海人の深深たる海底に向いてー深海の不思議ー

地球上の7割を占める海。海の大半は深海。深海生物、潜水調査船など素晴らしい深海の秘蔵画像を紹介。奇抜・奇妙な姿に驚愕!!

危険なビーチ ハワイ

2015年07月17日 | 日記
危険なビーチ ハワイ

 皆さんご存知のハワイ・キラウエアのビーチは1983年から火山活動が活発です。
それだけではなく、1828年以後これまで100件以上のサメの被害が出ている危険なビーチでもあります。

地球上最大の肉食獣マッコウクジラ

2015年07月11日 | 日記
地球上最大の肉食獣マッコウクジラ 
                  山田 海人(かいと)

 クジラの中でも下顎に大きな歯を持つマッコウクジラは、地球上最大の肉食獣として知られていますが、その生態は謎に満ちています。オスは大きくなると体長18m、体重50トンもの大きさになり、脳は9キロと巨大な頭脳を持っています。メスは体長12m体重18トンとやや小ぶりですが群れを率いているのがメスです。商業捕鯨が禁止されてマッコウクジラの資源は回復しつつあり世界の海に200万頭ものマッコウクジラが生息しています。
 マッコウクジラの身体の特徴は大きな頭で身長の1/3が箱型の頭になります。...
長さ5mほどの下顎には50~60本の歯が生えていて、歯は18センチもの長い円錐形で重さは900グラムもあります。口を閉ざすと歯は上あごのソケットに収まり、上顎には歯はありません。こうした特異な身体で深海へ潜って好物のダイオウイカや大型のタコなどを食べています。

 オスのマッコウクジラは深く潜ることで知られていますが最初にこの潜水能力に気づいたのは水深1,000mもの海底ケーブルに絡まって死んでいるのが発見されてからです。今ではデータロガーが取り付けられて水深3,200mまでの潜水が記録されたり、平均水深は1,200mであったり、1時間もの潜水時間があることが知られています。

 イルカが超音波で仲間の姿や障害物を見るエコーロケーションは有名ですが歯クジラであるマッコウクジラもこのエコーロケーション機能を持っています。しかし、鬚クジラにはこの機能がありません。マッコウクジラが深海で餌のダイオウイカを探す行動にはこのエコーロケーション機能が重要な役割を果たしています。

 獲物であるダイオウイカはマッコウクジラ以上に謎の生き物でこれまで深海で生きている姿はほとんど見られていません。ときたま弱ったダイオウイカが海辺に打ち上げられているのが見つかる程度です。これまでアメリカのスミソニアン博物館のダイオウイカ研究者がニュージーランド海域で無人探査機や潜水調査船を駆使してダイオウイカの撮影に何度も挑戦していますが、まだ影すら撮影できていません。世界で最初にダイオウイカの自然の姿を撮影したのは国立科学博物館の窪寺先生だけです。
 ロボット技術が進歩して深海にも多くの深海ロボット(無人探査機)が調査活動を行っていますが賢いダイオウイカは深海ロボットなどの光や騒音をキャッチして決して視界に入ろうとしません。マッコウクジラが200万頭いるのですからその餌になるダイオウイカの数を想像すると、なぜ姿が見えないのか不思議ですね。18mもある巨大な生き物が人目に触れずに深海に多く生息しているのです。

人にはなかなか探せないダイオウイカもマッコウクジラには簡単に見つけられているようです。私達ダイバーも潜る前に目標を見つけてから潜るようにマッコウクジラも水面で早くもダイオウイカの存在を確認し、潜り始めます。ダイオウイカは水深1,000mほどに生息しているのでマッコウクジラは潜降中も音を発してエコーロケーションでダイオウイカを確認して潜って行きます。
 一方、賢いダイオウイカも大きな身体を維持するために深海の大型魚などを鋭い視覚と敏捷な動きで捕食していますのでマッコウクジラの接近に気がつけば逃げてしまいます。
想像の域ですが、マッコウクジラはダイオウイカに近づく際、尾びれのフィンキックはせずに滑空状態で上から突然に襲っているようです。こうして暗黒の深海に潜むダイオウイカをエコーロケーションでしっかりとらえて近づくともう一つの武器である圧縮音を炸裂させてダイオウイカをしびれさせてしまうのです。しびれたダイオウイカをとマッコウクジラのバトルは深海で行われていますがバトルが長引いて海面でのバトルが目撃された例もあります。体長18mどうしのバトルですから凄い迫力だったようです。
 こうしてマッコウクジラは大きなダイオウイカを小さな口から飲み込んでしまいます。捕鯨が盛んであった頃、マッコウクジラを捕獲すると胃の中から生きたままのダイオウイカが出てきていました。マッコウクジラはバトルを終えて水面に息をしている間に捕鯨船に撃たれるのですから、まだダイオウイカが生きていて当然です。
オスのマッコウクジラは獲物のダイオウイカを捕まえるために苦しい想いをして深海へ潜っていますが餌の獲れない子供やメスのためにダイオウイカの肉片を与へている様子も観察されています。

マッコウクジラは抹香鯨と書くように超高級な動物性香材を作りだしています。その香材の名前は竜涎香(りゅうぜんこう)、英語でAmbergris アンバーグリスと呼ばれています。竜涎香はマッコウクジラが食べたダイオウイカの未消化部分であるイカのクチバシが腸に刺さると特殊な脂肪が分泌されて腸から剥離されるものと言われています。ですから1,000頭に1頭ほどの割合で作りだされる極めて貴重な香材です。昔の人は“鯨糞”とか“竜糞”と呼んでいました。正にマッコウクジラの排泄物の一種です。

 竜涎香は脂肪の塊ですから海面に浮きます。排泄されて5年、10年と海面を漂って太陽の紫外線を浴びたり、空気に触れて酸化したりすると品質が向上し高価な竜涎香になります。やがて海辺に打ち上げられた竜涎香はビーチコーマーによって拾われます。商業捕鯨が禁止された現在、竜涎香を提供できるのはビーチコーマーだけです。

 17世紀の沖縄は国をあげて漂着物である竜涎香を探す文化があり、そして世界に高い品質の竜涎香を輸出していました。そのために役人は海辺を通って竜涎香を探しながら通わせたり、町民には御触を出して竜涎香を見つけたら役所へ届ける、見つけた人には大量のコメを与えるなど通達していました。こうして見つけた竜涎香は役人立会で厳密に計測され、木箱に納められて琉球王府へ集められ輸出されていました、記録によると1644年に17箱、1710年に50袋、1718年2箱、1748年に2200袋1790年に150袋などと記録されていますので周年にわたって多く産出していました。

  最近のニュースで何度か竜涎香が取り上げられています。2006年にオーストラリアの海岸で約15㌔もの竜涎香が見つかり、日本円にすると三千四百万円もの大金を手にしたと言う記事、カリブ海で2005年に30キロもの
 竜涎香が見つかったことや、2006年8月に英国の北ウエールズでも竜涎香でゴールドラッシュのような騒ぎになった記事などがあります。どうやらマッコウクジラの資源が回復して以前より竜涎香が拾えるようになったのかも知れません。
おわり


原子力潜水調査船NR-1

2015年07月10日 | 日記
原子力潜水調査船「NR-1」の活躍
    -世界唯一 舶用原子炉搭載の米海軍「NR-1」潜水船―
                            山田 海人

 今回は1969年建造され、2008年退役した世界唯一の原子力潜水調査船「NR-1」を紹介します。

日本では科学技術庁が「しんかい」600m潜水船を建造し、「よみうり号」が運行していた頃、アメリカ海軍が建造したのが世界初の原子力潜水調査船「NR-1」です。
「NR-1」の一番の特徴は動力源に舶用原子炉を備えていることです。そして水深754mまで潜航可能で、軍事活動、海底の捜索及び回収、海底に調査機材の設置、メンテナンス、そして海洋科学の研究を行う目的で 1969年6月に進水し、海上行試は8月19日に行われ、同年10月27日に完成しました。建造メーカーはジェネラルダイナミック社です。

 このための、海底を観察する3つの覗き窓、マニピュレータ、外部照明、テレビカメラ、スチールカメラ、サンプルバスケット、切断装置、そして船体には収納可能な海底移動用の車輪2個が装備されています。13人乗りで研究者2名が含まれています。船内にはトイレ1式、ベッドは2名が共有で使用し、数週間の連続潜航が可能です。また通常の原子力潜水艦に装備されている海面を監視するための潜望鏡も備わっているので海面下に潜航していても海面の目標を監視することができます。

現在の「NR-1」の主要目:(1993年に大改造が行われた。)
 全長:150フィート 45.72m 耐圧殻長さ 96フィート 29.3m
 直径 12フィート 3.8m
 排水量:400トン 潜水能力:3,000フィート 915m
 潜航可能日数 通常 210人/日  最大 330人/日
 乗組員:士官 2名 下士官 9名 科学者 2名 合計13名
     最低人数 士官 2名 下士官 5名 合計7名
 「NR-1」チーム:現在総員35名が所属し、その度仕官などが指名されて
  潜航メンバーが決まります。
支援母船:米海軍SSV Carolyn

