moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

仕切られた空間=制度化「家族」・・・「ドラえもん」

2005-08-19 | エッセー(雑文)

子供映画では欧米も日本も「家族」「ファミリー」を大切に
というテーマの作品が、大量に生産されている。
そのたびに似非評論家が、欧米は家族が崩壊してるから、
回顧してるにすぎない。旧来の家族体制にこだわるのではなく、
フレキシビリティに対応していかないと・・・という趣旨のことをいう。
しかし、その彼らでさえ、一部のフェミニストでさえも、
家族を構成する小単位の「個人」を、一つの「入れ物」に入れてさえ
おけば、自ずと「家族」が出来上がるという粗雑さである。
それは「家族」そのものに接近しようとする努力をすて、
諸問題にすり変えて、解決を図ろうとする姿勢なのである。
住居、教育、ホームエコノミー、少子高齢化等に置換し、
社会の生産力の低下を、防ぐ目的で現実を切りとり、施策をほどこそうと
する「制度」=自動機械に委ねているに過ぎないのである。
そこにおける女性が求める究極のロボットは、「家電ロボット」であり
invisible robot「見えない、意識されない、偏在する。」ハウスキーパー
としての機能が、神のように調整されたものなのである。
「どこでも見えないロボットがいて、人間を助けてくれる存在」
そういうものを夢みているフェミニズムは「ドラえもん」と「のび太」の
関係なのであって、幼稚な「現実」の切り取り方、仕切り方なのである。

「ドラえもん」の物語は、結局ドラえもんが故障することで、
のび太の自立がうまれ、大人としての階段を上りはじめる。
そしてのび太は修理不可能といわれた「ドラえもん」を・・・。

こののび太にも劣るフェミニズムの「ゆがみ」を自覚することが必要だろう。
女性の特殊な身体性は、他者を内在させることにつきる。
その身体の痕跡は、その空間を仕切りなおし、運動の構図を変えるのだ。
それが子供を産むということであり、社会を本質的に仕切ることなのである。
「家族」の本質とは、社会空間を仕切る身体性なのである。
だからこそ「家族」は住居建築を必要とし、都市の空間を設計してきたのだ。
設計された空間に入れておけば・・・という発想は「権力者」のものでしかない。
建築学の哲学には、貴族趣味的な痕跡が多く残されている。
それを払拭することが、新しい空間の構図を手にする事が出来
身体の運動ものびやかなものにすることが可能だろう。
本来フェミニズムは、この方向性に読み取らなければならないのでは・・・
と思った。

しかし、リニューアルされた「ドラえもん」はいつの時代の話なんだろう。
のび太の父親がS20年ころ疎開した物語が描かれていたが、
その時10歳だとして、のび太を30歳ごろに産んだとしても
のび太はS40年ごろの生まれになるのではないだろうか?
1965年の時代に一戸建てに住んで、区画整理された住居て
東京でも、それほど多くはなかったのではないだろうか?
サラリーマンのほとんどが、団地住まいになり、しばらくして
「団地妻~」という映画がヒットしていた時代じゃないんだろうか?

ロマンポルノが1971年から始まったとされているらしい
それより前ピンク映画と呼ばれていた時代の作品タイトルにはみられない
ので、ロマンポルノが1971年ごろから「団地妻~」映画を撮り始め
「団地」という居住空間が、それだけ当時注目を浴び始めたんだろう。
とするとどこにもなかった世界が、あのリニューアル設定の「どらえもん」の
世界で、だから声優の違和感ではなく、時代設定のバランスの悪さなんだろう
SF的時代考証をしっかりするべきだろうな
少ない家族空間を描いてるアニメなんだから・・・。 


ロマンポルノは http://nikatu.site.ne.jp/HTML/newpage10.htm ここ参照
ピンク映画は http://www2u.biglobe.ne.jp/~p-g/history.htm ここ参照