富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(33)

2012年12月15日 08時44分46秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(33)外伝 善得寺考 関係諸寺(2)永明寺

善得寺と永明寺との関係、更には永明寺の由緒・伝承に就いて述べ
る。
永明寺は寺伝によると、天平勝宝8年(756)行基が北の高台に
大冨山金輪院(真言宗)
として開創。文明4年(1472)行之正順和尚が改修改号した。
此の時鎌倉古道は寺の南を通り、寺の東の岩山を北に迂回し竹採塚
方面に東行していたようである。下って永正2年(1504)今川
の重臣斎藤加賀守が、寺を高台の下に移し大門を写真の地に置き七
堂伽藍を整備した。以降、歴代の領主の庇護を受けて隆昌。盛時は
末寺64寺を数へ、洞慶院派の門頭職、総持寺の輪番地法ばん格等
を経て現在にいたっている。
(中興の記はインターネットの記による)



寺は水に恵まれ「富士乱水の庭」があり、高低差ある裏山に湧水を
利用した池泉回遊式の庭園で、躑躅・皐月を見事に配して東海屈指
の名園である。水の寺とも言はれている。水は付近の製紙にも利用
され、鎧ケ淵の伝承を生み、夏にはホタルの乱舞も見られる。



善得寺が明治に廃寺になる時、吸収合併した法雲寺に伺い何度か
伝はる善得寺の過去帳を拝見した。その詳細は別に記したいが、
中に大安牧仙庵主と書かれた戒名が在り、本尊寄付の注記が在り
此の方の墓を永明寺に発見した。此の方の俗名は蓮池金左衛門と
あり、現在は蓮池家の墓所に設置した。蓮池家は永明寺の檀家で
あり、北条に焼かれた善得寺の在った寺市場の坂の北部に住んで
いたようである。此の地の湧水に「蓮池の水汲み口」の伝承(外
祖父より)が在る。此の墓の方が、永明寺の檀家だったか或いは
善得寺の檀家で、明治の廃寺の折移転かは解らない。此の塚は蓮
池家の墓所の西に、如意輪観音像の墓二基を含む十数基の群の中
に混在していたからである。



斎藤加賀守は永明寺とは由緒に示す如く深い関係が在る。此の
領地と考えられる斎藤
(地名)の中島(地名)の湧水場より、義元は善得寺・善得寺
城へ揚げ水(山城などの高場所に遠方より用水すること)して
おり、此の工事を含めて加賀守が関係しているに違いない。
揚げ水は此の地方には根方の大中寺が知られているが、諏訪の
上原城に現在も水が滔々と流れている設備が在る。上原城は武
田が諏訪を統治の城であるが、城の北に永明寺山が在る。揚げ
水は此の永明寺山の湧水を導き、山と城の縁を切る堀切(大空
壕)の底を木管で潜り城内に水を流している。サイホンの原理
であり、善得寺も同じ法を使い面白い。
城の南に頼岳寺が在る。頼岳寺は昔は永明寺と言い、原田の永
明寺とは所縁で結ばれている。永明寺の開山の行之和尚は諏訪
永明寺の所縁の僧である。
 善得寺―揚げ水―上原城―揚げ水―永明寺山―諏訪永明寺―
行之和尚―原田永明寺

永明寺の伝承

「仏の消える山門」
端正な薬医門であるが、葬儀の列が此の門を潜ると遺骸が消え、
引き返すと元へ戻るとの事にて、葬儀の列は裏門を採るように
為ったとの事である。



「いぼ取り不動」
昔より念じつつこの池の水を掛けると、イボが取れたと言われ
ている。此処は元永明寺の鎮守堂だったが、池に不動明王が祭
られており、イボ取り不動と言われている。



「鎧ガ淵」
此の地名は各地に在りその幾つかを記して見る。
東京日本橋兜町
 源頼義が東北遠征に行くとき、此の地で暴風雨に遭い、此の
淵に鎧を沈めて龍神に祈った所、風雨が止んで川を渡れたた
め、此の地を鎧ガ淵と呼ぶようになった。
愛知県吉良町古戦場
 家康が此の地で吉良の伏兵に遭い大敗した。此の為に淵の底
に沈んだ鎧や武具がしばしば引き上げられた為、此処を鎧ガ
淵古戦場と言はれるようになった。
長泉町黄瀬川
 武田が此の地を侵攻の時、北条の落ち武者が隠れていたが、
鎧・兜を淵に投げ込み、投身と見せて武田を晦まし逃げ得
た。此の淵を鎧ガ淵と呼ぶようになった。

永明寺の鎧ガ淵にも色々の伝承が在る。
頼朝が此の地で休憩し、鎧を木に掛け体を洗った。その為
に此の淵を鎧ガ淵と呼ぶようになった。

 此の淵は大蛇が住む草木の茂る暗い場所だったが、魚は多
くいた。魚釣りの好きな治兵衛が釣りを楽しんでいた時、
枝に小さな蛇を見付け、竿でつつくと淵に落ちて見る見る
大きくなり治兵衛に襲ってきました。驚いて漸く逃げた治
兵衛は友達にもうここでは魚は釣らないと言ったとの事で
す。

天正18年家康に従った神尾四郎は北条軍と戦い、同姓7
人戦死したが四郎は此の淵に鎧を投げ、永明寺で自刃した。
これより此処を鎧ガ淵と言ふ。

寺の小僧が淵で枝を打っていた時、誤って山刀を淵に落と
した。帰って師に報告したところ探して来いと言われ、渕
に入り探したが山刀は見えず、機織る美しき婦人がおり,
事情を知り刀を返してくれた。此の間3日と思っていたが
3年経っていたとの事である。

元歴2年、義経は平家を滅ぼした後、平家の虜将を連れて
鎌倉古道を下り、此の淵に休んだ。頼朝の不興を考えた後、
鎧を脱いで此の淵に沈め、平服にての対面を願い鎌倉を目
指した.然しながら鎌倉に入れず有名の腰越状に嘆いだ。
悲嘆の帰途此処で休んだが鎧は見えず、鎧ガ淵の名のみを
残した。(外祖父よりの伝承)



夏になるとこの水辺は蛍が乱舞する。