ネット上の、私がよく映画の感想を見にいく人のところで、映画『カムイ外伝』が話題になっていた。といっても、とても評判がいい(或いはその反対)とかいうのではなくて、原作マンガを読んだことのある人、テレビでアニメを見たことのある人、全然知らない人などなど、どんな人が観に行くと面白いと思うだろうか・・・といった話題だった。
そこから派生してこれまでにどんなマンガ、どんなTVアニメを見たか、何が好きだったかなど、話が盛り上がっていたので、つい私も中学生の頃に「カムイ伝」「カムイ外伝」を家族全員で回し読みしたこと、でも地方だったので「外伝」のアニメは放映されなかったらしいことなどを書いた。
当時私は「外伝」の方が好きだったと言うと、その人は「いまなら『カムイ伝』本編の方が絶対面白いですよ。」と言われたことから、私は実家にいた中学生、高校生の頃、その本編の方も「外伝」同様、何度も繰り返して読んだことも思い出した。
私が読んだ「外伝」は、シリーズの中でも初期の、ごく短い期間書かれたものらしかったが、エンタテインメントとしてよく出来ていたのだと思う。私は「カムイ伝」本編はマンガとは思っていなかったフシもあり、「マンガ」自体としては「外伝」の方が印象に残ったのだと思う。
なんだか感慨があって、私は続けてこう書き込んだ。
「私が子どもの頃親に買ってもらったり、自前で揃えたりしたマンガの単行本は、『カムイ伝』『カムイ外伝』の他には『ベルばら』と『アトム』だけなんです(笑)。私は当時も今も、"良質のエンタテインメント"をマンガや映画に求めていて、それは変わってないんだな~と思うと、なんだか不思議なような、ちょっとっクスグッタイような・・・(笑)。」
すると、相手は意外な言葉を返してくれた。
「私は『ベルばら』は読んでいませんので、大まかなアウトラインしか知りませんけど、ムーマ(私のHN)さんが読まれた作品って偶然ですが、全て階級社会をテーマにした作品が多いですね。どんなに「エンタテイメント」していても、基に社会性を感じられる作品がお好みの様で、その辺りは一貫したものを感じ取れますね。」
・・・・・驚いた。それも「驚愕」という言葉に近い。本当に淡々と、当たり前のことのように言われたので、私は尚更驚いたのかもしれない。
その後、なぜ驚いたのかを簡単に書いて、その人も納得されて、ネット上でのその話は終わった。
が、私にとってはその話はそこでは終わらなかった。
私が「社会性を感じさせる」映画をよく観ているのは、第三者からはすぐに見て取れることなのだろう。
私自身も、なんとはなしにそういう自分の嗜好?に気づいてはいたけれど、それがどこから来ているのかは、特に考えたことがなかった。
私は理想家肌の父親の影響の元に育ち、時代もあって社会的な事柄を真剣に考えようとする学生仲間に囲まれ、その後もその中のひとりと長く一緒に暮らしてきている。そういう人々、人間環境が、私にそういう方面に関心を持たせるように仕向けた・・・ということは自覚していた。
しかし、少なくとも私自身は、自分がそういう問題に元々興味を持っている人間だとは、これまで全く思ったことがなかった。
そういう興味、関心は、私の外側にくっつけられたものであって、極端に言うなら、本来の自分(がどういうものなのかはともかく)にとっては「異物」の一種に近かったのだ。(穏やかに言うなら「後天的に、環境から受けた影響」ということなのだけれど。)
だから私にすると、「社会性を感じさせる」作品が「好き」なのかどうかは、自分ではよく分からなかった。ただ、なぜか観に行ってしまう・・・というのに近かった。
ところが、ネット上での知人の言葉から私がその時思い出したのは、もっとずっと昔の自分の姿だった。
「カムイ伝」を初めて読んだ中学生の頃よりもさらに前、父が祖父の医院を継いで、母の実家で祖父母と同居して暮らすようになった頃、昭和30年代前半、私が一桁の年齢だった頃のこと。
