moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

映画館とネット喫茶の類似性(機械として)

2005-08-18 | エッセー(雑文)

映画館の設定する装置に近づけるべく、最近のネット喫茶は
ボックス型の個室が多くなってきた。
漫画喫茶→ネット喫茶→多目的スペース喫茶(オルタナティヴ)に
少しずつ社会ニーズに答えた形になるのかもしれない。
ただ、コミックが読める→ネットし放題→ゲーム+DVD無料視聴
さらにシャワーも浴びれるというように、多目的な要求に答えられる
空間に仕切りなおされたネット喫茶は、驚くほど照明がおとされ、
静かだ。本来孤独な作業になりがちな読書空間、ネットサーフイン、ゲーム
DVD鑑賞の空間が、映画館がたどったように、若い男女のデート場所に
なってきている。
映画館やコンサートホールの機能は、雑音を防ぎ、光をさえぎり暗闇に
観客の身体を沈み込ませることだった。
そういう舞台装置により、「より純粋な主観性」を得て、同時に他我である
他者の主観性を、客観性として保障したのである。
近代の客観性はこういう演劇空間によって、貴族的社交性・教養として
位置づいたのである。
しかし貴族的な社交が否定されると、市民のための社会性は
異質であること、その出来事について理解することを強いられる。
それは、どこにいても管理する視線にさらされ、その閉塞感に
自分を見失うという状況を生んだのである。
また、男女の10代後半から20代前半までの恋愛は、
自我を喪失しやすいと知られていたが、この年代が映画館やコンサートホールの
舞台空間の利用者としてあらわれ、全体の半数以上になるという
状況を生んだのである。
男女ペアーが映画館の用意する空間に、その身を運び、その装置にゆだねて
これ以上小さくできない、モナド的主観の位置まで「引き篭った」のである。
そのモナドは他我と同質であり、異質なものではあえないという
認識であったのである。
しかし、この方法は一人では他者を異質なものとして退けるだけで済む、他者を
必要としないという意味にそれやすい。だからこそ自我の不安定な男女ペアーは
「二人で引篭もる」空間を利用しなければならなかったのである。
この構造は、そのままネット喫茶の「ペアー席」利用と同じであり、
さらに、性的な意味にそれる危険性をはらみながら、擬似的簡易に仕切られた
個室は、管理する視線を隠し、見られない自分であり、見る自分という
「見る主体」という位置を回復させる。
とても小さな子が管理する視線を感じることなく、互いの表情だけを感じている
その地点まで、帰るかのように・・・。
その狭い空間は外から見えない、見られることがないが、息遣いが感じられる
隣人を個室の外に感じ、内ではペアーが身を寄せ、同じ「窓」を「情報」を
「意識」を共有するのである。
この二人で引篭もれる装置(機械)が、重要なのであって、将来的に
それは家庭という機能にすりかわるのだろう。近代において舞台空間の
装置を市民に開放するとき、貴族的社交性を否定するあまり、
一人で引篭もる装置として位置づかせた「誤読」が、問題だったのである。
舞台装置は高尚な芸術論を一人で、研鑽する場所ではないのである。
二人で遊ぶための空間、その重要性改める装置なのである。
 

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