漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

名刀の話

2009年08月19日 | 歴史
きのうの続き。

四・五日前に、
講談の「吉原百人斬り」を歌舞伎化した人気狂言の中、

佐野次郎左衛門が、
花魁(おいらん)八橋以下を斬る時は、
次郎左衛門が斬ると云うより、
刀が勝手に動いて斬っていくかのように演じられる、と云う事を書いた。

現代人の感覚から見れば、
不合理きわまりない話だが、
江戸時代の人は案外そんな事を信じている人も居たのではなかろうか。

ここに、ある名刀のことを書いた江戸時代の記録がある、
勿論、すべてが事実とは思わぬが、捨て難い味があるので紹介して見ます。

刀の名は「竹俣兼光(たけまたかねみつ)」、
「竹俣」は、この刀の持ち主だった人物の名、「兼光」は刀工の銘。

尚、以下の文中、
「弘治(こうじ)」は、戦国末期の年号。

「物具(もののぐ)」は、鎧(よろい)。

「見通(みとおし)」は、
 鉄砲を撃つ時、狙いを定めるための突起物、照準。
「二の見通」で、筒の先と手許側、二つある見通の内の手前の突起、火縄銃の真ん中辺り。
  
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 ○竹俣兼光の刀の事

上杉謙信の許(もと)に竹俣兼光とて刀あり。

この竹俣兼光、
もとは越後の百姓の持ち物たりしに、

ある時、豆を袋に入れて帰るさに、
袋の綻(ほころ)びより、一粒づつこぼれけるが、

鞘(さや)にあたりては二つに成りしかば、

百姓、これに気付きて怪しみ見るに、
鞘の割れて、刃のわずかに出たりし処に当たりし故(ゆえ)なり。

並びなき刀とて、
竹俣三河守(たけまたみかわのかみ)乞い得しが、後に謙信の手許へ行きけり。

弘治年中、川中島合戦に、
信玄の兵(つわもの)、輪形月(もちづき)兵太夫と云う者、

鉄砲持ちて狙いしを、
謙信、馬を乗り寄せ、一刀に切り伏せて駈け通られし。

後に甲斐の兵ども、これを見るに、
輪形月は物具かけて切られ、
持ちたる鉄砲は、二の見通の上より切り離したり。

いかなる刀にてかくは切れし、と言いあえるに、
すなわち、かの竹俣の刀なりけり。

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武器は実用品の最たる物ですが、
新しい武器が登場して、やや時代遅れとなると、その存在に精神的な色合いを帯びる。

弓などもそれで、
鉄砲の出現で時代遅れの武器となると、
神事など、宗教的な色合いを帯びて生き残るようになる。

刀が「武士の魂」などと言われるのも同じで、
それゆえに、このような話が畏敬を持って語り継がれたのだろうと思う。




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