父親の影響さえまだ明らかじゃないような、本当に幼い頃の自分が、周囲の人々を見ていて、或いは自分や姉や祖父母、両親に対する態度から感じた、あの曰く言い難い居心地の悪さ・・・あの恥ずかしさを、どう表現していいかわからない。
以下は、ツマラナイ昔話になる。
私の母方の祖母は、その山間部の小さな城下町近在の農家の出だった。江戸期以来の城下町といっても、周囲を山に囲まれた小さな盆地のさらに小さな町で、しかもその周辺の農家となると、今の時代でさえかなりの田舎だと思う。
ただ祖母の実家は、代々その辺りの土地を4等分して所有していた地主のひとりだったらしい。当主は代々「北左右衛門」を名乗り(東西南北、4人いたということらしい)、名字帯刀を許され・・・といった話を、子どもの頃誰かに聞いた記憶がある。
勿論私の子どもの頃は、既に戦後の農地改革で地所は大半失って、身分としての「庄屋」などという言葉も過去のものとなっていた。しかも祖母は長女で、弟が家督を継ぎ、故あって祖母の家に引き取られていた養子の祖父と結婚して、町中で医院を開業する、いわば分家にしかすぎない立場だった。
しかし、本家が経済的に困窮した際、祖父は自分の力でそれを立て直し、失った土地を買い戻したのだ・・・といった噂?も、聞いた覚えがある。
真偽のほどは、子どもの私には判らないままだったけれど、現実に祖父は本家の人たちから、ある種畏敬の念で見られているようなところがあり、「分家」という言葉からはほど遠い扱いを受けているように、子どもの私の眼には映った。
また、祖父母はそれぞれ自分なりの(「庄屋」階級という)特別の立場に生まれた者としての責任感や矜恃のようなものを、揺るぎなく持ち続けているようにも見えた。
私が長々と昔話を書いてきたのは、先に書いた「居心地の悪さ」「恥ずかしさ」を、何とか説明したいからだ。
私は3歳頃から祖父母の家で暮らすようになったのだけれど、そのうちに自分が祖父母と外出した際など、人々が妙に(単なる子ども相手に)丁寧な応対をすることに気づいた。それは例えば近所の人たち、幼稚園の先生、或いは小学校の先生に至るまで、どことなく、何とはなしに、ついて回る雰囲気だった。
自意識過剰の子どもだったのだと言えばそれまでだ。でも私には、どうしてもそれだけとは思えないものが、あのときのあの雰囲気にはあったのだと思う。
子どもの私には、それがどこからくるのかを、きちんと把握することが出来なかった。そういう時、私はいつも、ただただ恥ずかしかった。それが自分が人より「恵まれた境遇」に生まれたかららしい・・・と気づいてからは、恥ずかしさに「罪悪感」のようなものが加わった。
コトは古くさい「庄屋」階級の話だけではなかったのかもしれない。父が後を継いだ医院が「はやった」こともあっただろう。とにかく「恵まれた境遇」というのが全く自分とは関係ないところで定まっていること、私自身の努力でも何でもないことで、自分は特別扱いを受けやすいことに、子どもの私はつくづく困惑した。人中でどこそこの子どもさんと言われる度に、文字通り顔から火が出る思いだった。私は思春期よりずっと前から、「注目されたくない」と必死に願う子どもになっていた。
医院をやめ、金沢に引っ越して父が施設の勤務医になってからは、こういう恥ずかしさは薄れていった。しかし、そのころにはもう、私は「人が生まれたときからスタートラインで判別されるのは絶対間違っている!」と、強く思うようになっていた。当時はまだ「差別」という言葉さえ知らなかったけれど。
ネット上での会話は、私のそういう部分を衝いてきたのだ。
知人が言ったとおり、『ベルサイユのばら』も『鉄腕アトム』も、私のそういう思いに訴えるところが、作品の表面に現れる魅力以前の大前提として存在する作品だったと思う。