  それでは「NR-1」の特徴である原子力を動力とする潜水調査船は、なんと言っても調査地点に長く留まっていられることです。その理由は、まず、支援母船に頼らない運用ができることです。通常の潜水調査船は、支援母船によって調査地点まで運ばれ、支援母船のクレーンで着水・揚収され、潜航中も無線による交信をはじめ、現在位置の把握、浮上までの運行、そして支援母船の船上で整備されます。このように潜水調査船と支援母船とが一体となって潜水船システムによる行動が行われています。さらに、通常のバッテリー駆動の潜水調査船の場合は、エネルギーの問題から海底にはあまり長く留まってはいられません。例えば「しんかい6500」は毎分40mのスピードで潜降・浮上をするので水深6500mまで2時間半の潜降、そして浮上も2時間半ですから合計5時間、海底では3時間ほどの滞在になります。 また、1回の潜航毎に支援母船からクレーンで吊り上げられ着水し、潜航を終えたらスイマーが吊り上げ索を接続させてクレーンで吊り上げて揚収しています。ですから揚収の際の天候に支援母船はとても気を使っています。場合によっては早めの揚収が行われるので海底での滞在時間は更に短くなります。
 「NR-1」の場合は、場合によって船舶で調査地点まで曳航されることがある他、一旦潜航すれば独立した運用が行えます。荒天で海面が時化てきても、揚収に危険な夜になっても問題はありません。海底での調査は対象物に近寄って情報を得る分けですから、その地点に長く留まっていられるほど多くの、そして正確な情報が得られるのです。これまで「NR-1」は、1986年にスペースシャトル・チャレンジャーの事故の際、海底に落下したチャレンジャーの重要な部分の回収にこの利点を使って活躍しました。荒天の冬1月から4月の時期に「JOHNSON SEA-LINK」と「NR-1」の2隻が捜索に参加しましたが調査海域では頻繁に浮上することもなく、海底に留まることができるので、「NR-1」は、深海での捜索での重要な役割を担っていました。捜索海域に低気圧が襲っても、他の船舶が撤退しても「NR-1」はその場に留まって捜索を続け、大きな成果を挙げたのです。こうした実績は1990年のニューイングランド沖のエジプト航空990便の墜落事故においても厳しい天候の中で天候に影響されずに良い成果をあげました、
 こうして40年以上も第一線で活動してきた「NR-1」ですが公にされている潜航実績は1986年のスペースシャトル「チャレンジャー」の捜索と1995年にカルタゴ通商航路の考古学的調査を実施した程度で大半は機密性の高い軍事活動であったようです。
 この「NR--1」は2008年9月に退役しました。

ハリケーン500年の歴史

2015年07月09日 | 日記
ハリケーン500年の歴史
                         山田 海人
 台風とともに大きな被害を与えるハリケーン(北大西洋の熱帯性低気圧)がどれだけ南部アメリカに被害を与えてきたか、コロンブスの大陸発見からの500年を遡ってその実態に迫ります。

御急ぎの方は 以下のハリケーン500年の歴史のサマリーをご覧下さい。
☆最も破壊的なハリケーンは? 1992年のhurricane Andrewはアメリカだけで265億ドルもの被害を出した。
☆ハリケーンに男性名はあるの? 1979 年から男性名が使われFredericやDavidの名前が付きました。
☆ハリケーンはいつから名前が付いたのか? 1954年から女性名が付け始めました。
☆最初にハリケーンの目に向けて飛んだ人は? 1943年 パイロットのJoseph P. Duckworth 大佐
☆ハリケーンの警報はいつから? 1873年 アメリカで最初のハリケーンの警報が出される。
☆歴史の中で最も被害の大きいハリケーンは? 1780年 カリブ海を襲った史上最大のハリケーン。
☆ハリケーンの研究は?1819年  ハーバード大学の教授はハリケーンの概念を公表しました。
☆フランクリンはハリケーンを研究した?ベンジャミン・フランクリンは1743年9月の月食観測がハリケーンに邪魔され、ハリケーンに好奇心が高まった。
 ☆ハリケーンをはじめて報告した人は? 1495年 コロンブスは、イスパニョラの近くでハリケーンに遭遇し、報告したのが最初です。
 

2005年 10月観測史上最大のハリケーン Wilmaは中心気圧882hpとなり、1988年Gilbertの888mbの記録を破りました。
2005年 9月カテゴリー5に発達したRitaは激しい風(180mph)を伴ってテキサス、ルイジアナを襲いました。風と高潮により大きな被害を出しました。アメリカでの被害は100億ドルに達しました。
2005年 アメリカの歴史で最も壊滅的なハリケーンとなったKatrinaは8月25日にフロリダに上陸し、ニューオーリンズなどに大きな被害を与えました。歴史上もっとも高価な750億ドルもの被害がでました。
2004年 Jeanneは9月26日にフロリダに上陸しましたが、プエルトリコの歴史的な洪水とハイチでの致命的な鉄砲水および泥流を起こし、3000人以上の死者と200,000軒の家を失いました。アメリカでは、約69億ドルの被害になりました。
2004年 Ivanは9月16日にフロリダに上陸し、15フィートの高潮を伴ってグランド・ケイマンの95%の建物が被害を与えました。このハリケーンは100以上の竜巻と豪雨を起こし、米国での被害は約142億ドル(記録上の3番目)となりました。
2004年 8月14日フロリダに上陸したCharleyはカテゴリー4の強度になり、150mphの近くの最大の風で上陸しました。チャーリーは猛烈な風と16の竜巻を起こし、米国史で2番目に高価な約150億ドルの被害を出しました。
2004年 カテゴリー5の強度に達したIsabelはヴァージニア、メリーランド、デラウェアおよびワシントンD.C.に被害を与え、イサベルは1933年以来チェサピーク湾地域に影響があった最悪のハリケーンでした。特に強風は400万人を超える市民の樹木がなぎ倒されました。
2001年 カテゴリー4となったIris は10月9日フロリダに上陸し、激しい被害をだしました。

1990〜2000年
ハリケーンの観測網の整備が大幅に向上しましたが、それでも多くの被害者と施設の破壊を生みました。
2000年 トロピカル・ストームとハリケーンの発生件数は年平均以上でしたが本土上陸には至りませんでした。
1999年Floydは9月16日にノースカロライナに上陸し、ニューイングランドの中
への海岸に沿って北上しました。この洪水で50名が死亡しました。東米
国を氾濫とさせました。
 1998年Mitchは最初にホンジュラスの約60パーセントを嵐に巻き込み、何千人
もの死者を出し、中央アメリカを縦断してアメリカでの死者11,000人に
達しました。Mitchが中央アメリカの多くを横切って熱帯悪夢を解放した
時、破損は55億ドルを超過しました。Mitchは1780年以来の最も被害が大きいハリケーンとなりました。
1997年 この年は3つのハリケーンだけで静かな年でした。被害がひどかった95年および96年を忘れさせる軽微なものでした。
1996年 カテゴリー3を超える6つのハリケーンの被害を受けました。この年はいくつもの強い熱帯低気圧を発生させ、アメリカ、メキシコ、中央アメリカおよびカリブ海の島で147人もの死者を出しました。
1995年 この年は21ものハリケーンが発生して1933年以来二番目の記録になりました。
1992年Andrewが南フロリダを襲いました。アンドリューは8月24日に南フロリダに上陸し多くの施設を破壊し、引き続きメキシコ湾へ出て、8月26日にルイジアナ沿岸を襲いました、アンドリューはバハマ諸島でアメリカと3人と23人の死者を出し、アメリカだけで265億ドルもの被害がでました。これによりアンドリューは最も破壊的なハリケーンとして記録されることになりました。

