人材マネジメントの枠組みに関するメモ
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(続き)
本書はオタク文化の変遷を解説しながら、オタク文化を「『大きな物語』が失われた後の精神の行方」という、ポストモダン論の観点から厚く説明していることに特徴がある。オタク文化の歴史が、ある意味、痛々しいストーリーとして語られているのだ。

(『大きな物語』とは、人間の生活に意味を与えるような、イデオロギー、国家的理念、輝かしい未来と目標、等をさすらしいが、歴史的、宗教的な世界観、哲学や神話なども含まれるだろう。)

日本では、終戦からの復興の時代、そして60年代の高度成長と闘争の時代が終わった1970年頃から、「物語」の喪失が顕著に感じられ始め、それが、オタク文化の発祥と同根であると論じている。

だから、アニメの形で発達し始めたオタク文化の要素には痛々しいほどの郷愁(古い日本のイメージ、神話的なイメージなど)が散りばめられていると論じている。しかるに、ある段階から、情動を引き起こすイメージ断片の一人歩きが始まったのだという。

確かに、手塚治にしろ、銀河鉄道999にせよ、宮崎駿にせよ、そのような「民族の心のニーズ」を反映させていたことは理解できる。

私なりに言い換えれば、アニメの歴史とは、無意識の中に散らばっているイメージの断片から、大きな根源的なイメージを浮かび上がらるための限りなく壮大な試みでありながら、成功しきれないままに、ある者は「オウム」のような荒唐無稽の世界観に行き着き、またある者は「フェティッシュ」に陥った、と言えるだろうか。


オタク文化をそのようなものと理解できたとき、それは我々全員が共有する状況から生じていることなのだから、一人一人の立場が問われるのであって、何らかの立場を表明できなければならないだろう。

はっきりしていることは、イデオロギーの時代が終焉したからといって、「大きな物語は死んだ」という前提からスタートすることは間違いであるということだ。今なお、世界の大多数の人口は大きな物語の中に生きており、様々な契機の中でそれぞれの物語をむしろ強めている。ブッシュのアメリカしかり、アルカイダしかり、ロシア国民しかり、ユダヤ人しかり、である。昔も今も何も変わっていない。そして、明文化された固有の物語を持たない地域にあっても(例えば南米)、文学の目標は今なお「大きな物語を見出すこと」であり続けている(例えばガルシア・マルケス)。

そしてはっきりしていることは、大きな物語を見出すことができるかどうか、ということは、想像力の問題であるとともに、教養の問題である、ということである。無意識の中から様々なイメージを拾い上げたとき、教養と想像力(ヨーロッパ史と東洋史を横断的にイメージできるような教養と想像力、民俗学的な教養と想像力)があれば、そこに、イメージの起源と一定の秩序を読み取ることができた可能性が高い。教養とは、「現象の背後の大きな物語を読むことができる能力」であると定義できるかもしれない。そのように定義すれば、日本経済のために教養の必要性は極めて大きいと言えるかもしれない

そしてはっきりしていることは、イメージそのものを超えた「大きな物語」を見出す意思を放棄してイメージそのものに「はまり」始めた時、そのイメージはフェティッシュとなり、「動物化」した人間存在が出現することになり、コンピュータとネットの力を借りてその欲望充足回路を強めた時それは一つの巨大な産業にはなるかもしれないが、それは決して正統のものにはなりえず、サブカルチャーにとどまらざるをえないだろう、ということである。正統のものになりえないというのは、(fetishを辞典で引いてみればわかるが)物語を持っている文化にとってはフェティッシュの文化は唾棄すべきものであり続け、決して和解に至ることはないからである。

(なお、ここで日本文化に「大きな物語」の伝統はあったのか、という問題がある。せいぜい天皇制程度のものしか出てこなかったではないか、武士道や町人文化のスノビズムは出てきてもそこに「大きな物語」はないではないか、といった指摘がありうる。日本文化特有の様式化された「スノビズム」も、目の前の現実を相対化することによって先に進むべきところがあることを主張している、という意味で、「大きな物語」の亜種と言うことはできるのではないだろうか。なお、中国人やインド人にとっての物語が何か、ということは私にはわからない。)


さて、そうであるにも関らず(堕ちないためには「大きな物語」をあくまでも探し続ける必要があるにも関らず)、オタクのサブカルチャー、そしてその行動様式が主流になるかのような言い方がされ、ビジネスもそれに迎合しつつあるとすれば、それは由々しきことであり、ここで意思をもって軌道修正がされなければなるまい。すなわち、企業活動を『大きな物語』の中に位置づけ直す必要があるだろう。・・・言い換えれば、企業ミッションを問い直す必要があるだろう。

現在の日本の企業社会にとっての「大きな物語」は次の3つに帰着するだろう。そのようなコンセンサスはできあがりつつあるのではないだろうか。

(成熟)モノやサービス、そして生活の洗練を極めていく。

(環境)モノやサービス、そして生活を環境対応型に転換していく。(そのために技術面で世界をリードする。)

(金融)これまでに蓄積した金融資産を活かす投資国家として一流になる。

そしてそれらの上位に来る日本(日本語社会)としての「大きな物語」は何か。それは日本語の文化的伝統にも根ざしていなければならないし、アジアの中での位置づけを説明できるものでなければならないし、欧米との関係を説明できるものでもなければならない。

それが何か、ということに対してまだコンセンサスがあるとは思えず、そもそもそれが一つである必要もないだろう。しかし、企業ごとに何らかの解釈と立場を語ることができる必要はあるのではないだろうか。

それができてもできなくても、企業業績への影響はない、・・・と言うことはできなくなっていると思う。なぜなら、それを語ることができないと、採用において、また次世代の育成において吸引力を発揮できなくて困ることになることは確かであり、それはただちに、企業業績に影響してくるからである。

さて、成熟、環境、金融の三つの物語ごとに、産業アーキテクチャとロードマップがイメージできればいいのだが・・・



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