人材マネジメントの枠組みに関するメモ
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サッカー敗戦の喪失感を、多くの人が味わっていると思う。私も、一応途中まで起きて見ていたとはいえ、分析するまでの情報量も時間もないのだけれども、マネジメントコンサルタントのおじさんとしては、日本のサッカーが次の段階に向けて発展を始めるか、再び衰退を始めるかの分岐点にあると感じられる今、メモを書いておかずにはいられない。

ブラジル代表との決定的な差は、とりわけロナウジーニョのリズム、タメの作り方との対比の中に見られたと思う。ロナウジーニョの前では、日本代表が、中田も含めて、いかにも単調で、創意がなく、つまらなそうに見えたのである。そしてその背景は、ロナウジーニョのインタビューを読んでいると見えてくる。

W杯前ロナウジーニョが取材で語っているのが漏れ聞こえてきたところでは、自分の活躍よりもあくまでもブラジルチームが重要、ということを強調していて、「ふ~ん、彼はいい人なんだなあ、優等生なのかなあ」と思っていたが、このインタビューではロナウジーニョの、組織人としての成り立ちがよくわかる。

ロナウジーニョの語りでは、次の3つがキーワードになっている。

  1. サッカーを楽しむこと/楽しまなければ意味がない
  2. 観客にスペクタルを提供すること
  3. 自分独特のリズムを発揮する

(この2つ目、「観客にスペクタクルを提供する」について解説すると、実はこれは(往年のオランダ代表のスーパースターであり、バルセロナの監督としても一つの時代を築いた)ヨハン・クライフがチーム作りにあたって掲げたミッションである(・・・はい、私はその世代です)。ヨハン・クライフは、プロサッカーのミッションは「観客にスペクタクルを提供すること」であるとし、その場その場でダイナミックにオフェンスとディフェンスが入れ替わる、華麗でダイナミックな現代サッカーのコンセプトを築いた。そして、ロナウジーニョは現在のバルセロナの中心選手である。クライフの築いたバルセロナのチームミッションが今でも引継がれておりロナウジーニョの血肉にもなっているらしい、ということに関心が引かれた。)

ロナウジーニョの語りの中では、

  1. サッカーを楽しむ、ブラジルの国民的なカルチャー
  2. プロとして試合を行うにあたってのミッション、コンセプト
  3. 自らの、差別化された独自のリズムの発揮による、ブレークスルー

の三つの層が一致(align)しており、ハーモニーとなっているのである。この3つの層のどれもが伝統に裏打ちされており、これら全てで、サッカーの歴史そのものであるとも言える。つまり、

  1. ブラジルのサッカーの技術/カルチャーの基礎の上に、
  2. 欧州で開発された現代サッカー戦術を繰り広げ、その上で、
  3. ピッチの上では、差別化された自分自身の個性でもって、まだ誰も見たことのない未来を切り開く

・・・ということだ。自信に溢れ、自由であるとともに、伝統に裏打ちされたオーソドクスなもので、どこにも揺らぎがない。

さて、それに対してこれから日本のサッカーはどうしていくのだろうか。川淵キャプテンも、「上を目指すために・・・」というようなことを話していたが、自然にレベルが進化していくなどということはないと思う。そして、日本サッカーのミッションが、これからさらに上の世界レベルを目指していく、ということであるとすると、日本からはロナウジーニョは生まれないし、ブラジル代表のような、チームプレー全体として生き物のようなリズムのあるものは生み出せないと思う。「世界レベルを目指す」という言い方は、企業が、「グローバルトップ10に入ることが自社のミッションである」、と言っているようなものである。そのようなものはミッションではない。

組織体の一つ一つに、独自の存在意義、ミッションが必要なように、日本サッカーのミッションが、必要である。しかも、それに裏打ちされつつ、プレイヤー一人一人に、なぜ自分はサッカーをしているのか、という自ら固有のミッションの自覚が必要である。

  • 「何よりもサッカーを楽しむこと」・・・これでは多分薄い。何が楽しいのか突き詰めなければ。
  • 「プレーのリズムを通じて生命を表現すること」・・・これでは現実感がない。日本の文化にはリズムの伝統はない。
  • 「ゴールするという目的に向けて、ダイナミックに変化する状況の中で、時間と空間のムダのない使い方を究めること。」・・・これだったらどうだろう?日本サッカーの一つの時代を築いた中田のプレーのコンセプトであるとともに、日本の文化、その産業界における実績の特性にも合っていないだろうか?

もう一つ、ジーコ監督は本当に傷心の中におられるだろう。持てる全てを教えた、と語っていただけに。ただ、一つ疑念として浮かんだのは、ジーコ監督のサッカー観が古いのではないだろうか、ということなのである。指導するにあたっての頭や感覚が、自分の現役時代のものに立脚していて、現代のサッカーの先端レベルは、ジーコの感覚よりももっとずっと先に行ってしまっていたのではないか、ということなのである。

ジーコにはJリーグ発足時から日本サッカーのために献身していただいて、その間ジーコはブラジル代表のテクニカルディレクターなどもしていたとはいえ、日本に拠点を置いている間に世界最先端の感覚から遅れてしまったのではないか・・・ヨーロッパの最高レベルのサッカーリーグで指導者をしていたらジーコ監督のセンスも大きく変わっていたのではないか。ジーコ監督自身にもそのあせりがあって、だから、次はヨーロッパで監督業をしたい、と言っているのではあるまいか。

・・・これは、情報にも分析にも基づいておらず、はっと気づいた自明の理である。過去の実績ではなく、世界の最先端の競争にさらされているかどうかということが常に問われなければならない、という、組織運営の自明の理、人選の自明の理に、ここで、はっと気づいた次第である。

以上、本ブログの趣旨に照らすと、何をしようとしているのか、ということが、組織存在のあらゆるレベル(背景となる文化、バリューチェーンの全体、個々の組織、個々のメンバー)で明確な、しかも世界の最先端にさらされ続けることを前提とする、そのような組織論を目指したい、ということで締めたい。



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