<意味>が生じる起源をめぐることの、ことば遊び(意味の起源を問うということではなく)
歴史的遺物としての沈殿化した価値観が断層として露呈し共時性をもってしまったり、
運命、利益、使命共同体という区切りの中で、個々の現実感覚のズレが多層的に隔たりを生んだり、
リアル感に左右される個人の行動様式だが、リアルは露呈を目的としていて、
リアル=現実と単純に定義することでは理解できないため、堂々巡りを繰り返し、
フロチャートのループするような意味に翻弄され続ける現代の個人。
しかし我々の意味はテキストを共有することで保障され続けてきた。
そのテキストモデルにおいて、意味は前後の文脈に規定される。
その原理原則により、論理性が保証される様相、曖昧性が生じる事も含め考えてみたい。
あるのか、ないのか解からない、原典復元の基礎的方法論に
頼らざる得ない、イズム(宗教的、共同体的)としての方法。
テキストが孕む意味の自己矛盾を
見つけ出し、その解釈の妥当性の道筋を発見する、学問的方法。
メタ言語⇒
パラ=ロジカル(平行的、多層的論理構造と便宜上仮称)⇒
記号論的展開
油絵のように幾つも塗り重ねられる意味の層、
表層は一義的な意味に定義づけられてるように見えるが、
定義そのものが、幾つもの時間的意味における相(多義性)を含み、
一面性が幾つもの層を構成し、以前の意味を隠し、
新たな意味を構成するような、相互に意味を塗り重ねていく方法。
(詭弁術に似て非なるもの?)
以上のようなイメージにおけるテキストの
曖昧性は十進数的尺度によるのかもしれない。
1+1=2というように答えは一つといわれるが、
十進数はテキストに組み込まれると、
非常に曖昧なものになるように思える。
(論理学の代数モデルがなぜ有効に機能しないのか?)
そう仮定して、その対立する原理として、
イメージにおける二進数的尺度(PCの絵、音のパズル化)
について考えてみるのも面白いかもしれない。
最近では、落ちゲーというパズルゲームがその例かもしれない。
この単純なゲームは形とか色が揃う事で意味が発生する。
その意味も0か1というON OFFでゲームが形成される。
このゲームが得意な子は音楽的才能にも優れてる傾向が見受けられるような気がする。
そのため、音楽もこの0か1という原則に規定されてるのかもしれない。
(自閉症の子も絶対音感という才能に恵まれてる場合が多いようだ。
脳の思考の基本機能をコンピュターとの機能と比較する研究があるようだ。)
CDがWAVEという情報によって統一データ化され、PCではmp3が
主流になって久しい。そのPCのデータが二進数により構成されている。
音楽は時間の芸術といわれるように、5分を要するものを短縮して
感じること、表現することはできない。存在と時間という視点
本来、その<存在>そのものは二進数の論理なのかもしれない。
しかし、特に普段聞くJPなど歌詞のついた音楽は、テキストの意味に
還元される傾向が強い。
いわゆる、演歌などはその詩も起承転結という文章ルールに準じて、
その結果曖昧な世界観が表現されことが多いようだ。
それとは別に流行りの、JPと称される若者向けの歌詞は、
早いリズムに合せるため、詩は、比喩的、象徴的傾向を強め
現代の短歌俳句のように、もしくはニーチェ流アフォリズムのような、
さらに落ちゲーのように詩がパズル化し、Feel「感じる」こと優先の
詩の構成になってる傾向が見うけられる。
テキストのように意味を読み込むのではなく、
短い句が重なることで、意味が噴出する構成とでもいえばいいかも
しれない。これを意味のパズル化と称するのも面白い。
この意味のパズル化の傾向はパラ=ロジカル的ものと似たような構造があるのかもしれない。
パズル化が二進数的意味への移行だとするなら
パラ=ロジカル的ものも同様なのかもしれない。
具体的利益共同体を主軸とする世界観と自己イメージ<感>のズレ
離人的、分裂的感覚、さらに軽鬱症の増加は、テキストが二進数的
意味へ移行してることに取り残され、判断保留もしくは思考停止という混乱状態のような気もする。
二律背反的、二重拘束的状態の混乱は、適切な情報取得によって
解決出来るように思えるが、競争原理が情報を独占させる傾向を生む
ため、個人はその疎外性からのがれることができない。
本来の個人は自我に埋没しては単純な意味さえ見出せなくなるが、他者との関係性が
重要なのは周知だろうが、その関係性がうまく社会で機能しないのはなぜなんだろうか?
