富士市今泉の昔話(153)根方街道(2)
日吉より始まった根方街道は(1)に続き呼び坂を越え、瀬古の善得寺の北縁の鎌倉古道として東に通じている。妙延寺部に既に道はないが、北端に欅の大樹が数本列樹されていたが古道の並木と考えられる。前記したが子供の頃は畑の中に1間ほどの馬力道が土手の如くあり、周辺に礁の如く岩が残っていた。今にして思えば鎌倉古道の道幅を残していたのかもしれない。窯場(善得寺の火葬場と考える)の西で北上の大宮道と交叉し、善得寺用水のタンク部で善得寺御殿よりの道と合流、昔の呼び子坂を経て松原川(昔瀬古川)を写真の如く渡っている。今は飯森神社を含む広い原田公園となっている。
明治の地図とこれに推定の根方街道を実線で記入して見る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/5c/077a886246c187acfbe11d577728fa42.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/f4/6bea66bded8c8883c9db7bcc6339d2bc.jpg)
根方街道は社寺が多く、門前を結ぶ道が街道となっている。但しこれは戦国時代までで、南の浮島沼が干して住居が増すにつれて道が南に移動している。現在の街道が社寺を離れた時期は推定が出来ないが、永明寺の山号塔の石碑とある道祖神に嘉永5年とあるがこの時期かもしれない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/cc/b6015cc848d359aa7dcd22cef70ae385.jpg)
旧道は右の細道を十王神社前を通り妙延寺に、妙延寺の北縁を経て旧善得寺の北端を窯場に達している。吹上の旧大宮道との交差では西部の道は無くなっている。東部の道は僅かに窯場に通じている。是から飯森神社の間に善得寺の用水タンクが残されているが、遺跡として大事にしたい物である。呼び子坂を下り松原川を渡る。
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松原川を渡った街道は高みに登り、W氏宅を経て三島製紙北の旧道を東進している。
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永明寺を離れて、岩山を迂回し北上鑑石園に通じている。現在は岩山は通じ道となっている。以降は次回とする。
一日の晴れに甲斐の桃、霊園の桜を尋ねた。
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日吉より始まった根方街道は(1)に続き呼び坂を越え、瀬古の善得寺の北縁の鎌倉古道として東に通じている。妙延寺部に既に道はないが、北端に欅の大樹が数本列樹されていたが古道の並木と考えられる。前記したが子供の頃は畑の中に1間ほどの馬力道が土手の如くあり、周辺に礁の如く岩が残っていた。今にして思えば鎌倉古道の道幅を残していたのかもしれない。窯場(善得寺の火葬場と考える)の西で北上の大宮道と交叉し、善得寺用水のタンク部で善得寺御殿よりの道と合流、昔の呼び子坂を経て松原川(昔瀬古川)を写真の如く渡っている。今は飯森神社を含む広い原田公園となっている。
明治の地図とこれに推定の根方街道を実線で記入して見る。
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根方街道は社寺が多く、門前を結ぶ道が街道となっている。但しこれは戦国時代までで、南の浮島沼が干して住居が増すにつれて道が南に移動している。現在の街道が社寺を離れた時期は推定が出来ないが、永明寺の山号塔の石碑とある道祖神に嘉永5年とあるがこの時期かもしれない。
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旧道は右の細道を十王神社前を通り妙延寺に、妙延寺の北縁を経て旧善得寺の北端を窯場に達している。吹上の旧大宮道との交差では西部の道は無くなっている。東部の道は僅かに窯場に通じている。是から飯森神社の間に善得寺の用水タンクが残されているが、遺跡として大事にしたい物である。呼び子坂を下り松原川を渡る。
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松原川を渡った街道は高みに登り、W氏宅を経て三島製紙北の旧道を東進している。
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永明寺を離れて、岩山を迂回し北上鑑石園に通じている。現在は岩山は通じ道となっている。以降は次回とする。
一日の晴れに甲斐の桃、霊園の桜を尋ねた。
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