moving(連想記)

雑文(連想するものを記述してみた)

高校生・事件・圧迫化する制度について

2005-11-18 | エッセー(雑文)

16歳、高校生の事件が取り沙汰されている昨今
それを単純に社会のせいにすることに、一種アレルギーのような
反応がマスコミ、タレント主導で論じられているような気がする。
様々な論調で語られてはいるが、
社会といっても漠然としていて、社会の何が問題なのか?
それを明確化する路線が消され、隠蔽工作的な仕掛けさえ
点在しているが、それでも現代社会の「構造化する」ことを、
選択した「制度」の問題であるという事が、
追及されないということは、異常な出来事だろう。

例えば、ブログに類似した「自己プロフィール」サイトなどは、
十代後半、高校生中心に活用されている。
その表現は、幼く、物事の切り取り方も表面的で、本質という言葉さえ
失われている発想によって、占められてはいるが、
自己アッピールは字数制限や、決められたフォームの中で、
器用に専門用語、隠語のような語を散らべることで、
共通の趣味の他者を、篩にかけているという方法を用いている。
それがPCネットと携帯電話を中心としたコミュニケートの方法を
基礎付けていて、ネットによってオタクという行動パターンが、
平均的行動になってしまっているのである。それは、言葉の意味や
行動の意味に、一つの意味しか認めないという制約が、
課せられる行動パターンであり、受験「制度」によって強化されて
いるともいえる。
「一つの表現」の意味が一義的にしか受け取られないという悲劇。
恋愛では相手のことを思い、そのために身を引く愛想ずかしや
親子では、子供の将来のため奮起させるために、わざとキツイ
ことをいうという情愛というものが、近代文学で表現されていたが、
そういう物語は消費されず理解されず、プラグマチックな道具操作的な、
人間関係観が主流になり、恋愛も「出会い即H」という構図に誘導、
消費されている。
人間行動の意味を単一なものに還元し、理解しようとする目論見は
集団行動の「効率化」を促進させるが、一方で、個々の意味を
無視し、あるいは抑圧、矯正をしかける。
高校生ともなれば、その自我はアンビバレンスな状況におかれやすく、
自我は多重な人格に引き裂かれる傾向を強める。
その時、中心軸となる強固な人格が成立していれば、不安定さは
軽減され、異常行動に逸脱することも、自己調整によって、
防止できるのだが、日頃から多用な価値観に触れ、理解できる
フットワークの軽さがなければならない。
しかし、教育制度は、一方的な価値観しか認めようとしない体制を
強めていて、その身体は重いのである。
その社会制度の選択の自由度は極端に低く、それが現代人を
不安に落とし入れる訳であるが、日常的には対処療法的に
TV、映画「鑑賞」によって、「忘却」を重ねているにすぎない。
その「忘却」のシステムがうまく機能しないと、強迫観念的に
物事に執着し、個人の妄想を強めることになる。
鬱積した強迫観念が、ある日アキレス腱がプツンと切れるように
突然とやってくるのである。
それが対人関係であった場合、取り返しのつかない事態へと
異常な「事件」となるのである。
しかし、その「事件」さえ、「犯罪」であるか「狂気」であるか
判定する「制度」を必要とするのである。
その制度の連鎖が「社会」であり、それを「分節化」し、
表現できなければならないのである。

マルクス主義的な、コンセプトに間借りし、
多少アレンジすれば、今風の問題に接近、説明しやすいかもしれない。
例えば、資本家によって囲い込まれる労働力は、「効率化」のために
労働者を「疎外」する方向性へと促進されるが、これが過剰に構造化されると、
その「制度」は先取りされ、「囲い込まれる労働者予備軍=高校生」と位置づき、
高校生は目的を見失ったカタチでありながら、
加速的に行動を「強制」されるのである。
そのとき、ボーダライン上に踏みとどまれるのか、
暴走するのかは個々の身体の柔軟性・疲労度に左右されるのだろう。
身体的訓練には、異常行動に逸脱するのを防止する効果はあるだろうが、
漠然とした「不安感」からは解放されることはない。
「強制」に原因を求めることが可能な「不安感」を解消するのは、
「制度」を修正する可能性を示唆することが、第一であり、それは
高校生に対しては大人の役目であるはずだが、
ただ問題なのは、近代的「大人」というコンセプトの効力が薄れ、
社会の構成要因としての「役割」に解体され、労働者が「カタカナ」職業に
細分化されていくに比例し、「大人」は消失したということだ。
そして子供と老人だけが永遠に残る社会が形成されるのだ。
・・・というように表現できるかもしれない。

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