1989 年Hugoはサウスカロライナのチャールストンを破壊しました。ユゴーはプエルトリコとバージン諸島を通過後に、9月22日にチャールストンに上陸し、20フィートもの高潮が市内を襲いました。この被害でアメリカで21人、プエルトリコおよび米国バージン諸島で5人の死者が出ました。そしてアメリカでは70億ドルの被害がでました。
1988年 ハリケーン Gilbertは888mbと史上最大規模に発達した。
1983年 EarlyとAliciaは重大な早期警報は8月18日にガルベストンとヒューストンを乱打しました。強い風が高層ビルに押し入ったとともに、ヒューストンのダウンタウンでは突風で割れたグラスが通りを散らかしました。このハリケーンでアメリカの損害は死者21人および20億ドルの被害でした。
1979 年Fredericはメキシコ湾沿岸を強打し、その結果損害で35億ドルを引き起こしました。ハリケーン・Davidは死者2,000人もの被害を出して、その季節の初めに、カリブ海、フロリダおよびカロライナを貫通しました。
      この年から気象関係者は、ハリケーンに男性名を使うようになりました。
1975年 気象学者Herbert Saffirと Robert Simpsonは、ハリケーンを測定するためのサフィール・シンプソン・スケールを開発しました。
1974 年Fifiはホンジュラスで10,000人もの死者を出しました。フィフィは9月18日および19日にその打撃はバナナ作物の80パーセントを破壊し、ホンジュラスの牛の5分の2を溺死させてしまいました。
1972年 Agnesは8月19日にフロリダ半島に上陸し、ジョージアを経て22日にはニューヨークに達しました。中部大西洋沿岸を氾濫とさせたアグネスはフロリダ、ヴァージニアからニューヨークへ広範囲に洪水をもたらし、アメリカで死者122人の被害を引き起こしました。
1971年 Gingerはハリケーンの長期滞在記録31日間(このうち20日間はハリケーンレベルの強風を伴った)を作り、北大西洋、バーミューダ三角地帯、およびノースカロライナとヴァージニアの沿岸を徘徊しました。
1969年 Camilleはメキシコ湾沿岸に大きな被害を与えました。このカミールは8月17日にミシシッピに沿って上陸し、北へ移動しました。24.6フィートの高潮がミシシッピのパス・クリスチャンで発生し、これに加え、強風と大雨、ヴァージニアの洪水で死者143人の被害を出しました。
1965年 Betsyはバハマ諸島を経てメキシコ湾をゆっくり移動(移動距離600マイル)しながら暴れまわり、マイアミなどに6フィートの高潮の被害を与えました。
1963年 Floraは ハイチとキューバで7,000人以上の死者と建物の倒壊30,000軒の被害を出しました。有史以来最大のハリケーンとも言われた。
1960年 Donnaは9月11日にフロリダに上陸し、次に、ニューイングランドに到着して、北へ移動した。ドナは、フロリダで颶風となったただ一つの嵐、このハリケーンで死者50人を出しました。
1957年Audrey はテキサス・ルイジアナを襲いました。6月27日にテキサス-ルイジアナ境界を襲ったオードリーは南西部の海抜の低い地域25マイルに高潮の被害を出し、390人の死者を出しました。
1955年 Connie と Dianeは、これらの2つのハリケーンが打った中部大西洋の州を氾濫させます、8月に上陸したダイアンはマサチューセッツへ壊滅的な洪水被害を与えました、死者は184人となりました。
1954年 Hazel は豪雨をペンシルバニアへ持って来ました。10月15日に、カロライナに上陸したハリケーンは厳しい洪水をともなう豪雨とともにペンシルバニアとニューヨークを通りぬけ、カナダへも被害をだし、ハイチで、アメリカで死者95人、カナダで死者100人概算合計400人の死者を出す惨事になりました。
      気象関係者はハリケーンに女性の名前を1954年から名付け始めました。
1953年 Carol が、8月31日にニューヨーク、ロングアイランド、およびコネチカットに上陸し、ニューイングランドなどに被害が出ました、キャロルはアメリカで60人の死者と4億6100万ドルの被害を与えました。また同様のEdnaは数日後に生じて、9月10日にケープコッド上に上陸して、20人の死者を出しました。

1944年 9月上旬東海岸を襲ったハリケーンによりアメリカで46人の死者を出しました。 さらにこの時、第二次世界大戦の最中であった為、海軍駆逐艦および掃海艇、2隻の.沿岸警備隊の船舶および1隻の灯台船を含む5隻の船舶が、沈められ、その結果344人の死者を出しました。
1943年 パイロットのJoseph P. Duckworth 大佐は世界で最初にハリケーンの目まで飛行させることに成功しました。
1940年 8月上旬のハリケーンは、ルイジアナで31.66インチの豪雨を降らせ、南東部で大洪水を引き起こしました。これにより50人の死者が出ました。
1938年 ハリケーンが、ニューヨークに上陸し「ロングアイランド急行」として知られているロングアイランドとコネチカット間の鉄道を混乱させました。この後、南ニューイングランドにも被害を与え600人の死者をだしました。
1935年 9月2日ハリケーンはフロリダキーズに上陸し、次に、南東アメリカを北上しました。強風と高潮はそのエリアで働く第一次世界大戦の工場などに被害を与え、フロリダキーズだけで408人の死者を出しました。これはアメリカを襲った今までで最も極度のハリケーンでした。
1933年 8月のハリケーンは東ヴァージニアに被害を出しました、この年は、21のハリケーンおよびトロピカル・ストームが襲来しの記録的なハリケーン・シーズンになりました。
1930年 9月にハリケーンが ドミニカ共和国サントドミンゴを襲来し何千人もの死者を出しました。
1928年 9月13日にプエルトルコを直撃したSan Felipeハリケーンはカリブ海とフロリダで3,411人を死傷させました。このハリケーンは16日にフロリダパームビーチに上陸し、内陸のオーキチョビ湖では、6〜9フィートの高潮を引き起こしました。約1,836人がフロリダで、プエルトルコでは312人が死亡しました。
1926 年 カテゴリー4のマイアミ・ハリケーンは9月18日にマイアミで上陸し、その結果強風と高さ15フィートの高潮により施設の破壊と350人以上が死んでいることが報告されました。また、ハリケーンによる広範囲の破壊は、マイアミビーチの最初の建築法規の開発に結びつきました。それは5000以上の都市で引用されることになりました。
1919年 ハリケーンはキューバ、フロリダキーズおよびテキサスを襲いました。このハリケーンは9月14日に、12フィート以内の高潮でテキサス・コーパスクリスティ(テキサス)に上陸し、死亡者数は600〜900人の大きな被害となりました。
1900年 国家の致命的な自然災害となったハリケーンが9月8日にテキサス・ガルベストンに上陸し、6,000人以上が死亡しました。このハリケーンは8〜15フィートの高潮を起こし、ガルベストン島の大部分を浸水させました。

1900〜1950 気象関係者はハリケーンの洪水と高潮の危険を理解し始めたとともに、米国史上で最も破壊的で、最も致命的なハリケーンがこの間に襲来しました。
1893年 8月のハリケーンは、南部で何千人もの死傷者を出し、サウスカロライナの人工島(barrier islands.)を沈めました。また、10月のハリケーンはルイジアナ河口を氾濫させ、2000人もの死傷者を出しました。
1886年 6月に襲ったハリケーンはルイジアナに21.4インチもの豪雨を降らせ、テキサスへ移動して行きました。このハリケーンで完全に壊滅したIndianolaの町は後に再建されることはありませんでした。
1881年 8月に上陸したハリケーンによって、ジョージア・オーガスタのいくつかの人工島は、高潮によって完全に沈められました。このハリケーンでジョージアとサウスカロライナで700人が死亡しました。
1878年 動きの遅いハリケーンはフロリダキーズで上陸し、3日間フロリダにとどまり、ゆっくり北上して行きました。
1873年 アメリカで最初のハリケーンの警報が米国軍隊通信部隊U.S. Army Signal Corpsによって発令されました。場所はニュージャージとコネチカットの沿岸に出されましたが、幸いに上陸はしませんでした。
1848年 フロリダに上陸したハリケーンはタンパを通って15フィートの高潮を押し上げ、タンパの一部はその後に来たハリケーンによって、ほとんど壊滅されました。
1846年 9月にやってきたハリケーンによって、フロリダ・キーウェストの600軒の家のうちの8軒以外はすべての破壊されました。何人かの専門家は、この時のハリケーンは恐らくサフィール・シンプソン・スケール上のカテゴリー5だったと言っています。
1837年 19世紀の最多の暴風雨のうちの1つとなったこのハリケーンは、ジャマイカの近くで発生し、ユカタンを横断し、テキサスの湾海岸を打ち、10月9日にノースカロライナ海岸から到着する前にルイジアナ、ミシシッピ、アラバマ、ジョージアおよびサウスカロライナに被害を与えて行きました。
1819年  ハーバード大学の教授はハリケーンの概念を公表しました。ハリケーンの概念は"moving vortex"である。そしてハリケーンは"appears to have been a moving vortex and not the rushing forward of a great body of the atmosphere." と言った。
1815年  9月にニューイングランドを襲った破壊的なハリケーンは"The Great September Gale"と呼ばれ、最初に、ロングアイランドに上陸し、再びコネチカットに上陸し大きな被害を出しました。

