海人の深深たる海底に向いてー深海の不思議ー

地球上の7割を占める海。海の大半は深海。深海生物、潜水調査船など素晴らしい深海の秘蔵画像を紹介。奇抜・奇妙な姿に驚愕!!

シュウマイ弁当のガラス醤油皿

2015年11月30日 | 日記
シュウマイ弁当のガラス醤油皿
 昔、鎌倉の海水浴場で人気だったのは横浜のシュウマイ弁当だった。 鎌倉へ来る途中の横浜駅でシュウマイ弁当を買って海水浴へ来ていた。 当時はコンビニも無く、崎陽軒のシュウマイ弁当が人気だったのだ。 そのため、シュウマイ弁当の醤油入れ「ひょうちゃん」(今年で誕生60周年)と醤油皿が今でも打ち上がる。 ひょうちゃんは地元鎌倉の人気漫画家、横山隆一さんが描いたもので数十種類もある。  醤油皿も磁器製だったが最初(昭和30年)はガラス製だった。 そんな貴重なガラス製の醤油皿がこれだ。


右横書きの文字

2015年11月30日 | 日記
右横書き
 ビーチコーミングで知っておきたいものに文字の書き方がある。
最近の文字は左から右へ読む「左横書き」だが数十年前は右から左へ読む「右横書き」であった。
 お札(紙幣)では昭和23年まで、新聞の見出しでは昭和25年から、諸官庁の文書では昭和26年からが左横書きに変更されている。
 従って、拾った陶器やガラス容器の文字に「右横書き」があれば昭和25年ごろ以前のモノと年代が推定できます。 ぜひビーチコーマーの方は覚えておいてください。

エボシガイの付着

2015年11月29日 | 日記
流木などにエボシガイが付着していたらエボシガイの殻長から外洋を漂っていた期間が推定できます。 エボシガイの中から最も大きいサイズ、数から代表的なサイズの殻長を計っておきましょう。
 例えば27mmのは50~30日(水温20~17℃)、21mmのは56日(16~11℃)の計測した例があります。 ちなみに
エボシガイだけが付着していたら外洋を漂っていたモノ、フジツボ、イガイが付着していたら沿岸域を漂っていたモノになります。

欧米が行ってきたクジラ漁

2015年11月18日 | 日記
欧米人によるクジラ漁      山田 海人

1.クジラの油だけが欲しかった
 欧米では16世紀から現在のエネルギー原料の石油のように燃料の油を、海を泳ぐクジラを殺してクジラの油(鯨油)を採っていた。 きっかけは座礁したクジラの処理からだった。皮をはがして煮て油をとると、その油が良く燃えたことがわかっていたからだ。もっとクジラの油が欲しいいと、座礁するクジラを待てずに沖を泳ぐクジラを捕りに行こうとクジラ漁が始まった。

2.捕鯨船とキャッチャーボート
クジラ漁の船は大きな捕鯨船と捕鯨船から降ろすキャッチャーボート(作業船)で構成され、油は木製の樽を容器にしていた。船の航海は長く1年から4年にもなり、食料は水とビスケット、塩漬けの肉、野菜(航海でもつのはタマネギ、ジャガイモ)であったが危険で過酷な航海から荒くれ者たちの船員で、航海中に病死(野菜不足から壊血病など)、事故死、船の遭難が多かった。船員の装備品
はナイフと火打ち石であった。(遭難した船員がナイフと火打ち石でサバイバルした記録も残されている。) 
捕鯨船が集めた鯨油は飛ぶように売れるのでエスカレートし、さらに大きな捕鯨船、キャッチボートが量産され、巨大な捕鯨のための産業ができていった。。
 
3.クジラの油
クジラの油は樽に詰めて移動・販売されていたので単位は「バーレル・樽」として販売名にはオイルとし、クジラの油とは明記されなかった。これは「海の哺乳類のクジラを殺して、油を採る」とは公然とは言い難いので、秘密のミッションとしてクジラの油は”単に燃料・オイルと表示し、クジラからのオイルと表示しない“ことにしたようだ。燃料の使用者には、秘密の油として”決して油の原料は海を泳ぐクジラ“とは明かさない。ただひたすらに「便利な魔法の油」とだけを伝えていたようだ。

4.家庭の灯り、街灯の灯り
暗い夜を明るくする魔法のオイルとして、家庭用、街の街灯にと、鯨油の需要はますます広がっていった。当時のロンドンの街灯は100以上もあったと聞いているが、そのすべてが”鯨油ランプであった。 欧米の当時の街灯、家庭の灯りの全てがクジラの油だったのだ。 クジラの油を灯すとかなり臭い、当時の日本では菜種油や魚の油を灯していたがクジラほど臭くはなかった。欧米で使っていた灯油がクジラの油と数百年も庶民は気づかないと言われているが本当だろうか? 誰もが灯油の原料に疑問を持たなかったのだろうか? 信じがたい。 石油が採れるようになるまで灯油はクジラの油が使われていたことは本当のことだ。
 