ふと、先日久しぶりに掛かってきた姉からの電話を思い出す。
姉は何十年来の母親との関係がこじれにこじれて、今は精神科に通いながらの闘病生活になっている。薬も上手く合わず、かといって薬を切るのも離脱症状の嵐のような状態で、発病から3年経った今も回復の目途が立っていないようにさえ見える。
「何も自分は悪いことをした覚えがないのに、どうしてこれほど苦しまなければならないのかっていう思いで一杯になると・・・」と姉は言う。
「さすがに最近は、どこかから自分が跳び込みそうで、怖いと思う瞬間があるわ。」
「今の自分の苦しみには、何の理由も意味も無いような気がして、何もかも。もういいやっていう気持ちになってしまうの。」
力のない声で語る姉の話を聴いているうちに、本当に自然に、私の口からも言葉が出た。
「お姉ちゃんは、"家の呪い"と闘ってるのよ。」
姉は一瞬黙った。驚いた様子だった。私は続けた。
「お姉ちゃんは子ども2人にはあの家の"呪い"が伝わらないようにって、随分努力してたと思うよ。自分みたいな目には合わせたくないって必死の感じが、あの頃側で見ててもわかった。」
「私がさっさと家から離れて逃げちゃったから、結局あの"呪い"はお姉ちゃん一人の肩に掛かったんだと思う。これは"最後の闘い"で、もうお姉ちゃんしか残ってない。武器も防具も何も残ってない、身体の弱ったお姉ちゃん一人が、戦場に残っちゃったみたい・・・なんだかそう見えるの。」
意外なことに、姉は私の言葉を喜んだようだった。
姉は言った。
「そう言ってもらったら、何だか少し元気が出てきたわ。」
「私の苦しみが何の意味も無いと思うと、もうこれで終りにしたいっていう気持ちになるけど、私が子ども達とかのための防波堤の役割を少しは果たしてるんだと思うと、もう少し頑張ろうって気持ちになれる。実際は頑張るなんてことカケラも出来ないんだけど。」
「若い頃に気がついて逃げ出せて、ほんとに良かったね。私はこれが自分の宿命みたいなものだと、ずっと前から思ってるし、これを引き受けるしか自分は出来ないんだと思ってる。」
「ただ、あんまり自分が情けなくて、今日電話してしまったんだけど、ちょっと元気が出たわ。ありがとね。」
最近観たドキュメンタリー映画『小三治』で、小三治師匠が言っていた。
「自分は95点の答案を前に正座させられて、なぜ100点取れなかったのか反省させられるような育ち方をした。」
「そういう事から逃げたくて、駆け込み寺に駆け込むようにしてこの道に入ったけれど、この歳になってみて、そういう育ちからはどうしようと逃げられないんだって事がわかった。」
「合ってない仕事についたもんだ。小さん師匠にはいつも、お前の落語はちっとも面白かねえって言われっぱなしだった。外で人には面白いって言われてても、師匠はずっとそう言ってたな。」
古希を迎えた名人でも、そういう述懐があるのだ。私や姉が"家の呪い"などという、あるかどうかもわからないようなヘンテコリンなものから逃げるために、人生の大半を費やしても仕方がないのかもしれない。
「社会的なものを感じさせる映画に惹かれる自分」というのが、元々居たのだということ。私に後から誰かが付け加えたのではなく、元々私は何かを感じ、何かが内部に育っていく、一人の人間としてこの世に存在していたのだということ。
物心ついて以来と言っていいほど幼い頃から「離人症」につきまとわれた私は、「自分」というのはごくごく小さい、頭の片隅にいるだけの存在のように感じてきた。
私という人間の大半は、後から付け加えられた「異物」で出来ており、それらを私は自分ものであるかのように振る舞ってはいるけれど、実は人からの「借り物」に過ぎないような感じが取れなかった。私が思ってるんじゃない。私が考えたことじゃない・・・。
でも、あの恥ずかしさだけは、私が本当に感じたことなのだ。
