富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(76)

2013年10月18日 20時21分30秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(76)年間ブログの整理(8)

昔話(47)外伝 善得寺考  雑(1)
善得寺は信玄の駿河侵攻により灰燼に帰した為、今に残る瀬古の
地に、妙心寺の伽藍を写真に偲んでみたい。
我が家の花色々。急に賑やかになった。



昔話(48)外伝 善得寺考 過去帳(2)
法雲寺に在る、善得寺の貴重な資料の過去帳に特記の方を記して
見る。「厭蓮社欣誉上人白音和尚」は浄土宗の僧とのみ記されて
いるが、「厭蓮社欣誉上人」が在り、同一の方と考えられ、無住
の折清岩寺と兼務が在ったと推定する。
「大安牧仙庵主」寺市場俗名金左右門、永明寺に墓発見した。過
去帳には本尊寄付と記されているが由来は尚調べたい。
過去帳で歴代の住職を知りたいと思ったが、東谷和尚以外は前住
(前住職)とのみで確定出来ない。新善徳寺を復興されたのは何
方か、またどの様な経緯か、知る由もない。




昔話(49)外伝 善得寺考 過去帳(3)
過去帳の法名の整理は先に鈴木先生がされているが、更に時代別・
地域別を整理考察を重ねた。
幕府の寺請制度・檀家制度による「宗門人別改帳」があり、善得
寺の一例を示す。
過去帳と墓石との照合の努力したが、永明寺の一例のみである。




昔話(50)外伝 善得寺考 今泉軒別書上帳(1) 
善得寺の資料の少ない時に、「今泉軒別書き上げ帳」を発見、こ
れには善得寺の場所や善得寺への道等が示されており、関係して
調べて見た。
是は領主水野出羽の守が将軍家茂の上洛の折、其の護衛を分宿さ
せる為全戸数の状況を調査した物である。
図は当時の今泉村の道路を示し、いまの根方道は無く、高札場が
在り、吹上には東谷和尚が香語を献じたと思はれる庚申堂が示さ
れている。




昔話(51)外伝 善得寺考 今泉軒別書き上げ帳(2)
古地図には尚興味の諸点が在る。
「御退場」。是は将軍が宿泊の時は、避難場所を定めておくとの
事である。宿泊の「東泉院」の東に退避所を設け、警護の「奥詰
衆」を福応寺に置いたのは西よりの攻撃を予想したかと面白い。
「郷蔵」は水野出羽の守の扶持米の集散の場所であり、今泉村が
2,951石の大村の為の物である。明治には小学校の場所と成っ
ている。
「東泉院」。家茂の幕末の上洛は3回あり、2回目のみ海路で、
1回目と3回目は東泉院に泊している。警護がし易く、設備が
揃って居たためと思はれる。
「溜め井」「道路名」が尚示されている。




昔話(52)外伝 善得寺考
書き上げ帳は今泉村の全戸数434軒のすべてを書いているが興味
の何点かが在る。清岩寺は現在は原田村であり、此処に書かれてい
るには理由が在ると思はれる。昔瀬古に所在と書かれた物が在り、
その為に含まれていたと考える。
全戸数がすべて道沿いに書かれており、是は昔村の官役・寄付は
住居の間口を基準とした「間口割」の証拠かもしれない。
上・中・下のランクはどの様に分けられ、どの様に使われたか解
らない。
元治元年(1864)に全戸数434の今泉地区は、平成19年
7月には4,638で、約150年の間に10倍以上になっている。




林業を継承して4代目。此の間の努力・丹精の実りとして、植え
付けより100年木迄多様の林相を形成している。「富士ひのき」
のブランド化の熱意として、各年代の林相を記して見たい。植え
付け早々より始める。植え付け2年目の檜部。