1800年代は科学者がハリケーンを理解し始めました。そしてハリケーンの接近を予測して警報を出すことができるようになりました。しかし、増える知識にもかかわらず、ハリケーンはその世紀の間じゅう法外な破壊を引き起こし続けました。
1780年 史上最大のハリケーンがカリブ海を襲いました。カリブ海に住んでいた英国人およびフランスの艦隊を破壊しました。これまで記録された歴史で最も致命的なハリケーンとなっています。
1776 年 ハリケーンはマルティニークで6,000人以上の死傷者を出しました。
1752年  ハリケーンはサウスカロライナ・チャールストンを襲いました。17フィートの高潮は500軒以上の家を破壊しました。
1749年  ハリケーンはヴァージニアの海岸線を変更し、ノーフォークでは800エーカーに砂をまき散らした記録があります。
1743年 ベンジャミン・フランクリンは1743年9月の月食を観測する予定でしたがハリケーンが中断してしまいました。この結果、彼の好奇心が刺激されて科学的なハリケーンの基本的研究の第一歩を踏み出しました。
1635年 8月にニューイングランドを襲ったハリケーンはボストンとマサチューセッツ・プリマスの間に通過し、ボストンで20フィートの高潮を引き起こしました。ウィリウム・ブラッドフォード知事は多くの家や木々が壊された様子を報告しています。
1609年 7月28日にハリケーンによって船が壊れが150人の搭乗中の男性、女性および子どもの多くはバミューダ諸島に避難したと記録されています。
1565年 ハリケーンがフロリダ・ジャクソンビル沖に待機していたフランスの艦隊を破壊してしまい、フランスが北アメリカの大西洋岸をコントロールする企てに失敗します。
1559年 ハリケーンはスペインの遠征艦隊を破壊してしまいました。フロリダを奪還するために送られた74隻のスペインの艦隊はハリケーンによってほとんどの艦隊は沈められました。
1495年 コロンブスは、イスパニョラの近くでハリケーンに遭遇します。最も初期のハリケーン報告書はクリストファー・コロンブスから出されています。コロンブスは新世界への彼の航海のうちの1つ中のトロピカル・ストームに遭遇しました。
1495〜1800のハリケーンが、南北アメリカのヨーロッパの調査および植民地化の間に重要な役割を果たしました。

コウモリダコは深海のマスコット

2015年07月05日 | 日記
 「コウモリダコ」は深海のマスコット
山田 海人(かいと)

コウモリダコは世界の温帯から熱帯の深海に生息し、体長は13~30㎝ほどです。ゼラチン状の身体、つまりクラゲのように柔らかい身体をしています。コウモリダコのゼラチン状の身体は、ビロードのような、真っ黒のような、赤みがかったような色をしています。8本の腕の間は外套膜があってその内側は真っ黒になっています。腕の脇には目立たない袋の口があってそこに収まる細い触手は腕より長く伸びます。
眼の色は赤ですが青くみえる時もあり、この眼は外径が2.5センチもあって身体の割りにはとても大きく、動物界で最大のサイズの眼を持っています。
 子供のコウモリダコは主にジェット推進にたよっていますが、大人の身体には側面に突き出た耳状のフィンがあり、このフィンを効率良くはたくように動かして移動しています。これまで身体の2倍の距離を1秒で泳ぐ様子が観察され意外と速く泳ぐことが分りました。餌は中層のエビなどを食べています。
タコやイカの仲間には墨袋を持っていて捕食者に襲われると墨を噴き出して逃げますがこのコウモリダコには墨袋がありません。さらにタコやイカには活発な色素があって体色を明るくしたり、暗くして捕食者に見つけられないようにして逃れますが、コウモリダコにはこの活発な色素もありません。こうして捕食者への武器を持っていないコウモリダコは捕食者の少ない酸素の少ない中層で生息しているようです。

これまでコウモリダコはマッコウクジラやアザラシ、深海の魚の胃の中から見つかっています。コウモリダコの英名はVanpire Squidで吸血鬼と言う名がついています。これは奇妙な形から名付けられたようです。次にイカとなっていますが、なぜ日本名はタコなのに、英名はSquidとイカなのでしょうか? それは発見された1903年に遡ります。最初の発見の記載では8本の腕であったため、タコの一種と考えられていました。その後の観察で2つの腕がポケットの中から発見され10本の腕でイカの仲間になりました。

 コウモリダコは深海の中層に生息していますがただの中層ではありません。中層のなかでも酸素の最も少ない600m~1,000mの中層で見つかっています。
この中層は酸素が低すぎるので、他の高等生物は生息できない環境です。それにもかかわらず、コウモリダコは酸素の低い中層で生息できるのです。ではなぜ酸素の低い所で生息できるのでしょうか? まずすべての深海の頭足類の中で最も遅い代謝速度であることが分かっています。次にヘモシアニンによって少ない酸素を効率的に体内に輸送できる能力があるので酸素の低い所で生息できるのです。また、アンモニア系の浮力によって少ない運動量でも中層に浮いていられます。加えて精巧な平衡器官(人間の内耳と同種の平衡を保つ器官)を持っていることも知られています。

 コウモリダコは発光器を持っている深海生物で、コウモリダコの場合は強烈な光を発する発光器ですので発光バクテリアによる発光ではありません。発光器は捕食者から逃れるために使われているようです。
コウモリダコの発光器には三つのタイプがあることが最近の研究で明らかになりました。第1の発光器官は生物発光ディスプレイです。これはフラッシュのように明るく光り、2分以上も光っています。第2の光は細い触手の先端に発光器官を持っていることです、この第1と第2の光は同時に光り、毎秒1~3と閃く、鼓動するように光るのです。その中でも触手の先の光は連続的に光っていて、これを意図的に動かしています。
第3の発光器官は発光雲です。発光雲は、無数の青い光を発するねばねばしたモヤのようなものです。この光の粒子はこれまでの観察結果から9分ほど光ることが報告されています。 発光雲はコウモリダコ以外にもチョウチンアンコウのルアーからも発せられることが確認されています。この発光雲は捕食者などから威嚇された時に墨のように腕の先端から放出されます。この10分近くも光る発光雲で捕食者はそっちに注意が行って当惑してしまうのです。コウモリダコはこうしている間に暗闇へ姿を消すことができます。

 コウモリダコの行動を観察していると他の頭足類では考えられない行動をします。それは捕食者からの回避行動の一つである「パイナップル姿勢」です。
傘のように広げた腕と膜をしだいに裏返して、最終的に身体を包んでしまいます。濃厚に着色された腕の吸盤と膜で身体が暗く隠されてしまうのでパイナップルのようだとしてこの名が付けられました。
                      おわり

潜水艦の事故と大気圧潜水服

2015年07月03日 | 日記
「潜水艦の事故と大気圧潜水服システム」
               海のサイエンスライター 山田 海人

はじめに JAMSTEC横須賀本部から海を眺めると時折、横須賀港へ入港する潜水艦が見えます。アメリカ海軍の原子力潜水艦や海上自衛隊の潜水艦です。 今回は海洋科学の分野から、これまで有名な潜水艦の事故にまつわる話と事故の際に乗員を救難するための救難システム、特に最近アメリカ海軍が2003年に採用した大気圧潜水システムADS2000についてご紹介します。

1. 有名な潜水艦の沈没事故
  世界初の原子力潜水艦「ノーチラス」は1954年に就航して1960年にはこれまで困難であった北極点への到達や北極海の横断を可能にした、こうした実績から原子力潜水艦の建造が活発になってきた。しかし、原子力潜水艦の建造技術は当時まだ十分ではなく強度不足などから幾つかの沈没事故を起こしていた。

(1)スレシャーの事故
米海軍の攻撃型原子力潜水艦スレシャー(SSN-593)は1963年4月10
日に整備後の深海潜航試験の折、事故を起こして水深2560mの海底に沈み、
乗員や試験に立ち会った技師など129名全員が死亡しました。
スレシャーは1961年8月に就航し、長さ85m、排水量 3700トン、乗
  員143名、最高速度 30ノット、最大潜航深度360mで主に西部大西洋、
カリブ海での任務に就いていたのです。そしてオーバーホールを行った後の深海潜航試験をマサチューセッツ州ケープコッドの東方220マイルで行っている時に事故は起きました。
行方不明の捜索は深海調査船「ミザール」で行われ、水深2560mの海底で残骸が発見されました。残骸の調査はバチスカーフ「トリエステ」も加わって行われ、「トリエステ」は1963年6月4日から9月1日までの11潜航がスレシャーの捜索を行いました。毎回7時間近くにわたって捜索、写真撮影などが行われています。海底で撮られた各部の写真や回収された部品などを分析した結果、原因はエンジンルームの海水の配管系統の強度不足(溶接ミス)が原因とされました。このことから数年にわたり就航中、建造中の原子力潜水艦の配管系統が全て見直され強度不足の配管が交換されたのです。

 (2)スコーピオンの事故
攻撃型原子力潜水艦スコーピオン(SSN-589)は1968年5月21日に
99人の潜水艦乗組員とともに消息を絶ちました。アゾレス海でソ連海軍の監
視活動を終えて寄港の途中でした。これまで整備もままならない過密なスケ
ジュールで運航されていたスコーピオンはハードに幾つかの問題を抱えてい
た。事故の前年1967年には、スコーピオンはノーフォーク海軍造船所で緊急
修理を受けています。そして米海軍は1968年6月5日に行方不明を宣言しま
した。
  スコーピオンの捜索は深海調査船「ミザール」によって行われ、10月末
にアゾレス諸島の南西740キロの水深4000mで船体の一部を発見しました。
海軍の発表によるとスコーピオンの事故の原因は搭載していた魚雷の爆発に
よるものとされていますが部品の問題だと言っている意見もあり、まだ本当
の事故原因は謎に包まれています。


