先日のテレビを見ているうち、
アユもアムロもウタダも、
今の大学生にとっては「オバサン」なのだろうなと、
その「至極当然のこと」に気が付いた。
わたしにとって、彼女らの歌は、
すべて「イマドキの歌」で、
その良さがイマイチ、
ピンとこないし、共感する必要もないから、
十把一からげにしてすべて「イマドキの歌」と脳内処理していた分けです。
もちろん、私がそうであるように、
「若い人たち」にとって、私の大事な歌なんぞは、
「知る必要もない歌」と云うことになるのでしょうね。
実際、考えてみると、
私にとって心に沁みる歌は、ナントも暗く、せつない歌ばかり。
モノのあふれている時代に育った人たちには、
貧困から立ち上がった世代の歌など、
「辛気臭くてやりきれないだけ」だろうとは、私でさえ思います。
で、その、やりきれない歌のひとつが「裏町人生」。
♪♪
暗い浮世の この裏町を
のぞく冷たい こぼれ日よ
なまじかけるな 薄情け
夢も侘しい 夜の花
♪♪
お分かりでしょうか、
まず、前提として「浮き世は暗い」のです。
この歌のできた1937年は、
日中戦争の始まった年であり、ホントは、「浮き世」ではなく、「憂き世」のはずなのです、
浮かれている場合ではないのです、戦争に行かなくちゃならないのですから。
ただ、そうしてしまっては、「やるせなさ過ぎる」ので浮き世としているのです。
その暗い世の中の裏町で生きるのですから、
人生が、つらく苦しいのは当たり前なのです。
そのつらい人生を、
「こぼれた日が覗いている」のです。
どこかにある、
明るい世界からあふれ、ちょっとだけこぼれて、裏町に落ちてきたきた日差し、
でも、それを見て、
「もうすぐ夜明けだ」なんぞと迂闊に喜んではいけません。
なにしろ、こぼれ日なんてすぐに影って、また暗くなるに決っているのですから。
それが分かっているから、
どうせ、移り気なこぼれ日さんよ、
「な~まじかけるな 薄情け」と歌うのです。
でもこれは序章、
この歌の真価は二番の歌詞にあります。
♪♪
誰に踏まれて 咲こうと散ろと
いらぬお世話さ 放っときな
渡る世間を 舌打ちで
すねた妾が なぜ悪い
♪♪
踏まれて咲いている花、である「わたし」は、「妾」と表記されてます。
そうです、この歌の二番は「妾の歌」なんです。
私ではなく「妾」、つまり女、
花とはいえ、向日葵娘ではなく、日陰に咲いた雑草。
花とも云えない花、
しかもその雑草である妾が「舌打ちしながら」生きているのです。
どうです、暗いでしょう、
でも、この暗さ、やるせなさがいいのです。
すねてふくれて、ひがんでいながら、
絶望ではない、かすかな希望、
半分あきらめながらも夢見ている人の好さ、人間としての甘さが匂うのです。
しかし、だからこそ、いくら辛くても生きていられるのです。
スナックで、酎ハイ片手に、
カラオケに乗せこの歌を歌う、
・・・寅さんにでもなったつもりで・・・。
あ~~、
ダムの底に寝っ転がって青空を見ているような、
陶然たる、この心地よさ・・・、
分かんねぇかなぁ、分かんねぇだろうなぁ。