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富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(163)清岩寺の由緒(3)

2015年10月13日 07時47分48秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(163)清岩寺の由緒(3)

清岩寺の由緒として、現在の場所に関して(1)、(2)に考察したが、開創に関しては火災による焼失のため資料少なく次の資料により考察してみたい。
 「霊簿」元文元年(1736)十四世通譽上人記
 「名号塔」山門前参道西側碑、後背部刻記文 天明八年(1788)社多鸞山記
 「清岩寺縁起書き上げ候亊」文政六年(1823)中村藤左衛門
 「御朱印書き換え控え」数通
 「清岩寺沿革」
 「郡史編纂資料」
 その他関係資料
霊簿の中に「清岩浄交精舎経始記」(経始記と略称)があり、清岩寺の前身として一寺があつたとして次の記がある。「歴年就干今泉村田町西経営一寺而号専修寺也」とあるが、これの田町を現在の田宿に専修寺といふ寺があつたとしている。然しながらこれは田町西は現在の富士見町に当たると考えられる。




現在の富士見町に「道仙橋」がある。この地に名のあつた道仙(青木?)を記念する橋の名と思はれ、法雲寺所縁の青木姓より「浄信」と交をともにした青木道喜は富士見町の住人と考える。寺もこの橋の南の辺と推定する。専修寺といふ一寺である。
専修寺の開創に関しては明らかではないが、名号塔に北条時政開基とあり、天文年間(1535)としている。後北条氏の早雲が興国寺城を領したのが長享元年(1487)であることより、年代が相違する。
北条時政は前北条氏であり建保3年(1215)没78才とされている。開創の100年後が富士川の大洪水の天文22年(1553)と考えると時代が一致しない。早雲と考えると時代が合い、早雲の杜が伝法にあり、一寺を立てたことも考えられる。ただし浄土宗でなく、浄土真宗又は臨済宗ではなかつたではないだろうか。また100年を経て洪水により流出とするとかなりの規模の寺院だつたに違いないが廃寺となつた様である。
吉久は墓碑により、慶長十年(1605)77歳没とされている。
時代的に吉久は専修寺の開基でなく、廃寺を復興するのに多大の努力をされたと思はれる。

伝記の如く、吉久は府中より巌誉上人を招聘し浄土宗の布教に努力し、巌誉上人は巌悦大和尚聞誉上人に布教を譲り江尻に去つた。
巌悦大和尚は首記の如く清岩寺を開山し、吉久の開基と共に名を残している。
その後、府中の竜泉寺の意順和尚現は在の清岩寺の位置に吉久の寄与を得て甲州の郷士臼井氏・竹原氏の退去の跡を購入し寺を中興開山した。
中興開山は天正8年(1580)であり、吉久45歳の時である。
正誉上人意順和尚は清岩寺を開創していくばくもなくして、遠州見附の大見寺へ遷住し文禄2年(1593)示寂した。この間2~3年で清岩寺は無住となつた。
吉久は御厨の大乗寺の善林和尚に清岩寺への入院を懇請した。請いに応じた善林は入寺し号を然誉上人と称し、清岩寺の二世となつた。
慶長5年(1600)、然誉上人は府中の光明寺へ遷住となり清岩寺はまた無住となつてしまつた。
その頃大宮郷出身の龍務和尚が三島林光寺(武田家所縁の寺)に住していることを知り、入院を懇請、同年冬龍務和尚入寺し号を欣誉上人として清岩寺の願いにこたえた。浄信は自家の財産も惜しまず清岩寺の充実のための造営に尽くし、山号も冨栄山専修院清岩寺となつた。
欣誉上人は善得寺の無住時に兼務で住寺し、今に残る善得寺の過去帳に浄土宗の僧として名を留め廃寺時の項まで縁は続いていた様である。

慶長十年(1605)、中村吉久(浄信居士)没す。享年77歳。


富士市今泉の昔話(162)清岩寺の由緒(2)

2015年10月04日 19時34分07秒 | 昔話

富士市今泉の昔話(162)清岩寺の由緒(2)

清岩寺の場所は善得寺の跡地のことは先記したが、これに関係するいくつかの点を記してみる。




善得寺は臨済宗の大寺であり、その伽藍の配置は七堂伽藍を始め法に従つている。その一つとして寺の鬼門にあたる東北に鬼門封じとして開山堂が配置されている。善得寺では天寧庵の名があり、清岩寺の場所は将に此処にあたつている。
開山堂の格式より、臨済宗の一寺の配置であつたに違いない。
本堂の前にそびえる樹齢400年を伝えられる栢の大樹。これは将に禅宗の公案の「庭前の栢樹子」に当たり禅宗寺院の存在を示していると考える。公案は「万物皆仏性を持つている」の意であることを教えていただいた。