(3)ソ連の潜水艦ハワイ沖に沈む
1968年4月11日にソ連の弾道ミサイルを搭載した非原子力潜水艦K-129 
約3000トンが原因不明の事故でハワイ南方沖800マイル、水深5200mの深
海へ沈んでしまいました。
この事故では潜水艦が3個の核ミサイルや暗号コードなどを搭載していたこ
とから、CIAが関心を持っていて1973年からハワード・ヒューズも係わって
大がかりな捜索・回収が行われました。この深海掘削船グロマーエクスプロ
ーラーによる捜索・回収が海洋科学で有名になった理由は、アメリカは最新
の音響探査システムによって水深5200mに沈む潜水艦の位置を特定したこと、
水深5000mもの海面にスラスターによって定点保持(DPS)できる深海掘削
船グロマーエクスプローラーを建造したこと、水深5200mから3000トンも
の重量物を回収したことなどです。この計画はプロジェクト・ジェニファー(1973~1975)と呼ばれ、五億ドル(約1,300億円)もの経費が使われたとさ
れています。当時は冷戦の最中なので沈んだ潜水艦からCIAが最新鋭のソナー、レーダ、3個の核ミサイル、暗号コードなどの機密を入手することが目的であったようです。
深海掘削船グロマーエクスプローラーは長さ188m、幅35m、36000トン、
最高掘削深度 9150mで船体中央に60mもの大きなムーンプールが設けら
れていました。捜索・回収にはこの大きなムーンプールから大きな「クレメ
ンタイン」と呼ばれる回収装置(90m×18m)にテレビカメラを付けて回収
操作が行われました。このカメラで船体を確認すると船位を少しづつ移動さ
せて回収装置クレメンタインを真上に位置させて回収作業が開始されました。
こうして回収装置の爪をK-129の船体に挟むことができ、揚収し始めまし
たが想像を超える地切りの重量がかかり、なんとか巻き揚げをスタートでき
ました。しかし、途中で爪3つが崩れK-129潜水艦をスリップさせるトラブ
ルも起きました。 回収はこのように大変な作業でしたが8人の遺体ともど
も多くの潜水艦の部品など水深5200mから回収されました。

(4)海軍の深海調査船「ミザール」の活躍
  これまで紹介した潜水艦の事故では大洋の深海(2500m~5200m)へ沈
んだ潜水艦を捜索するという難しい任務でした。しかし「ミザール」はこれ
らスレシャー、スコーピオン、K-129潜水艦を執拗に捜索して残骸を発見し
ました。
 この深海調査船「ミザール」は、総トン数 3886トン、長さ81m、幅16m、
深さ5.5m 速力13ノット、乗員 42名で耐氷能力を持った輸送船として
1958年3月に就任し、カナダやグリーンランド、南極への航海などを任務
としていました。そして1964年4月には任務を変更して海中音響のエキス
パートであるゴードン・ハミルトンが設計した曳航体(カメラ、ストロボ、
ソナー、磁力計など)を装備しました。
 こうして深海調査船となった「ミザール」(MA-48/T-AGOR-11/T-AK-272)は
海軍の研究所MSTSに所属し、主な任務は海面下の音響探査、海洋底の調査、
海洋物理・化学・生物調査でした。しかし、「ミザール」を有名にしたのは
スレシャー、スペイン沖の水爆回収、スコーピオン、K-129を含むソビエト
の潜水艦の捜索に参加し、成果を挙げたことでした。これまで紹介した大洋
の深海底で発見された潜水艦の船体の画像は「ミザール」が撮影したもので
す。今回紹介した「ミザール」の画像にはトランスポンダーの設置作業の様
子が写っていますが現在の耐圧ガラスブイと異なって大きな浮力体が使わ
れていました。
  深海調査船「ミザール」は1990年2月16日に引退し、沿岸での任務につ
いて2005年7月に解体されています。

(5)ロシアの原子力潜水艦「クルスク」の事故
  北極海のバレンツ海で2000年8月12日原子力潜水艦「クルスク」(k-
141)長さ154m 排水量18000トン 最大潜航深度500mは魚雷の暴発で
118名の乗組員とともに水深108mの海底に沈んでしまいました。事故当初、
艦内に生存者がいるとのことでロシア政府はイギリスとノルウェーに救助を
依頼しました。
これを受けたイギリス海軍の救助チーム(Submarine Rescue Hedquarter)
とは、潜水艦内の生存者を救出するために無人探査機、スコーピオン45およ
びLR5救難艇を用意し、通報後12時間以内に救助することを目標としてい
ます。今回は北極海の厳しい作業環境で救難用のハッチの開放作業に手間取
り、後部ハッチの開放は11日後の8月23日で救助には間に合いませんでし
た。また、今回の事故では「クルスク」の船体は左舷に60°傾いて着底して
いて救助艇のメーテイングを難しくしていることも分かりました。
  その後、「クルスク」の船体の回収を行う調査が行われ、世界初の約9000
トンものサルベージが行われました。実施したのはMammoet社とSMIT社の
合弁事業で行われ、前部の魚雷区画は海底に設置した油圧の切断装置で切断
されることになりました。切り離された船体は回収され10月22日にドライ
ドックに揚収されました。この引き上げ作業の契約金580万ドルと言われ
ています。この事故では乗組員の救助に手間取ったことや放射能もれ、北極
海での悪天候の中での作業、記録的な重量物の海底からの揚収など世界中の
関心が寄せられていました。
  今回出動したイギリスの救助チームはスコットランドのグラスゴーに本部
があって、ROVチームは水深600mまでの沈んだ潜水艦に近付いて、沈んで
いる船体の状況、生存者からの反応、脱出用ハッチの状況などを調査します。そしてLR5救難艇チームはパイロット、エンジニアー、テクニシャンによりチームが構成され、LR5救難艇は長さ9.2m、幅3m、高さ2.75m、重量21.5トン、最大潜航深度400m、速度2.5ノットで沈んだ潜水艦の救助ハッチにメ―ティングして乗員を救助できます。
2005年8月には、ロシアの小型潜水艇Prizの救助に向かった6人のメンバーが、ROVスコーピオン45を使って網に絡まった同艇を解放して7名の乗員を無事救出したことは記憶に新しい。

2.ADS 2000システム
 これまで紹介したように潜水艦の事故は大きな被害を受けるので各国の海軍は 確実に、より早く潜水艦を救出できるシステムを備えようと取り組んでいます。これまでもROV(無人探査機)、DSRV(潜水艦救難艦)、ダイバーによる飽和潜水などで対応していましたが米海軍は新しい潜水システムを評価して海軍のシステムとして活用し始めました。現在では2基のハードスーツが購入されて訓練などが行われています。

(1)ハードスーツ(ADS2000)とは
 この新しい潜水システムはOMADS(一人乗り大気圧潜水システム)の中の大気圧潜水服システムと呼ばれるものです。 このシステムはカナダのOceanWorks社が製作したハードスーツ(ADS2000)です。米海軍は沈んだ潜水艦の乗員を救助するのに、このハードスーツを活用しようというのです。
 ハードスーツは人間の形をした耐圧型の潜水服で一人乗りです。ハードスーツは胴のところで上下に分かれます。まず下半身の部分に入り、上半身をかぶって胴のところでシールを閉めて装着完了です。こうして内部は大気圧の状態で潜降します。狭い空間ですから内部の空気は炭酸ガス吸収剤を通して浄化されて循環しています。呼吸して酸素が吸収されると大気圧が下がるので、下がった分だけ新しい酸素が供給されて、内部の空気が清浄に保たれる仕組みです。
 腕や脚部は宇宙服で開発された軽く動く関節で、ダイバーの腕や足を動かすことで、海底を歩いたり、腕を曲げ、グリップを閉めて物を掴んだり挟んだりすることができます。人力で動かすので水中で重たい物を持つとおおよその重量を腕で感じることもできます。 また、腕から手を抜いて水を飲んだり、緊急時の操作、マスクの装着もできます。
 背中にはスラスターが装備されているので足のペダルを踏んで操縦しています。こうして内部のダイバーは加圧されることもない大気圧状態ですから深海へ潜水しても潜水病の危険はありません。 水深600mへ20分で潜降し、20分で上昇できます。

(2)潜水艦救難への対応
 このADS2000システムはハードスーツとサイドスキャンソナー、ROVで構成され、事故を起こした潜水艦の救助として最初に動員されるシステムです。
 不慮の潜水艦事故が発生すれば数時間以内に現場へ展開し、ハードスーツ内から見た潜水艦の状態やビデオカメラでの撮影で最初の観察が行われます。
 そして救助用のハッチから残骸を取り除く、ハッチ周りを整備する。潜水艦へのガイドロープの接続などが実施されます。
 ADS2000の特徴は① 搬送が容易で現場へいち早く駆けつける ② 水深610mまでの潜降が可能 ③ 内部のダイバーは大気圧状態で加圧・減圧が不要
 ④ 610mの深度で数時間の作業が可能 ⑤ 作業後ただちに船上に戻れる ⑥ ダイバーを交代して引き続きの作業が可能 ⑦ ダイバー感覚での作業が可能 ⑧ スラスターによる移動と海底歩行が可能 ⑨ 潜水装置としては安価である などがあり、これまでのダイバー作業と潜水調査船とを合わせて割ったような作業が行えることから海軍は採用したものです。


水中でモノを見る工夫

2015年07月03日 | 日記
  水中でモノを見る工夫
                   山田 海人

 人間とは陸上を歩行する哺乳動物で、海の環境には適応していない。確かに人間は海で息をするにも、泳ぐにも、水の冷たさにも、海中を見るにも不便です。今回、人間は裸眼だけでは海の中がぼんやりとしか見えないことを考えてみましょう。
 
 海に適応している哺乳動物のイルカなどは、海中でもしっかりモノが見えているだけでなく、海面から上の空気層でもしっかりモノが見える水陸両用の眼を持っています。人間の眼は陸上用だけですから水中では必ず“眼の前に空気層”がないとモノが見えません。そのために大切なマスクで“眼の前に空気層”を確保して見ています。このため平面のマスクで見ると水中では水の屈折率から1.3倍大きく見えて、より近く見えています。

 ではマスクができる前はどうしていたのでしょうか?海女さんの歴史をみると水中でモノを見る工夫がよく見えてきます。海女さんのマスクは今では両眼と鼻が入るマスクですが、その前は両眼、或は単眼だけのゴーグルでした。
鼻が入るマスクでは、水深が増すと徐々にマスク内の空気層が縮んで締め付けられるスクィーズが起きるので鼻から空気を補充してスクィーズを防いでいますが両眼のゴーグルではどうしていたのでしょうか?