"呪い"から逃げに逃げた私が何十年かかけて辿り着いたのが、結局"呪い"の存在を知ったあの地点だったなんて、人生はほんとに不思議なものだと思う。
姉は"呪い"と心中する気でいるように、私には見える。
以前は私は、姉にもなんとか逃げ切ってもらいたかった。そんな道が、まだどこかにあると、単純な私は思っていたのだ。
しかし、電話で姉と話しながら、私は姉にはそういう道がもう見つからないのだとわかった気がした。
姉は姉で、全力であの呪いと組み合ったのだ。そして、「宿命」という言葉で、その決着をつけるしか方法が無かったのだと思う。
姉は私以上に孤軍奮闘することを要求され、今もひとりで闘う(姉の場合も私同様「耐える」とほとんど同義だ)ことを余儀なくされている。今の姉には、周囲の家族が味方しているのだということさえ信じられない。
それでも人生は続く。
姉の人生は姉のもので、私の人生とは全く別物なのだから、私は私の道をまた歩くしかないのだと思う。
その後、映画『カムイ外伝』は、この一連の出来事の記念?として観に行った。子どもの頃にあの田舎町で見た紙芝居を、なぜか思い出した。貶しているわけじゃない。私は紙芝居が大好きな子どもで、オトナになったはずの今も、それと似た気分で絵や写真や絵本を楽しんでいる。
映画の中で一番鮮烈!だったのが、冒頭の白戸三平の原画だったというのも、なんだか今回の私自身についての出来事に符合しているようで・・・楽しんで帰ってきた。
中学生、高校生だった頃、私があの『カムイ伝』第一部全巻を何度も読んで何を思ったかは、言葉には出来ない形で私の深いところで眠っている。
そこから派生してこれまでにどんなマンガ、どんなTVアニメを見たか、何が好きだったかなど、話が盛り上がっていたので、つい私も中学生の頃に「カムイ伝」「カムイ外伝」を家族全員で回し読みしたこと、でも地方だったので「外伝」のアニメは放映されなかったらしいことなどを書いた。
当時私は「外伝」の方が好きだったと言うと、その人は「いまなら『カムイ伝』本編の方が絶対面白いですよ。」と言われたことから、私は実家にいた中学生、高校生の頃、その本編の方も「外伝」同様、何度も繰り返して読んだことも思い出した。
私が読んだ「外伝」は、シリーズの中でも初期の、ごく短い期間書かれたものらしかったが、エンタテインメントとしてよく出来ていたのだと思う。私は「カムイ伝」本編はマンガとは思っていなかったフシもあり、「マンガ」自体としては「外伝」の方が印象に残ったのだと思う。
なんだか感慨があって、私は続けてこう書き込んだ。
「私が子どもの頃親に買ってもらったり、自前で揃えたりしたマンガの単行本は、『カムイ伝』『カムイ外伝』の他には『ベルばら』と『アトム』だけなんです(笑)。私は当時も今も、"良質のエンタテインメント"をマンガや映画に求めていて、それは変わってないんだな~と思うと、なんだか不思議なような、ちょっとっクスグッタイような・・・(笑)。」
すると、相手は意外な言葉を返してくれた。
「私は『ベルばら』は読んでいませんので、大まかなアウトラインしか知りませんけど、ムーマ(私のHN)さんが読まれた作品って偶然ですが、全て階級社会をテーマにした作品が多いですね。どんなに「エンタテイメント」していても、基に社会性を感じられる作品がお好みの様で、その辺りは一貫したものを感じ取れますね。」
・・・・・驚いた。それも「驚愕」という言葉に近い。本当に淡々と、当たり前のことのように言われたので、私は尚更驚いたのかもしれない。
その後、なぜ驚いたのかを簡単に書いて、その人も納得されて、ネット上でのその話は終わった。
が、私にとってはその話はそこでは終わらなかった。
私が「社会性を感じさせる」映画をよく観ているのは、第三者からはすぐに見て取れることなのだろう。
