曲の次は1年、シングルは出さなかった。

僕はその後、キャニオンで木之内みどりやツイストをやっていた。そういう人のディレクターになりジュリーを眺めていた。ストリッパー以降から違うジュリーになっていた、どういう時代になってゆくのかと思った。

(田)背中まで45分とか良かったです。ファンはどういう想いで見ていたのかな?

(大)勝手にしやがれ以降のジュリーは皆が尊敬していた、なりたくてもなれない。ストリッパー以後のジュリーは冒険的なジュリー。「晴れのちブルーボーイ」は銀色夏生さんのシュールな詞。「アマポーラ」でアレ?と思った。その後、1年間の休業。

<続きます>

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