四条大宮ジャーナル

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北山 修の時代

2012-06-14 16:03:13 | 京都
あの素晴しい愛をもう一度

北山修氏を初めて知ったのは「12枚の絵」というソロアルバムから。
私、小学校6年の時で姉が買ってきたLPは今もウチにある。
京都出身やから「北山修」は芸名と思ってた。

ウチの近所のお医者さんが、北山氏の後輩にあたる人で
「昔は目の前を走ってた市電で一緒に通っていた」とか
いつもいく居酒屋は杉田二郎氏の実家近所とか
団塊世代の人と話をすると、京都では必ずと言って良いほど
彼らの話題となる。

60年代後半、京都から「自分で曲を作って、演奏する」フォークが
全国に発信された。「帰って来たヨッパライ」を聴いて井上陽水は
これでやれるなら、とミュージシャンを目指すきっかけになったという。
かなわないと思ってたことを実現した初めてのグループが
ザ・フォーク・クルセダーズ(以下、フォークル)やったのだ。

アマチュアにも関わらず、北山氏の司会・トークは抜きんでており
それは後年のDJでも発揮されることになる。
加藤和彦氏のメロディーメーカーぶりは、ここよりも詳しく
書かれてる方が居られるので割愛するが「帰って来た~~」
の次にイムジン河が発禁になって即「悲しくてやりきれない」
を創り出すイマジネーションは、大器晩成の逆で
出来る人は最初っから出来るのである、といった見本である
20代前半で、この前まで素人やった人がサトウハチローや
五木寛之の詞に曲をつけるのも凄いが、加藤氏のセンスを見越して
曲作りを強要(?)した当時の東芝レコードも凄い。

解散後、北山修と加藤和彦が一度だけシングルで共演した
「あの素晴らしい愛をもう一度」は言わずと知れた名曲であるが
この1971年は、芸能活動から退く間近の北山氏は作詞家として
後年に残るヒット曲を連発している。

堺 正章「さらば恋人」
はしだのりひこ&クライマックス「花嫁」
ジローズ「戦争を知らない子供たち」等々

ここらの歌詞で共通部分として「花嫁」の
「命かけて燃えた恋が結ばれる」と
「あの素晴らしい~~」の
「命かけてと誓った日から」
「命かける」といったフレーズは、大げさかもしれないが
しかし、恋愛で命をかけてもこの人とならと思ったことは
誰しも経験があるのではないか。
北山氏が25歳の時書いた詞は後年、年を重ねた
本人自身が恥ずかしいと思うことも
あっただろう(事実、本名を伏せて自切俳人と名乗った頃は
北山自身を豚山修と言って揶揄していた)。

「戦争を知らない子供たち」「二十歳の原点」が
ベストセラーになった(何れも京都の学生だな)1970~1971年
学生運動も、関西フォークもピリオドを打ち、
北山修のDJは吉田拓郎に代わり
時代はフォークからニューミュージックへ移行する。

1970~90年代まで、北山氏も加藤氏も過去の歌を
封印していた時代が続いたが2000年を過ぎてから
もう一度繋がるのも興味深い。
ロック、ポップス、フォーク或いは相手するミュージシャンに
全く固執しなかった加藤氏と、一人ひとりの人間と対峙する
精神科医の北山氏の生き方にはある意味、水と油のような
違いがある。逆にそうだからこそフォークル再結成が出来たのだろう。

その後、加藤氏は何か拘りが無くなったように
ミカバンド再結成や、フォークコンサートのゲストとして
登場することが多くなる。
まるでミカバンドのファンにもフォークルのファンにも
お別れ挨拶をするように。

加藤氏なきあとの北山サンは、定期的にコンサートを企画したり
開催したりしている。
宵々山をつくってきた、永六輔さんや高石ともやさんも高齢化が進み
昨年幕を閉じた。

願うらくば、また皆が京都に戻ってきて演って欲しいなぁと
思うが、それじゃあ宵々山の再開になってしまうから(笑)。

最後に、加藤登紀子が北山修に贈った文がある
大学を出て、芸能界から退場したときの文だ。

「私は、風という曲が好きだ
歌っているとどうもいけない、泣けてくるのだ」
そんな文章やったやろうか、私も同感
別れの歌とか、去っていく人の歌が多い北山修の
代表曲と言えるのではないか。
人の人生、出会いよりも別れが多くなってきたこの歳には
堪える詞でもある。

帰っておいでよと 振り返っても
そこにはただ風が 吹いているだけ

去り行くものを優しく送れる男になりたい。



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2 コメント

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二十歳の原点 (エンドウマメ)
2012-06-14 18:32:00
「二十歳の原点」・・・まだ立命館が広小路にあった頃の
話ですよね。 向かいにあった喫茶店「シアン九レーヌ」に
行くとか、高石友也のシングル「坊や大きくならないで」を
買ったとか・・・そして悲しい結末に。 この書籍はボクが
文通をしていた女性の先輩で、送ってもらった事を覚えてます。

全部で3冊あって、学生闘争が無ければと思うと悲しいですね。
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Unknown (大河内)
2012-06-17 12:14:37
60~70年代、戦後に向かって経済成長と
その為にアメリカに投げた安保に対して
民衆(学生)が闘争を続けていた時期なのですが
これに関しては全ての学生が、というより
ムーブメント的に流されていた学生も多かったみたいですね。
真面目な学生ほど悩みが深いのは、今も昔も同じです。
高野悦子さんは、そんな時代の学生として
共感する部分を持つ人が多かったのでしょう。
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