 両眼のゴーグルでスクィーズを防く工夫は、まずゴーグル内の空気層をなるべく少なくすることです。それでも深く潜るとスクィーズが起きるので空気を補充する工夫をしていました。それには両眼のゴーグルに空気袋を付ける方法と口から管で空気を補充する方法です。

 空気袋を付ける方法は、手動の血圧計にあるような握れる程度のゴムバッグを両眼のゴーグルの耳側にそれぞれ付けていました。水深が増すとゴムバッグが縮んで自然にゴーグルへ空気が補充されるのです。当時はゴム製品は高価なものでしたので高級感がありました。それでも深く潜れるので獲物も多く、稼げる高級ゴムバッグ付き両眼ゴーグルだったのでしょう。このゴムバッグの前には動物の革製バッグ、つまり猫の革のバッグが使われていました。

 口から管で空気を補充する方法では、両眼が入るマスクの下にストローのような管が曲げて付けられていました。潜水中はこの管を口に咥えてスクィーズぎみになると管から息を補充していました。

 日本でガラスを使ったゴーグルは1890年ごろからでそれ以前は海女さんは裸眼で潜っていました。水中がボンヤリではなく、しっかり見えるゴーグルの出現は多くの海女さんを誕生させた画期的な発明と言えるでしょう。裸眼で海へ潜ると海水の浸透圧によって眼にダメージが残るので失明の危険もありました。

しかし、裸眼でも水中をしっかり見ようと工夫していた記録も残されています。それは海底に着いたら指を曲げクの字のようにして眼に当て、口から少し息を吐くのです。すると指のおかげで眼の前に泡が溜まり、空気層となって海底がハッキリ見えるのです。こうしてほんの一瞬でも海底をハッキリ見える工夫をしていました。これは皆さんもチャレンジしてみては如何ですか?

水中を裸眼でモノを見ると言うとジャク・マイヨールなど素潜りの限界に挑戦していたダイバーが使っている空気入りのコンタクトレンズをご存じですか?眼にスクィーズの心配がなく、眼球の前に空気層のあるコンタクトレンズでスキンダイバーズ・コンタクト・エヤーレンズ(Skindiver's Contact Air Lens);の頭文字からSCALと呼ばれていました。ちょっと大きめのガラス製ハードコンタクトレンズで、瞳の前に薄い空気の区画を設けたものです。マスクに比べると視界も広く素晴らしい発明と思っていましたが一般のダイバーには広がりませんでした。欠点は眼を直接海水にさらすので眼がしみる、空気層が陸上では光ってしまうので装備している人の眼は宇宙人のようで気持ち悪い、眼から外れてなくすなどでした。30年以上前にSCALを装備した多数のダイバーの写真を見たことがありますが、素顔?のまま潜っている写真はちょっと異様でした。それでもSCALは画期的で水中でモノを見る工夫の現われです。

 このようにダイバーが水中でモノを見る工夫は、まだまだ工夫の余地があります。最終目標は水陸両用の“イルカの眼”なのでしょうが、ぜひ皆さんの豊かな発想力、そして確かな想像力をダイバーの眼の機能アップに向けてみませんか?



深海の巨大生物

2015年07月03日 | 日記
  巨大な深海生物達
                  山田 海人(かいと)
地球は水の惑星である。地球表面の7割は海、その平均水深は3,800mで水深200mより深い深海が海の大半を占めている。私たち人類は宇宙へ飛び出し、月へも11名が行ってきた。しかし、私たち人類は身近な深海のことをあまり理解していない。
 深海は昼間でも太陽の光りも届かない暗闇の世界である。そこに棲む生き物は私たちの知っている陸上の動物の常識を超えた生き物で、深海の中で生活しやすい身体をしている。捕食者から見つからないように自分の影を消す発光器官を持っている。生息水深に留まれるようアンモニアなどで浮力を得ている。暗闇でも獲物を見据える大きく鋭い目を持っている。鋭い臭覚で仲間を探すなどの特徴を持っている。そして幾つかの生き物は深海の巨大症と呼ばれるほど大きな体形を誇っている。
 クジラの仲間のマッコウクジラは、地球最大の肉食獣として知られている。体長18mもあるマッコウクジラは、今では200万頭も生息していると言われ、深海のイカとして知られているのがダイオウイカ(体長18m)を好んで食べている。
 マッコウクジラは、海面で深く息を吸い込むと1時間以上も息を止めることができ、オスでは水深1,000mから3,000mも潜ることが分かってきた。この1時間には、深海へ潜る時間、深海から上昇する時間を引いて残りの時間で、ダイオウイカを見つけ、近寄ってダイオウイカをしびれさせる衝撃音を発する、しびれたとは言え大きなダイオウイカと格闘して小さな口から大きなダイオウイカを吸い込んでしまっている。
 マッコウクジラは、歯クジラなのでイルカ同様に音を使って獲物を探す能力があり、海面で深く息をする前に、すでに餌の存在を確認しているようである。
 マッコウクジラの身体を見ると大きな吸盤の跡が残っているが、これがダイオウイカとのバトルの跡である、18m同士の超重量級のバトルは私たちの想像を絶する戦いで、深海では決着せずに海面に上がってきても続けられた目撃例も残されている。
 これまではダイオウイカが世界一大きくなるイカと思われていたが、2003年に新たに南極の深海から体長20mを超えるとおもわれるダイオウホウズキイカが見つかっている。この2本の蝕腕には大きな爪があってダイオウイカの吸盤より高い攻撃力が確認されている。
 ダイオウイカのような超大物は別としても、人を驚かせる大きな深海生物は他にもいる。
タコにも体長9mにもなるジャイアントオクトパスが北太平洋には生息していて、頭と呼ばれる部分だけでも3m以上あり、口のカラストンビもバケツ大の大きさである。タコも肉食なので遭遇したダイバーを震え上がらせた報告も残されている。
相模湾、駿河湾の深海に生息するタカアシガニは腕を伸ばすと5mを超える大きさになり、世界一の大きなカニとして人気者である。
小さくてかわいいと評判のダンゴムシは1センチほどだが、大西洋、インド洋の深海には体長50センチほどになるダンゴムシの仲間、ダイオウグソクムシが生息している。持ち上げると2キロ近くにもなり、これが怖くてダイビングが始められないと言う婦人も多い。
プランクトンを食べる深海のサメにメガマウスと呼ばれる珍しいサメがいる。口も大きく、5mを超える身体は柔らかく、これまで世界で50匹程度しか見つかっていない希少種だ。日本の周りに生息しているようで日本で比較的多く見つかっている。
海洋の大半を占める深海は、最近の潜水船や深海ロボットの発達でようやく様子が分かりはじめた地球最後のフロンティアである。
 今回ご紹介した巨大生物以外にもまだまだ大きな深海生物が発見される可能性は高く、若い科学者の関心が高い。
      

女性ダイバーの活躍

2015年07月03日 | 日記
  米海軍など女性ダイバーの活躍
                   山田 海人

 十数年前、カリフォルニアにあるオーシャニヤリング系のコマーシャルダイビングセンター(現在はNational Polytechnic College of Science)を訪問した折、混合ガスコースに女性ダイバー研修生がいました。それほど大きな身体でもありませんでしたがハードハットを装備してプールへ飛び込む姿にパイオニアスピリットを感じました。当時は石油・天然ガス採掘の現場で活躍する男性ダイバーを目指して体育会系の若者が混合ガス潜水を学んでいたので女性なのに大丈夫なのかと心配したのを覚えています。

 深海潜水を経験するには他給気潜水器、それも重たいヘルメット、ウエイト、それに重たいウェイトシュースを装備します。米海軍のマークⅤ潜水器は90キロを超えていますので潜水ステージで吊りあげられての潜水になります。このように深海潜水のダイバーになるには屈強な若者のみが修了できる特別な資格でした。ちなみに米海軍のダイバーの平均身長182センチ、体重80キロと言われています。