疑問は続く・・・w。
歴史的遺物としての沈殿化した価値観が断層として露呈し共時性をもってしまったり、
運命、利益、使命共同体という区切りの中で、個々の現実感覚のズレが多層的に隔たりを生んだり、
リアル感に左右される個人の行動様式だが、リアルは露呈を目的としていて、
リアル=現実と単純に定義することでは理解できないため、堂々巡りを繰り返し、
フロチャートのループするような意味に翻弄され続ける現代の個人。
しかし我々の意味はテキストを共有することで保障され続けてきた。
そのテキストモデルにおいて、意味は前後の文脈に規定される。
その原理原則により、論理性が保証される様相、曖昧性が生じる事も含め考えてみたい。
あるのか、ないのか解からない、原典復元の基礎的方法論に
頼らざる得ない、イズム(宗教的、共同体的)としての方法。
テキストが孕む意味の自己矛盾を
見つけ出し、その解釈の妥当性の道筋を発見する、学問的方法。
メタ言語⇒
パラ=ロジカル(平行的、多層的論理構造と便宜上仮称)⇒
記号論的展開
油絵のように幾つも塗り重ねられる意味の層、
表層は一義的な意味に定義づけられてるように見えるが、
定義そのものが、幾つもの時間的意味における相(多義性)を含み、
一面性が幾つもの層を構成し、以前の意味を隠し、
新たな意味を構成するような、相互に意味を塗り重ねていく方法。
(詭弁術に似て非なるもの?)
以上のようなイメージにおけるテキストの
曖昧性は十進数的尺度によるのかもしれない。
1+1=2というように答えは一つといわれるが、
十進数はテキストに組み込まれると、
非常に曖昧なものになるように思える。
(論理学の代数モデルがなぜ有効に機能しないのか?)
そう仮定して、その対立する原理として、
イメージにおける二進数的尺度(PCの絵、音のパズル化)
について考えてみるのも面白いかもしれない。
最近では、落ちゲーというパズルゲームがその例かもしれない。
この単純なゲームは形とか色が揃う事で意味が発生する。
その意味も0か1というON OFFでゲームが形成される。
このゲームが得意な子は音楽的才能にも優れてる傾向が見受けられるような気がする。
そのため、音楽もこの0か1という原則に規定されてるのかもしれない。
(自閉症の子も絶対音感という才能に恵まれてる場合が多いようだ。
脳の思考の基本機能をコンピュターとの機能と比較する研究があるようだ。)
CDがWAVEという情報によって統一データ化され、PCではmp3が
主流になって久しい。そのPCのデータが二進数により構成されている。
音楽は時間の芸術といわれるように、5分を要するものを短縮して
感じること、表現することはできない。存在と時間という視点
本来、その<存在>そのものは二進数の論理なのかもしれない。
しかし、特に普段聞くJPなど歌詞のついた音楽は、テキストの意味に
還元される傾向が強い。
いわゆる、演歌などはその詩も起承転結という文章ルールに準じて、
その結果曖昧な世界観が表現されことが多いようだ。
それとは別に流行りの、JPと称される若者向けの歌詞は、
早いリズムに合せるため、詩は、比喩的、象徴的傾向を強め
現代の短歌俳句のように、もしくはニーチェ流アフォリズムのような、
さらに落ちゲーのように詩がパズル化し、Feel「感じる」こと優先の
詩の構成になってる傾向が見うけられる。
テキストのように意味を読み込むのではなく、
短い句が重なることで、意味が噴出する構成とでもいえばいいかも
しれない。これを意味のパズル化と称するのも面白い。
この意味のパズル化の傾向はパラ=ロジカル的ものと似たような構造があるのかもしれない。
パズル化が二進数的意味への移行だとするなら
パラ=ロジカル的ものも同様なのかもしれない。
具体的利益共同体を主軸とする世界観と自己イメージ<感>のズレ
離人的、分裂的感覚、さらに軽鬱症の増加は、テキストが二進数的
意味へ移行してることに取り残され、判断保留もしくは思考停止という混乱状態のような気もする。
二律背反的、二重拘束的状態の混乱は、適切な情報取得によって
解決出来るように思えるが、競争原理が情報を独占させる傾向を生む
ため、個人はその疎外性からのがれることができない。
本来の個人は自我に埋没しては単純な意味さえ見出せなくなるが、他者との関係性が
重要なのは周知だろうが、その関係性がうまく社会で機能しないのはなぜなんだろうか?
疑問は続く・・・w。