私自身も、なんとはなしにそういう自分の嗜好?に気づいてはいたけれど、それがどこから来ているのかは、特に考えたことがなかった。
私は理想家肌の父親の影響の元に育ち、時代もあって社会的な事柄を真剣に考えようとする学生仲間に囲まれ、その後もその中のひとりと長く一緒に暮らしてきている。そういう人々、人間環境が、私にそういう方面に関心を持たせるように仕向けた・・・ということは自覚していた。
しかし、少なくとも私自身は、自分がそういう問題に元々興味を持っている人間だとは、これまで全く思ったことがなかった。
そういう興味、関心は、私の外側にくっつけられたものであって、極端に言うなら、本来の自分(がどういうものなのかはともかく)にとっては「異物」の一種に近かったのだ。(穏やかに言うなら「後天的に、環境から受けた影響」ということなのだけれど。)
だから私にすると、「社会性を感じさせる」作品が「好き」なのかどうかは、自分ではよく分からなかった。ただ、なぜか観に行ってしまう・・・というのに近かった。
ところが、ネット上での知人の言葉から私がその時思い出したのは、もっとずっと昔の自分の姿だった。
「カムイ伝」を初めて読んだ中学生の頃よりもさらに前、父が祖父の医院を継いで、母の実家で祖父母と同居して暮らすようになった頃、昭和30年代前半、私が一桁の年齢だった頃のこと。
父親の影響さえまだ明らかじゃないような、本当に幼い頃の自分が、周囲の人々を見ていて、或いは自分や姉や祖父母、両親に対する態度から感じた、あの曰く言い難い居心地の悪さ・・・あの恥ずかしさを、どう表現していいかわからない。
以下は、ツマラナイ昔話になる。
私の母方の祖母は、その山間部の小さな城下町近在の農家の出だった。江戸期以来の城下町といっても、周囲を山に囲まれた小さな盆地のさらに小さな町で、しかもその周辺の農家となると、今の時代でさえかなりの田舎だと思う。
ただ祖母の実家は、代々その辺りの土地を4等分して所有していた地主のひとりだったらしい。当主は代々「北左右衛門」を名乗り(東西南北、4人いたということらしい)、名字帯刀を許され・・・といった話を、子どもの頃誰かに聞いた記憶がある。
勿論私の子どもの頃は、既に戦後の農地改革で地所は大半失って、身分としての「庄屋」などという言葉も過去のものとなっていた。しかも祖母は長女で、弟が家督を継ぎ、故あって祖母の家に引き取られていた養子の祖父と結婚して、町中で医院を開業する、いわば分家にしかすぎない立場だった。
しかし、本家が経済的に困窮した際、祖父は自分の力でそれを立て直し、失った土地を買い戻したのだ・・・といった噂?も、聞いた覚えがある。
真偽のほどは、子どもの私には判らないままだったけれど、現実に祖父は本家の人たちから、ある種畏敬の念で見られているようなところがあり、「分家」という言葉からはほど遠い扱いを受けているように、子どもの私の眼には映った。
また、祖父母はそれぞれ自分なりの(「庄屋」階級という)特別の立場に生まれた者としての責任感や矜恃のようなものを、揺るぎなく持ち続けているようにも見えた。
私が長々と昔話を書いてきたのは、先に書いた「居心地の悪さ」「恥ずかしさ」を、何とか説明したいからだ。
私は3歳頃から祖父母の家で暮らすようになったのだけれど、そのうちに自分が祖父母と外出した際など、人々が妙に(単なる子ども相手に)丁寧な応対をすることに気づいた。それは例えば近所の人たち、幼稚園の先生、或いは小学校の先生に至るまで、どことなく、何とはなしに、ついて回る雰囲気だった。
自意識過剰の子どもだったのだと言えばそれまでだ。でも私には、どうしてもそれだけとは思えないものが、あのときのあの雰囲気にはあったのだと思う。