 最近では厳しい訓練で知られる米海軍のダイバーにも女性の進出が目立ちます。米海軍の深海潜水コースを卒業してマスターダイバーと呼ばれる唯一の女性ダイバーがいます、その名はメアリー・ボーニンさんです。米海軍に入隊して、空気潜水、混合ガス潜水の資格を得て、更に多くの潜水作業を経験して海軍のマスターダイバーにまで昇りつめた方です。ダイバー歴が二十数年あってこれまで1,000人以上もの海軍のダイバーを訓練してきました。米海軍ではメアリー・ボーニンさんの存在を称えて海軍のアンダーシーミュージアムにはメアリーさんの特別展示室を設けているほどです。

 米海軍のダイバーにはマスターダイバー以外にも次々と優秀な女性ダイバーが誕生しました。これまでは“女性だから、それはできない!”と回避していたことも男性と同様に行うようになりました。そして最初に女性深海ダイバーとなったのはドナ・トビアスです。1975年に他給気混合ガスのハードハット(マークⅤ)をかぶっての潜水研修を修了して深海ダイバーになったものです。ウェイトシュースは両足で25キロ、胸のウエイトは45キロ、ヘルメットなど20キロを装備しての潜水作業を行ってきたのです。女性ダイバーとしてエンジニアリングのトップとなった女性ダイバーもいます。ダイアン・カレン・リンは1977年に海軍に入隊し、土木部門の部署に勤務した後、83年に海軍の深海潜水コースを卒業、飽和潜水ダイバーの資格を得ました。そしてダイアンは水中土木の技術とダイバーの経験をいかして海中工学の専門家となりました。最後の海軍の任務では250人のダイバーとエンジニアのトップとなって2000年まで活躍しました。その後、海軍を退官してマリン・テクノロジー。ソサエティーの副会長に就任し、現在ではバージニア大学で土木工学を教えています。

 また、女性初の米海軍サルベージのスーパーバイザーに就任したのはバーバラ・ボビー。ショウリ―です。バーバラは1996年のTWA800便のサルベージ、2000年にCOLE爆撃機のサルベージなど2002年まで多くの作業で指導的役割を担い、女性初のスーパーバイザーとなりました。サルベージ作業をエンジニアリングとして捉え、更にダイバー作業を安全に行って、目的を達成するという責任の重いスーパーバイザー、これを成し遂げたのですから素晴らしい才能の持ち主です。2005年に海軍を退任しましたがイリノイ州立大学からサイエンスの名誉博士号を与えられました。海軍にはまだまだ書き足りないほど多くの才能あふれる女性ダイバーがいます。

 サイエンスの分野でも女性ダイバーが活躍しています。1970年に行われた海底居住実験テクタイト計画ですが1つのミションでは女性だけのチームが海底居住を経験しました。そのリーダーであったシルビア・アールは海洋生物学者で潜水調査船「アルビン」をはじめ、大気圧潜水服「ジム」でも深海へ潜水するなど活躍しています。また、もっと深海へ行きたいと「アルビン」のパイロットになってしまったシンデイー・バン・ドーバーは熱水噴出孔と化学合成生態系のエキスパートで現在はデューク大学の教授です。
サメの研究家で日本人の血を受け継ぐユジニー・クラークはスクリップス海洋研究所の研究に貢献しています。2003年のスペースシャトルコロンビアの事故で亡くなったローレル・クラーク宇宙飛行士も飽和潜水ダイバーであり、海軍の潜水医官としても活躍しました。

 他にも潜水機材販売会社として有名なDUI社のスーザン・ロング社長やカービィー・モーガン潜水器会社のコニー・リン・モーガン社長も女性ダイバーの経験をいかして潜水業界で活躍しています。
 今回、ここに紹介した女性ダイバーの方々を見ていますと、モチベーションが高く、知的で、活動的で、チャレンジ精神が旺盛な方々です、何かキラキラと世の中を明るくしているような存在でした。
                             おわり



シャチとは

2015年07月03日 | 日記
  今回は南極から赤道、北極まで広く分布している海の王者シャチについてご紹介いたしましょう。たいてい海の生き物は天敵がいるのですがシャチを襲う海の生き物はいません、食物連鎖の頂点に立つのがシャチなんです。
 シャチは魅力的なクジラですので今回はシャチ・鯱・オルカ(その1)として、クジラを襲う様子など紹介します。(沖合でのシャチとクジラのバトルは目撃された例も少ないので目撃例を基に想像して記載している部分もあります。)

1. シャチとは
 シャチは、歯クジラの1種でイルカより一回り大きな体型をしています。シャチはイルカ38種のうちの1種で、これまで500万年前から存在が知られていて、イルカよりも古く、イルカの先祖とも言われています。
 学名: Orcinus  orca
 和名:シャチ   英名: Killer whale, または  orca
分布:世界の海に分布し、クジラ類としては珍しく地中海やアラビア海にも
生息する
体長など:シャチの体型は、クジラ類の中でも力士のような筋肉質で太い、ぶ厚い体型と大きな背びれを持っています。
大きさは、オスで9.8m 体重8トンのワシントンでの記録がありますが、オスで体長8m、メスはやや小型です。シャチは生まれたての赤ちゃんでも体長2.4m 体重 180kgにもなります。

2.シャチは5種類か?
現在シャチは1種としていますが亜種あるいは別種とする意見があります。それは沿岸に生息するシャチと沖合に生息するシャチの体型上から違いからきています。
この違いは遺伝子情報の研究から200万年前から始まり、ここ1万年前からグループ間の接触はなく分離していると言われています。
 南極付近に生息し、ミンククジラを常食にしているシャチがいます。これを基準とします。 一方、アザラシを常食にするシャチは少し小型で、白い眼帯は大きく、背びれ近くに灰色のパッチを持っています。さらに南極の近くに生息するシャチはさらに小型で群れの個体数が多いのですが、白い眼帯も前方向に傾斜しているのが特徴です。またこのシャチも背びれ近くに灰色のパッチを持っています。他にもアラスカの沿岸に生息していて主にサケを常食しているシャチ、ノールウェーの沿岸で主にニシンを常食しているシャチが知られています。

3. クジラを襲うシャチ
シャチは、クジラ類を獲物にする唯一のクジラの仲間です。これまでシャチが獲物として捕食していたクジラは、シロナガスクジラ、マッコウクジラの大型クジラをはじめコククジラ、ミンククジラからイルカなど22種にも及びます。ですがこれまで同じシャチが共食いとしてシャチを捕食した例はないのです。獰猛なシャチですが決して仲間を襲わないのがシャチなんです。
シャチは、シャチを襲う生き物がいない、つまり食物連鎖の頂点にいる肉食獣です。自然界の食物連鎖は、生き物が生き延びるために、自分より小さな生き物を捕食しています。一方、弱ってしまった大型の生き物も自分より小さな生き物に襲われて食べられています。自然界では一般的に弱った生き物を淘汰する使命、厳しい自然淘汰が行われています。

(1)ミンククジラを襲う
シャチの中にはミンククジラを主な獲物としているグループもあります。ミンククジラは、ナガスクジラの仲間ですがその中では最小のクジラです。小さいといっても体長8m、体重10トンもあって主にオキアミを主食としています。シャチは生き延びるために、ミンククジラの生息域でまだ力のない若いクジラや弱ったクジラを獲物として攻撃しています。こうして今でも南極海ではミンククジラの群の周りからシャチが多く目撃されています。
シャチは獲物を襲う作戦にたけていて、5頭以上のグループでは、大人の健康なミンククジラも襲うことがあり、クジラを襲う時は数時間もかかったなどが報告されています。
若いクジラを襲う手口は、非常に残忍なやり方です。若いクジラは母親と一緒に行動していますが狩りが始まると親子を執拗に追い回すのです、ミンククジラはオキアミなどのプランクトンを食べているので武器らしいものはなにも持っていません。頭突きをする、尾びれでたたく程度しか反撃できないのです。シャチは追い回すだけでなく、胸びれを噛んで行動を抑えるなど、親子双方がくたくたになったのを見計らって離れ離れにし、若いクジラが息をするために水面に顔を出そうとすると上にのしかかって息継ぎを防いで、しまいには溺れさせてしまうのです。
このようにいつも若いミンククジラだけを襲うのではなく、時には健康な成熟したものも襲っています。調査捕鯨で捕獲したミンククジラを調べると多くの個体の胸びれなどにシャチの噛み傷があって、シャチに襲われた経験を持つものがいます。
噛み傷が残っているミンククジラはシャチの攻撃を逃れたものですからシャチも必ず捕獲している訳ではなく、襲ったものの尾びれの攻撃などであきらめる場合、あるいは捕獲のトレーニングをしていることもあるようです。
シャチのミンククジラに対する攻撃方法は息継ぎをさせないで溺れさせて殺す方法です。シャチはいきなりミンククジラの身体に噛みつくこともなく、大量に出血させる訳でもなく、身体の上に乗ったり、胸びれを噛んで息継をさせずに溺れさせているのです。海の哺乳動物であるクジラは水面に出て空気を呼吸しなければなりませんので、シャチの息継ぎをさせないで殺す方法はシャチにとっても被害が少ない攻撃作戦と考えているようです。