寺内に稲荷神社と八幡神社がある。穴山時代に瘡守稲荷・諏訪八幡が勧請されているが、これは禅宗の護国廟に当たり禅宗寺院の所在を示している。
寺内に六地蔵と地蔵大士が祀られている。これも禅宗の由縁である。

以上禅宗寺院の跡地へ清岩寺が建てられたことが分かる。

現在清岩寺の南の坂は駿河大納言以降のため、梅雪の造つた吹上の道路或いは現在の寺の西にある大宮道に山門があつたと考えられる。西からの入り口は少ないと思うが。

三島の長円寺の過去帳に仁藤に関係して、「瀬古」の清岩寺と記されている。高台一帯が「瀬古」と呼ばれていたのかも判らない。

富士市今泉の昔話(161)清岩寺の由緒(1)

2015年09月28日 09時36分16秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(161)清岩寺の由緒(1)

高野山詣での大願を果たしての安堵にしばらく休んだが、昔話を思い出しつつ再記してみたい。

清岩寺の由緒は戦国時代の末期に始まる。場所は今川の大寺「善得寺」の跡地である。
「善得寺」は今川の衰退に武田の第二次の駿河侵攻で壊滅し、寺域約10町歩は茫々の荒野と帰した。
信玄は二女見性院の化粧料として横尾郷を附し、穴山梅雪をこの地に封じた。
梅雪は跡地を整備し、今に残る吹上・御殿・(瀬古)坂本・寺市場の道路を造り、公用・民用の区別と共に民用には下山等の郷士を移住させた。
移住にあたつては新開地の割り当ては間口割(鰻の寝床)により別図の如くし、総数50軒に及んでいる。武田武将の山県・飯部等の後裔もあるが尚しらべたい。
清岩寺の土地入手の白井氏、竹原氏もこの郷士と考える。

永禄12年  1569  信玄の駿河侵攻二次。善得寺を焼く。
元亀2年   1571  武田・今川和睦。河東一帯は武田領となる。

             梅雪領主となり、移住開始か?
天正元年   1573  信玄死す。
天正8年   1580  清岩寺開基。
             移住の郷士帰郷を始めたか ? 
天正10年  1582  武田氏滅亡。武田領より徳川領となる。
             本能寺の変。梅雪横死。
     









富士市今泉の昔話(160)根方街道(9)

2015年06月07日 19時21分21秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(160)根方街道(9)

根方街道慢歩の折、一時を得て天空の高野山に遊ぶ事が出来た。
家族挙げての介護を得ての贅沢旅行であった。四国88ケ所巡りの結願、56期生の戦死の兄の慰霊、卒寿の誕生祝いを兼ねての願いを果たす事が出来「有り難い」限りであった。
図らずも陸士56期生の慰霊祭が行われており、これも思はぬ多謝の内であった。
夢とも思はれる卒寿である。

    ただ多謝の卒寿高野の青嵐       壷天
    
    墓碑銘の指に涼しき高野山       稜子





高野山の多謝より再び根方街道に戻る。
記述の如く、根方街道は時代と共に南に移って居るのは図の通り。



赤線  戦国時代、善得寺城の頃推定の古道。日吉を出発点として鎌倉古道、甲州街道、根方    街道が共用されていた。
緑泉  家康が善得寺御殿を作り、今泉往還が形成された。
茶線  駿河大納言が権勢を得て、茶屋御殿を整備したと考える街道である。
    この頃より今泉往還を廃止し、吉原よりの根方街道となっている。
空線  大正に入り、藪下の道が整備され根方街道が形成された。
水線  藪下より比奈までの直線路が開設され、更に南に直線路が開設され、浜街道と合致し    ての国道1号線となった。

根方街道の変遷は、道祖神・庚申塔等の石造物を時代ごとに調査するとよいと思はれるが
後日に待ちたい。

庭に破れ傘の花が3本咲いた。しみじみ見ると面白い花である。




銀香梅、くちなしが芳香を流し始めた。



















富士市今泉の昔話(159)根方街道(8)

2015年05月29日 19時45分17秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(159)根方街道(8)

根方街道は既述のように浮島沼の陸地化更には宅地化に伴い逐次南に移っている。明治に入り測量の実施以降その変化が見られるため、地図を挙げて見る。

明治20測量、28年第1回修正、31年製版。
富士沼・須津沼は既に無く、須津沼は形の池だけ。残された浮島沼は西端のみ。



明治20年測図、大正4年第2回修正測図、大正8年印刷。



明治20年測図、大正4年第2回修正測図、昭和5年部分修正。
残る浮島沼が更に変形。



明治20測量、大4第2回修正、昭15部分修正、昭1
9部分修正、昭23資料修正。
浮島沼の形が無く、沼沢地に。



明20測量、大4第2回修正、昭15部分修正、昭19部分修正、昭39部分修正(鉄道)。



びょう柳の黄色が賑やかになった。



空木と萩が競い合っている。