子どもの私には、それがどこからくるのかを、きちんと把握することが出来なかった。そういう時、私はいつも、ただただ恥ずかしかった。それが自分が人より「恵まれた境遇」に生まれたかららしい・・・と気づいてからは、恥ずかしさに「罪悪感」のようなものが加わった。
コトは古くさい「庄屋」階級の話だけではなかったのかもしれない。父が後を継いだ医院が「はやった」こともあっただろう。とにかく「恵まれた境遇」というのが全く自分とは関係ないところで定まっていること、私自身の努力でも何でもないことで、自分は特別扱いを受けやすいことに、子どもの私はつくづく困惑した。人中でどこそこの子どもさんと言われる度に、文字通り顔から火が出る思いだった。私は思春期よりずっと前から、「注目されたくない」と必死に願う子どもになっていた。
医院をやめ、金沢に引っ越して父が施設の勤務医になってからは、こういう恥ずかしさは薄れていった。しかし、そのころにはもう、私は「人が生まれたときからスタートラインで判別されるのは絶対間違っている!」と、強く思うようになっていた。当時はまだ「差別」という言葉さえ知らなかったけれど。
ネット上での会話は、私のそういう部分を衝いてきたのだ。
知人が言ったとおり、『ベルサイユのばら』も『鉄腕アトム』も、私のそういう思いに訴えるところが、作品の表面に現れる魅力以前の大前提として存在する作品だったと思う。
ふと、先日久しぶりに掛かってきた姉からの電話を思い出す。
姉は何十年来の母親との関係がこじれにこじれて、今は精神科に通いながらの闘病生活になっている。薬も上手く合わず、かといって薬を切るのも離脱症状の嵐のような状態で、発病から3年経った今も回復の目途が立っていないようにさえ見える。
「何も自分は悪いことをした覚えがないのに、どうしてこれほど苦しまなければならないのかっていう思いで一杯になると・・・」と姉は言う。
「さすがに最近は、どこかから自分が跳び込みそうで、怖いと思う瞬間があるわ。」
「今の自分の苦しみには、何の理由も意味も無いような気がして、何もかも。もういいやっていう気持ちになってしまうの。」
力のない声で語る姉の話を聴いているうちに、本当に自然に、私の口からも言葉が出た。
「お姉ちゃんは、"家の呪い"と闘ってるのよ。」
姉は一瞬黙った。驚いた様子だった。私は続けた。
「お姉ちゃんは子ども2人にはあの家の"呪い"が伝わらないようにって、随分努力してたと思うよ。自分みたいな目には合わせたくないって必死の感じが、あの頃側で見ててもわかった。」
「私がさっさと家から離れて逃げちゃったから、結局あの"呪い"はお姉ちゃん一人の肩に掛かったんだと思う。これは"最後の闘い"で、もうお姉ちゃんしか残ってない。武器も防具も何も残ってない、身体の弱ったお姉ちゃん一人が、戦場に残っちゃったみたい・・・なんだかそう見えるの。」
意外なことに、姉は私の言葉を喜んだようだった。
姉は言った。
「そう言ってもらったら、何だか少し元気が出てきたわ。」
「私の苦しみが何の意味も無いと思うと、もうこれで終りにしたいっていう気持ちになるけど、私が子ども達とかのための防波堤の役割を少しは果たしてるんだと思うと、もう少し頑張ろうって気持ちになれる。実際は頑張るなんてことカケラも出来ないんだけど。」
「若い頃に気がついて逃げ出せて、ほんとに良かったね。私はこれが自分の宿命みたいなものだと、ずっと前から思ってるし、これを引き受けるしか自分は出来ないんだと思ってる。」
「ただ、あんまり自分が情けなくて、今日電話してしまったんだけど、ちょっと元気が出たわ。ありがとね。」
最近観たドキュメンタリー映画『小三治』で、小三治師匠が言っていた。
「自分は95点の答案を前に正座させられて、なぜ100点取れなかったのか反省させられるような育ち方をした。」
「そういう事から逃げたくて、駆け込み寺に駆け込むようにしてこの道に入ったけれど、この歳になってみて、そういう育ちからはどうしようと逃げられないんだって事がわかった。」
