「動物化するポストモダン-オタクから見た日本社会:東浩紀:講談社現代新書」という本。「モジュール化論」「産業アーキテクチャ論」の本を読むはずが、オタク文化論の新書を読むことになってしまったのだが、それというのも、3年ほど前、青木昌彦教授が、日経ビジネスの「夏休み読書特集」の中でこの本を薦めて(2003/8/4,11号、P.120)、「オタク文化における作品の作り方がモジュール化の構造と酷似していてびっくりした」「デジタル文化産業でどうして日本が強いのか、ヒントを得ることができるでしょう」と語っていた記憶があったからだ。
読んでみると、そこに出ていることは、「オタク文化」のことを知らない私などにとっては、確かにびっくり!の情報であった。コンテンツビジネスのことを考える際には避けて通れない情報であると思う。(読んでおいてよかった。)
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私などには大きな誤解があって、映画でもキャラクターでも、いわゆるコンテンツビジネスというものは、その中心に「何か大きな潜在力を秘めたストーリーやイメージ」があって、それを育てあげながら換金していくものであって、そこには何かしら、偉大なクリエイターである作家や、才能を発掘するプロデューサーなどがいるものだと思っていたのだ。つまり、コンテンツビジネスの中心には、手塚治や、ウォルトディズニーや、宮崎駿や、ハリポタの作者や、長嶋茂雄と巨人軍や、アーノルドパーマー+マーク・H・マコーマックや、中田英寿+次原悦子や、FIFAや、電通などがいるものだと思っていたのだ。
ところが、日本のオタクカルチャーは、全然違うところに行ってしまっているらしい。コンテンツの焦点は、「物語」から「個々のキャラクター」へ、さらに、個々の「萌え要素」(フェティッシュの対象部品)へとどんどん細分化、部品化され、現在は「萌え要素」の組み合わせの中にオタク達ははまっていて、それを支援するためのデータベースサイトなども充実してきているという。
そこでは、オリジナル作品やクリエイターの存在の比重は小さく、無数のユーザー(マニア)が再生産に次ぐ再生産を重ね、消費し、それが莫大なオタク市場となっているらしい。
・・・そういうことでは、モジュール化によって産業が拡大したといっても、アーキテクチャ設計の重要性はあまりなさそうだし、経済的には、フリーソフトウェアの世界に近く、そこでビジネスということを考えても、なかなか難しそうだ。・・・コンテンツビジネスの難しさ。
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そして、そこでオタクがはまっている快感というのは、(そのオタクが)男性であっても女性であっても、現実の異性のことを忘れそうな、結婚というものをできなくなるほどのものであるらしい。
たしかに、ある時深紅のアルファロメオ166(イタリア車の名前)を街で見かけた時に沸き起こった、振り返ってしまい後を追いたくなる、どんな美人に出くわしたよりも勝るかもしれない情動を思い出しながら、あえて考えてみると、「男女の愛」というものは「かたち」への「フェティシズム」に還元できるのではないか、という気もうすうすとするため、徹底的に自らの好みの「フェティッシュ」の対象をコンピュータの力を借りて生産しまくって消費しまくる世界、というのは想像できないことはなくはない。
それは確かに、究極の快感の世界であるかもしれない。多くの人の経験側から導き出された「フェティッシュ」を、さらに自分固有のフェティッシュな「かたち」にカスタマイズされた対象物を作り出すことで欲望がショートサーキットで達成されるため、欲望はその世界で閉じたループを形成して充足し、社会的な安全装置にもなるだろう。(オタクは実際の人を相手にした倒錯者にはなりにくいという。)
換金の仕方(ビジネスモデル)さえ設計できるのならば、これほど成長性のある、確実な市場はないだろう。環境も破壊しないし、平和産業でもある。
ある面ではパチンコに似ている。ある面ではマック(マクドナルド)に似ている。コンビニにも似ている。
(続く予定)