漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

ファッションは女の命

2009年08月15日 | Weblog
きのうの続き。

吉原の「遊女殺害事件」が記されているのは、
当時、吉原で名主役をしていた竹島仁左衛門の記録。

その内容はかなり広範なもので、
吉原の規則や習慣は勿論、その風習や行事から、様々な揉め事まで多岐にわたる。

例えばこんなのがあります。

尚、以下の文中、
「繻子(しゅす)」は布地の一種、なめらかで光沢のある高級生地、サテン。

「候」の読みは、そろ、そうろう。 「・・・なり」を丁寧にした語。
  
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一、

享保十年十一月十日、

江戸町一丁目、
俵屋・傳右衛門、抱え、遊女かつら、

繻子地に金糸にて、
総縫いの帯を締めおり候を、年寄り七右衛門、見とがめ、

右の帯、取り上げにつかわし候処、

あい渡さず候に付き、
名主又左衛門へ、届け出で候。

これにより、
傳右衛門並びに五人組、名主方へ呼び寄せ、

不届き至極のむね 申し聞かせし処、
五人組、あい詫び候に付き、
しばらくは、俵屋、商売遠慮致すべく申しつけ、差し許し候。

尚、この帯は、名主方へ取り上げ置き候。

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遊女同士の見えの張り合いからだろうか、
分に過ぎて豪華な帯を締め、評判となったのだろう。

自慢の帯を見せびらかす遊女から取り上げようとしたが、
遊女の方も、体を張った商売で手に入れた自慢の品、

必死に抵抗して渡さない。

そこで、主人や五人組を呼びつけ、
「商売仲間を省くぞ」ぐらいの脅しをかけたのだろう。

相手が詫びたので、
「しばらくの休業」と云う事で、
なんとか、内々に収め、帯は取り上げて決着がついている。

享保十年と云えば、
時の将軍は徳川吉宗、享保の改革のただ中です。

吉原の幹部たちも、
遊女一人の帯ごときで目を付けられ、
吉原全体が厳しい処分を受けてはかなわぬと、自主規制したのだろう。

それにしても、婦人が身をかまう事への執念は、
昔も今も変わらぬわいと、つくづくに思うのでありまする。






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