脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

龍馬に思う。

2010年12月26日 18時08分16秒 | 社会時評
年末の掃除と年賀状書きを昨日終えて、今日はボーとしていた。
歳末の日曜日、近所を少し歩いてみたが、近年どこか人や町に、
活気が失せた、うら寂しい感じが滲んで見える。

それは、不景気、少子高齢化、政治の低迷などが原因ではなく、
現代の日本社会が、いつの頃からか、おおらかさとか朗らかさ
みたいなものを失ったせいに思える。

例えばオリンピックも昔は「参加することに意義がある」なんて
言われていたが、最近は、メダルの色やら勝ち負けを露骨に論う
ような風潮になった。

より強く、より速く、より高く等々、スポーツに限らず、受験から
就職、そして社会人生活の中にも様々な競争があって、どっちが上か、
どっちが勝ったかみたいな、結果ばかりに関心が向くように仕向けら
れ、そんな状況に取り巻かれては、誰もがもがいているようだ。


NHKの大河ドラマで、福山某さんが役をやったせいか、坂本龍馬が
今年は人気と関心を高めたが、龍馬というヒトは、日本人には珍しく
海のように大きくおおらかな人物だったのだろう。
目先の勝ち負けに拘らず、永い眼で事物を見詰め、
たいていの争い事を小事として受け流せるような人物像を感じる。

幕末、龍馬が活躍したのは土佐藩を脱藩した後のことであり、
彼は何の後ろ盾もなく、一人悠然と血生臭い時代を生き抜いた。
勿論、彼は維新前に暗殺されてしまうが、命が惜しければ、京に
留まらずに仲間を集め、大阪か江戸にでも居たらば、もう少し
長生きしたかもしれない。その辺、龍馬の天真なおおらかさは、
我が身の危険さえ顧みなかったのだろう。

龍馬のこのような人物像が、今もって人気を博すのは、今の日本には
小さな自我を肥大させ、中身もないプライドを尖がらせては、
我が事のみで他人を思いやることもなく、些事に拘っては、
勝ちを求めるような手合いばかり増えているからではなかろうか。


龍馬に似ているもう一つの国民的偶像は、フーテンの寅さんだろう。
フーテンの寅・渥美清の、かつての国民的な人気も、その中身は、
物事に拘らない、おおらかな笑顔とその人柄にあったと思う。
日本人は昔から、おおらかな人物像に憧れがあり、
それは今尚、人心に底流、伏流しているのだと思う。

おおらかさは、大陸的な気質である。
島国の民族性・民俗性は、ムラ的な閉域の中で、他者の眼を気にして
は比較をし合い、器の中で均質にならされつつ互いに競い合う処に、
形作られたメンタリティーだろう。
和や協調性には優れるが、独創性や自立性に乏しく、
妬みや僻み、異質排除的ないじめが生じ易い。

島国根性の暗さや窮屈さの対極にあるのが、
龍馬や寅さんの自由でおおらかな存在感であり、
そこに国民的な憧れと人気が生じるのだと思う。


しかし今の日本社会は、元々の国民性以上に、益々各自が閉鎖的な
エゴに傾斜し、保身ばかりに汲々としている気がする。
私だってヒトの事を言えない訳で、誰もが程度の差はあれ、
「追い詰められて」、余裕もなく生きているのである。

だが、だからこそ、心だけはおおらかに、ありたい。
最晩年の龍馬の写真があるが、いつ兇刃に倒れるかも知れぬ命なのに、
見事に肩の力が抜けた、おだやかで寛いだ姿である。
おおらかに生き抜くためには、ハラを立てず、心胆を練るべし。






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