5.クジラの捕獲数
欧米の捕鯨船はどれだけのクジラを捕獲していたのだろうか?捕鯨船の残した記録にはクジラの捕獲数は書かれてなく、鯨油の樽(バーレル)の数だけであった  捕鯨の最盛期1846年にはアメリカは736隻の捕鯨船を持ち、捕鯨産業には7万人もが従事していた。イギリスなどの捕鯨船230隻も操業していたので、当時は1000隻もの捕鯨船で世界の海から1年間にクジラは何万頭も乱獲され、クジラを絶滅に追い込んでいったと思われる。 
 そんな中で唯一マッコウクジラは頭部に特殊で高級な脳油が採れたことから脳油換算してマッコウクジラだけ記録があり、1年間に、世界で1万頭ものマッコウクジラが捕獲されていた。こうして大西洋や東部太平洋のクジラを捕りつくすと手つかずの日本近海のクジラの捕鯨も行われ黒船が浦賀にやってきたのだ。

6..クジラを食用にしていた国
 第二次世界大戦後クジラを食用にしていた国は日本、ノルエー、アイスランド、デンマークの捕鯨国をはじめ韓国ではニタリクジラ、イルカを食べていた。フィリピン、インドネシアではニタリクジラ、マッコウクジラを食べていた。ニュージーランドのマオリ族は寄せクジラのマッコウクジラを食べ、アラスカのイヌイットはホッキョククジラを食べ、シベリアのチュクト人はホッキョククジラ、コクジラを食べていた。
一方、18世紀の欧米の捕鯨船は1航海が2年から4年と長かった。長い航海の食料は塩漬けの牛肉、豚肉、ビスケットが主だった。そのため乗員はマズイ、ムカムカするような食事で、ビタミンCの欠乏で壊血病になって死亡する者が絶えなかった。 私達からするとなぜ乗員は目の前のクジラの肉を食べなかったのだろう。ナイフで赤い生肉を切って食べていれば壊血病にもならず死ぬこともなかったはず。欧米人の乗員はクジラの肉を食べるぐらいなら死を選ぶ、だったのか。 そして欧米人は今でも言う「クジラを食べなければいけない理由はない」と。          おわり



欧米人の書かない捕鯨問題 (再)

2015年11月11日 | 日記
欧米人の書かない捕鯨問題

               山田 海人
 親しみを感じるクジラやイルカは私達と同じ哺乳動物で温かい体温とおへそや乳頭ももっている。 日本でいえば江戸時代に欧米ではとんでもないクジラの殺戮を行って絶滅に追い込んでいった。

欧米では16世紀ごろからクジラの油をいろいろな産業で使うようになった。当時の鯨油は灯火用、ろうそく、石鹸、マシン油、潤滑油、革の防水処理、製薬の合成物、火薬など産業革命によって大きな需要が期待される大切な原料だった。

鯨油は樽に入れられバーレル(樽の意味)単位で運ばれ、取引されていた。まるで今の石油取引のようだ。

当時の欧米の照明は鯨油を灯すランプで、街中の街灯(ロンドン市内だけでも100を超えていたようだ)、室内の灯りなど膨大な量のランプがあって、これを灯すために鯨油の需要は高まっていった。 欧米の家庭のランプは鯨油ランプで各家庭は数か所も使っていた。このころ、日本は菜種油の燈明皿を灯していた。このため膨大な量の鯨油を採るために何万頭ものクジラを捕獲していた。しかし市民はこの灯油がクジラの油と知らずに使って罪の意識はなかったという。

鯨油をとるための捕鯨船は米国、英国、ノルゥエーなどが運航していた。具体的な数字は1848年のデータでは米国の捕鯨船は735隻にもなって大西洋、太平洋のクジラを乱獲していた。

当時の捕鯨は原則的に次のように行われていた。捕鯨船はボートを降ろして遊泳しているクジラに銛を刺してクジラを捕り、捕鯨船の船縁に死んだクジラを結びつける。 死んだクジラの皮をはがして皮だけを捕鯨船に取り込む。 クジラの身体はロープを外して海へ捨てられていた。取ったクジラの皮を釜で炊いて鯨油をとる。鯨油は樽に入れて船蔵に保管し用意した樽の数だけクジラを捕続けた。鯨油の入った樽の数は記録されているが、クジラの種類、頭数、大きさ、オス、メスなどの記録は残っていない。 少なくとも捕鯨船の航海日誌には情報が残っていると思うのだが。

つまり欧米の捕鯨ではクジラの種類と捕獲数というより、石油と同じバーレル(樽)で数えていた。 大切な生き物をその油の量でしか数えていなかったということは生き物への敬意が見られない、愚かな行為だ。
当時、家の灯りをともしていた鯨油のことを欧米の市民はクジラから絞り出した油だと知らされていなかったと知識人は言うのだが本当だろうか?だから鯨油を使う時に罪の意識はなかったという。私には言い訳に聞こえてしょうがない。今の欧米市民のようにクジラに対して親しみや思いやりを感じていれば絶滅に追い込んだ捕鯨は行われなかったはずだ。 
クジラが多く生息する極域へ航海できるようになった最近のことだ。1930~31年に欧米41隻の捕鯨船が短期間に3万4千頭ものシロナガスクジラなどを捕獲して絶滅に追い込んでいった。

クジラを救ったのは石油開発だった。アメリカでは1859年ペンシルバニア州で石油の採掘がはじまった。さらに1861年の南北戦争で捕鯨に出動する機会が減ってきた。20世紀になって石油の採掘量が増え、鯨油の価格が下がり過激な捕鯨活動は抑えられてきた。

英国の自然保護 英国やドイツは牧畜のために生息していたクマを300年ほど前に絶滅させた経緯がある。日本は今でもクマ2種類と共存している。我々日本人は野生動物と共生の道を歩んできた素晴らしい実績がある、欧米では野生動物に過激な対応をしてきた歴史があって今の自然保護の考えが生まれている。