眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

『罪の手ざわり』

2015-08-01 11:48:32 | 映画・本

忘れた頃になって書いている「ひとこと感想」その2。

 メモには、「『長江哀歌』のその後を観ている気がした」とだけ。(『長江哀歌』の頃にはまだなんとなく感じられたわざとらしさ?のようなモノが、この映画では上手く消化(昇華)されているように見えて、作り手の成熟?を感じたのだと思う)

私は、ジャ・ジャンクー監督の「現在ただ今の中国を見せたい!」とでもいうような、ある種挑戦的(となぜか感じた)な姿勢が気に入って、ずっと映画を観てきた気がする。冗長だったり、とってつけたようなシーンがいくつもあったり・・・と、私の目にさえ欠点?が目立つ作品が多かったけれど、基本がドキュメンタリー的?な所にある気がして、この人の映し出す「無名の人々」(だと思う)のシーンが、私はなぜか好きだった。

「工事の騒音」だの、「スピーカーから流れる音楽」だのがあまりに耳障りだったりすると、もう少し聴覚的なコトも考えてくれないかなあ・・・なんて思ったりもした。

でも、私の子ども時代の日本も、これくらい人が一杯いて、さまざまな騒音がウルサくて、煩わしくて・・・という社会だったのを思い出してしまうと、なんだか「映画」を観ているのを忘れて、かつての日本、かつての故郷の映像がアタマに浮かんできたりする。

それは、今の中国とは全然違った社会だったはずなのに、生活に疲れた女性たちや、自分の労働の危険さに無知?な男性たちを見ていると、「いつの時代も、どこにいても、人間ってそんなに変わらないなあ・・・」とでもいうような感慨が湧いてくる・・・(と、書いてきて、これらは『長江哀歌』の話だったと、やっと気づいた(^^;)。

今回の『罪の手ざわり』では、中国の変化が(日本とは違って)どれほど急激だったかを、痛切に感じた。行為としては「法に触れる」ものであっても、人間として「罪を問う」ことが、観ている私などには到底出来ないようなエピソードが集められていて、しかもそれらが「実話に基づく」話だったからかもしれない。

中国は、時間(歴史)的にも空間(地理)的にも『広大」な国だとつくづく思う。私には想像もできないほどのその「広大さ」の、たとえほんの一部でしかなくても、私はこの監督の作品から、「実感」を伴った形?でいつも見せてもらっている・・・そんな気がしている。


 

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