富士市を中心の郷土史

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富士市今泉の昔話(34)

2012年12月21日 15時10分01秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(34)外伝 善得寺考 諸寺(3)法雲寺

善得寺は徳川の世となり、善徳寺と呼称され、昔の延寿堂の地
に檀家寺として続いていたが、幕末の無住のとき明治となり、
廃仏毀釈の嵐の中に廃寺となった。善徳寺の事績・遺物等は同
宗同派の法雲寺に吸収された。法雲寺には開山の位牌・過去帳
等が残され、万霊塔に数の墓石が組み込まれている。子供の折、
善徳寺跡の延寿堂道に卵塔数基と板碑のみ記憶がない為、墓石
の数は分散したと思はれ、行方探求を課題と考えたい。
吸収合併には呼坂に在った武田所縁の慈照寺も明治初頭に、法
雲寺に行はれた。(既記)

法雲寺の由緒を述べて見たい。
法雲寺は文和2年(1353)建長寺僧用堂西堂和尚により開
山された。清泉噴涌し岩石峨々たるを見て精舎を創建と言はれ
ている。開基は明らかでないが、この時期政情安定せず領主上
杉憲顯の努力が在り、近くに善徳寺の前身天寧寺を開創してい
る為、法雲寺の開創にも関係していたのではないだろうか。
上杉の威勢の西進の布石と思はれる。
今川範政は永享4年(1432)に、外祖母の清泉院殿乾室
浄貞大禅尼の供養の為11石1斗の地を寺に寄進している。範政
は応永24年(1417)に禅秀の乱の平定の功により下方の庄
を与えられており、此の寄進も統治の布石と考えられる。然し
この間数十年の無住の時が在ったと思はれる。戦乱による荒
廃・無住に違いない。
天文の頃は善得寺の寺外の塔頭かと思はれ、名が在る。

歴代先師を禅寺誌より転記して見る。
開創   用堂西堂   文和2年 1353
2世   不詳
     唐山
4世   実鑑祖欽   寛文3年  1663
再興開山 龍岳周信   寛文6年  1666
   始め建長寺に属したが、寛文元年(1661)清見寺5
   世大梁宗欣の法嗣龍岳周信
   が再興妙心寺派となった。(白隠和尚の年譜より)
2世   雪領宗積   元禄3年  1690
3世   雲龍祖教   元禄5年  1692
4世   古関禅龜   享保15年  1730
5世   荊林慧田   元文5年  1740
   白隠禅師の年譜に次の記が在る。歳は白隠の歳である。
     宝永6年25歳「冬、州の法雲に往きて桂林の法
     柄を扶く」
     宝永7年26歳「春、法雲を辞して」
    桂林は荊林であり、法柄は教化の力の意である。

     宝暦3年(1753)69歳の春。「 「五祖録」
     を今泉の法雲に提唱するや、在会、常住を費さず。」
    五祖録は白隠禅師の法嗣五祖禅師の語録である。
6世   死心慧活   安永5年  1776
7世   森厳宗逸   享和元年
8世   物現宗初   天保8年  1837
9世   雪源恵妙   嘉永2年  1849
10世  祝応文衲   明治18年  1885
11世  宗厳信敏
12世  龍岳徹夫

此の間兼務に下記が在った。
嘉永5年 無住にて福応寺兼務の所病気、妙善寺に兼務依頼。
文久4年 無住にて福応寺隠居愛山和尚の兼務。
平成6年 徳源寺和尚兼務の所、文峰和尚入山により解除。



寺内には昔は岩間より湧く多くの水が在ったが、今は付近
の湧水も集めて山門の後ろに清冽の小川となっている。四
季を問わず緑の金魚藻が靡き美しい。夏の時期には梅花藻の
花が見事である。水は綺麗でバナジュウムを多く含み近在の
人が水を汲みに寄っている。



墓地は本堂の西側に階段状に続き、頂部は善得寺城の武家
屋敷と私見する向小路と為っている。此の崖は十王子神社
の呼坂依り続く、善徳寺城の惣構(私見)の一部であり、
郷蔵部分を経て善得寺城に結ばれている。



寺庭には清水の次郎長の子分「辻の勝五郎」の碑がある。
加藤家は法雲寺の檀家で、辻に住んでいた為「辻の」名を
持ち28人衆の一人に名を連ねている。次郎長が大淵の「次
郎長開墾」の時には率先力を尽くした。檀家としての努力
もよく知られている。
開墾は明治7年より明治17年までの10年間の大事業で
其の経過は次郎長の名の場所の開墾記念碑に詳記されている。



寺庭の西に万霊塔が在る。無縁の方々の塚と共に、明治
に廃寺になった善得寺の塚の幾つかが組み込まれている
との事である。戒名を辿り、何時の日か明らかにしたい。
如意輪観音坐像の塚が多く目につく。



法雲寺の西の道は「川戸道」と言はれ立小路に通じてい
るが、この付近は湧水が多く、水に関しての交渉事が重
なった様である。水に関しては前記しているが、中村三
郎左衛門が今泉郷地への水供給の為「新川」を掘削し、
田宿川の水源を整備した時、法雲寺所縁の地積を協力
した。
善得寺の供養は明治に法雲寺に吸収合併された以後、法
雲寺で供養してきたが、昭和61年8月富士市歴史勉強会の
方々を中心に、善得寺の跡地の整備と式典の準備が行われ、
8月4日の式典の日を迎えた。雨の小止みの中、約20名の
参集を得て法雲寺の青木和尚と福応寺の福田和尚により、
第一回の供養祭が行われた。何百年振りの供養祭に感激、
歓談の内に東京の朝岡氏より土地寄付の意向が在り、感
激を深くした。
富士市は、墓碑群を中心とした一帯を史跡公園化の計画、
昭和62年から3ケ年で完成を目指した。
第二回は、昭和62年3月28日に開山禅師の615年忌
を兼ねて供養祭が盛大に行われた。
史跡公園の完成を得て、第5回以降は今泉地区の行事と
位置ずけられ現在まで会を重ねている。





























































































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