(2)シロナガスクジラを襲う
 これまではミンククジラを常食とするシャチの紹介でしたが、シャチは時に自分の身体の数倍もあるシロナガスクジラ(体長30m 体重200トン)を襲う場合もあります。殺す手段はミンククジラと同じ方法、息継ぎをさせないで殺す方法で行われています。シロナガスクジラを襲う場合も仲間と共同で息継ぎをさせないように上からのしかかるもの、下から挟むように威嚇するものがいます。シロナガスクジラもプランクトンを食べているので武器はなく、頭突きと尾びれの攻撃だけです。これも執拗に追いかけ、逃げるように潜水した時がチャンスです。シロナガスクジラは潜って逃げられるなら
いいのですが、シャチには音を使ってエコーロケーション能力がありますから水深深く潜ってもシャチは位置を把握しています。潜水能力もシャチは水深1000mも潜れますので時には潜って追いかけることもあるでしょう。
 こうして深く潜水するとシロナガスクジラの身体には二酸化炭素が溜まり息苦しくなります。水面に向かって息継きをしようとするとシャチ達は息継ぎを邪魔してきます。もう後がないシロナガスクジラは息継ぎができずに溺れてしまうのです。シャチはこうして深い潜水に追い込むのが作戦のようです。水面での攻防では長引いたり、尾びれで攻撃されたりと手こずるので
勝負に出る時は深い潜水を仕向けているのでしょう。
 こうしてシャチ達は溺れ死んでしまったシロナガスクジラの大きな口の中に頭を突っ込んで一番美味しいと言われるヒゲクジラの舌を我先に食べ始めるのです。シャチ達は空腹を満たすとシロナガスクジラの身体の大部分を残したまま去って行きます。

(3)マッコウクジラを襲う
 シャチが襲うマッコウクジラの場合はちょっと異なります。マッコウクジラは下あごに歯が生えている歯クジラです、この下あごが武器となるのでこれまでのヒゲクジラより手ごわい相手なのです。
 大きなマッコウクジラを襲う場合も、潜水しているときに狙われています、マッコウクジラはオスでは水深2000mから3000mも潜水し、餌の15mもあるダイオウイカと格闘して約1時間もの息こらえをするのですが、水面に上がってきた時は早く呼吸をしないと溺れてしまうという切迫感があります。この瞬間をシャチは狙っています。もちろんマッコウクジラも下あごを武器にシャチを攻撃するのですが、敏捷なシャチの動きとグループでの波動攻撃にさすがのマッコウクジラも息継ぎができずに溺れてしまうのです。
こうしてシャチの2倍もある大きなマッコウクジラを仕留めているのです。1時間も息を止めて深海へ潜ってきて体力は限界に達しているマッコウクジラ、水面で新鮮な空気を吸うことで身体のすみずみまで酸素を供給し、溜まった二酸化炭素を排出しなければならない限界の時点で、数頭のシャチの執拗な攻撃、これにはさすがのマッコウクジラでもたまりません。なにより輝く水面に戻りたいと思って浮上している最中に数頭のシャチが水面で待ち構えていると知った時の恐怖感はそれはそれは大変なものでしょう。
他から見ていると地獄絵図のような残忍なシャチの攻撃ですが、マッコウクジラの感覚では息継ぎができないことから酸素欠乏状態になって息苦しさは当然ありますが、次第に意識が遠のいて行く、遠くなる意識の中でこれまで経験してきたことが一瞬よぎって無に向かうのです。
 若いマッコウクジラもシャチにねらわれることがありあすが、マッコウクジラは集団で子育てをしています。さらにマッコウクジラは下あごを武器として、残忍なシャチから子供を守ることができます。子供を円の中心において襲ってくるシャチを下あごと尾びれで攻撃して子供を守り通した例が報告されています。
 私もダイバーでしたから、息を止めて水中へ潜る、息苦しくなる限界まで水中に留まって、明るい水面に新鮮な空気を吸いに戻るという経験をしていました。こうして限界ぎりぎりの潜水をすると水面近くに上がってきてもフッと失神するダイバーがいますが、私は4分近くも息こらえができましたが幸いにも息苦しさで失神したことはありませんでした。
 水中で失神した仲間は、息苦しくなって溺れる(失神)感覚は、息苦しさを忘れて次第に意識が遠くなる、苦しいというより安らかさがあると言っていました。身体の中で酸素欠乏が起きると息苦しさよりも意識が遠のくという症状になりますから、シャチも賢い動物として淘汰といえども安楽死に近い方法、溺れさせる方法を選んでいるのかもしれません。

                             おわり




シーラカンスの発見

2015年07月03日 | 日記
シーラカンスの発見
                         山田 海人(かいと)

 20世紀の大きな発見の一つに7000万年前に絶滅したと考えられていたシーラカンスの発見(1938年)があります。そして、以前いわき明星大学で“シーラカンスの謎に迫る!”がアクアマリンふくしまの主催で行われました。
 私も聴講しましたが広い大学のキャンパスの一部に鉄製のシーラカンスのアートが展示され、多くの写真やイラスト、そして会場の入り口にはマナドシーラカンスの標本が来る人を迎えていました。講演者は、これまでシーラカンスの研究をまとめてきたアクアマリンふくしまの安部館長、岩田さんをはじめ、多紀先生、上野先生、シーラカンスが生息している南アフリカ、インドネシア、タンザニアなどから多くの研究者が参加していました。
シーラカンスについて今回の発表成果で分かったことなど含めて理解してみましょう。 シーラカンス(Coelacanth)とは中空(シーラ)の脊骨(カンス)をもつ魚として名付けられ、最初の化石はカナダの古生代(3億7千万年前)の地層から発見され、三畳紀には多くのシーラカンスの化石が見つかり、中には淡水性のシーラカンスの化石も発見されています。
生きているシーラカンスが発見されたのは1938年南アフリカのイーストロンドンでトロール船によって捕獲されました。それから60年後の1998年にはそこから遠く離れたインドネシアで別種のシーラカンスが発見されました。 現在までの調査で分かっているのは南アフリカ、タンザニア、インドネシアで数百匹が生息し、水深100m~700m、水温十数℃の洞穴をねじろに生息しています。雄170センチ、雌200センチの卵胎生で卵は27粒をもったものが見つかり、産まれたものは30センチほどの大きさになります。
生態は、夜行性で昼間は多くが海底の棚の中や洞穴の中に群れて隠れています。ダイバーやROVでの観察からインドネシアのシーラカンスは好奇心が強く、寄ってくるが、タンザニアのシーラカンスはシャイで洞穴の奥に隠れてしまう。後ろを向いてしまうなど性質の違いがあるようです。中には逆さナマズのように天井についているものが観察されています。シーラカンスの餌は小魚やイカ、エビなどいろいろです。行動範囲に広がりがあり、11キロも移動した例が報告されています。シーラカンスは1989年最も絶滅の恐れのある絶滅危惧Ⅰ類の種として登録されています


 これまでのシーラカンスの発見にはドラマがありますのでご紹介しましょう。
若い女性学芸員の熱意:1938年、南アフリカのイーストロンドン博物館の若い学芸員ラティマーさんは魚の標本集めにトロール船を訪れていました。網に入った魚の山の中に青いヒレが少しだけ出ているのに気付いて、他の魚をどけたところ見たこともない美しい大型の魚を見つけたのです。当時は大型冷蔵庫も少なく遺体安置所の冷蔵庫へ保管し、美しい魚のスケッチを描いて関係者へ郵送し情報を集めたのでした。仲間からは「大きなロックコッドなのにそんなに頑張らなくても」と言われても、美しい魚より受けた強い使命感からの行動でした。一方、ラティマーさんから手紙を受け取ったスミス教授はシーラカンスを正確に描いているスケッチに驚き、歴史的なシーラカンスの発見となりました。ついでに紹介するとスミス教授が巡り合った二匹目のシーラカンスは何と14年後のことでした。
新婚旅行での発見:1997年カリフォルニア大学の海洋生物学者マークさんと新妻のマッドさんは新婚旅行でインドネシアのアマドへ来ていました。見学に来ていた魚市場には水揚げされた魚がつぎつぎ木箱に詰められて運ばれていました。何気なく見ていた新妻マッドさんは得体の知れない奇妙な魚が運ばれて行くのを見て顔がこわばりました。木箱から数本の太く短いヒレを出し、よろいを着たような魚でした。そして急ぎマークさんを呼びに行ったのでした。彼はすぐにシーラカンスと分り、流暢な現地語で話しかけ、漁師の名前やどこで採れたのか?など聞き出し、写真を撮りました。しかし、南アフリカにしか生息していないシーラカンスがどうしてここにあるのか理解できませんでした。  こうしてインドネシアのシーラカンス研究が開始されました。

                              おわり