「合ってない仕事についたもんだ。小さん師匠にはいつも、お前の落語はちっとも面白かねえって言われっぱなしだった。外で人には面白いって言われてても、師匠はずっとそう言ってたな。」
古希を迎えた名人でも、そういう述懐があるのだ。私や姉が"家の呪い"などという、あるかどうかもわからないようなヘンテコリンなものから逃げるために、人生の大半を費やしても仕方がないのかもしれない。
「社会的なものを感じさせる映画に惹かれる自分」というのが、元々居たのだということ。私に後から誰かが付け加えたのではなく、元々私は何かを感じ、何かが内部に育っていく、一人の人間としてこの世に存在していたのだということ。
物心ついて以来と言っていいほど幼い頃から「離人症」につきまとわれた私は、「自分」というのはごくごく小さい、頭の片隅にいるだけの存在のように感じてきた。
私という人間の大半は、後から付け加えられた「異物」で出来ており、それらを私は自分ものであるかのように振る舞ってはいるけれど、実は人からの「借り物」に過ぎないような感じが取れなかった。私が思ってるんじゃない。私が考えたことじゃない・・・。
でも、あの恥ずかしさだけは、私が本当に感じたことなのだ。
"呪い"から逃げに逃げた私が何十年かかけて辿り着いたのが、結局"呪い"の存在を知ったあの地点だったなんて、人生はほんとに不思議なものだと思う。
姉は"呪い"と心中する気でいるように、私には見える。
以前は私は、姉にもなんとか逃げ切ってもらいたかった。そんな道が、まだどこかにあると、単純な私は思っていたのだ。
しかし、電話で姉と話しながら、私は姉にはそういう道がもう見つからないのだとわかった気がした。
姉は姉で、全力であの呪いと組み合ったのだ。そして、「宿命」という言葉で、その決着をつけるしか方法が無かったのだと思う。
姉は私以上に孤軍奮闘することを要求され、今もひとりで闘う(姉の場合も私同様「耐える」とほとんど同義だ)ことを余儀なくされている。今の姉には、周囲の家族が味方しているのだということさえ信じられない。
それでも人生は続く。
姉の人生は姉のもので、私の人生とは全く別物なのだから、私は私の道をまた歩くしかないのだと思う。
その後、映画『カムイ外伝』は、この一連の出来事の記念?として観に行った。子どもの頃にあの田舎町で見た紙芝居を、なぜか思い出した。貶しているわけじゃない。私は紙芝居が大好きな子どもで、オトナになったはずの今も、それと似た気分で絵や写真や絵本を楽しんでいる。
映画の中で一番鮮烈!だったのが、冒頭の白戸三平の原画だったというのも、なんだか今回の私自身についての出来事に符合しているようで・・・楽しんで帰ってきた。
中学生、高校生だった頃、私があの『カムイ伝』第一部全巻を何度も読んで何を思ったかは、言葉には出来ない形で私の深いところで眠っている。
僕にはそのことが余りピンと来ないのは
かなりラッキーな事のように思えました。
それにしても観逃すと何とも悔しくなるのが
映画作品の常で、困りものです。
映画って、観逃すとほんと悔しいんですよね~。私、『大阪ハムレット』歩いて3分だったのに観られなくて、後からすごーく残念だったので、今回『マン・オン・ワイヤ-』は、金沢から一生懸命?早く戻って、なんとか観に行けてブラボー!でした(笑)。(って、全然関係ない話ばかりでスミマセン。)
「人生の闘い」って、本来はもうちょっと違うモノであってほしいです。私自身、「闘った」実感は無くて、追いかけてくるモノからひたすら逃げてただけの気がします。「ピンと来ない」にこしたことないですよ、こんなの。
でも、私には、ヤマさんはもっと違うところで、闘わずに戦ってこられた人のように見える時もありますよ。不思議ですね。