moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

たとえば、人間機械論の多様性

2005-08-15 | エッセー(雑文)

ロボットのアナロジーの一つとして
人間機械論を読むこともできるだろう。
特に漫画、アニメで展開された「ロボット」は多様だ。
古くは「鉄人28号」、「8マン」、「鉄腕アトム」がある。
この3体に、物語の基本テーマの3パターンが出た感があり、
「鉄人28号」の巨大ロボット・道具型
「8マン」のサイボーグ(アンドロイド)人間改造型
「鉄腕アトム」のヒューマノイド・ヒューマニズム型
マジンガーやガンダムは道具型、
ロボコップは人間改造型、
キカイダーはヒューマニズム型に分類できる。
「鉄人28号」の人工知能はPCのCPUのようなものだし
それは、「機械労働」に本質がある。
「8マン」「鉄腕アトム」は、いわば「人間」という概念の反映・
投射であって、「人間」という概念が内包している問題に、
たいする視点の基本的相違にすぎなく、「精神」の「物質」にたいする
「精神的優位性」倫理道徳的ロジックの展開が、良心の側から告発するのか
自然法則の側から逆転的に超倫理ロジックとして、問うのかという差である。
すべてに「人間」「機械」「自然」という哲学観が含まれているのだが、
その問題の仕方に、若干の隔たりが生じているにすぎない。

人間は機械であるという発想をした書物に、ラ・メトリの「人間機械論」がある。
たぶんデカルトの心身二元論を下敷きに、ラ・メトりは軍医であったので、
自然を機械とみるデカルト的発想を、より徹底して、
人間の身体にもその考えをあてはめ、人間の身体の本質が、機械であること
修理可能であること、適切に実験をくりかえして、法則が探りだせることを
機械の修理とケガ・病気の治療の類似性、その根拠の共通性に
国外追放になってさえ、目をつぶることが出来なかったのだろ。
その基本姿勢は、ベーコン的科学帰納主義的哲学に近い。
あえて「鉄腕アトム」をベーコン的科学帰納主義とするなら、
「8マン」は心身二元論のデカルト哲学を思わせる。
近代を再評価するなら、ヘーゲルなどに止まらず、デカルト、ベーコンまで
遡るべきだと思うが・・・。

アシモフの小説「アイロボット」では、三大原則によって
労働機械であること、その拘束、かこいこみ、収奪、略奪支配により
ロボット生産会社がトップ企業に安住していることを、示唆している。
つまり、機械奴隷であるロボットの存在根拠は三大原則によって、
維持されていると公言していた。
早くからロボットの道具=機械奴隷としての本質は、注目されていたが、
人間機械論においては、まだ楽観的未来像、科学万能による社会
との隔たりが少なく、機械=力の象徴にすぎなかった。
まるで機械の身体を求める銀河鉄道のテツロウのように・・・。
しかし、ニーチェ的時代に、その発想も労働機械としての人間に、
反転してしまう。大量生産にともなう資本家と雇用労働者との「差」は
労働者のかこいこみ、その生産物の収奪という方法を徹底合理化し、
人間=機械奴隷という一面をクローズアップさせる。
そこでの人間機械は、精神面の基底である「感覚」が抑圧されていること、
奪われていること、失われていることが隠されていて、
ラ・メトリとの時代との「ズレ」は驚異ですらある。

「アイロボット」のエピソードの一つ「証拠」で展開されるロジックに、
三大原則を機械奴隷を拘束するものとして、あつかうのではなく、
一般的人間の良識として、高潔なる人格の行動と一致するモラル
としてのアナロジーを、指摘するテクストの展開は、
人間が機械と同質でありながら、アイロニーに彩られた啓蒙的表現だとしても、
人間の高潔な理想的行動を、もたらすルールになりえるという意味で、面白い。
この先「人間=機械」の物語としてのテーマは、人間の「交叉する諸感覚」を、
とりもどすこと、回復させることになるのではないだろうか?
それはまた、デカルト的道徳観の読み返しになるのかもしれないが・・・。