日本列島旅鴉

風が吹くまま西東、しがない旅鴉の日常を綴ります。

活動回顧録 - 北陸新幹線開業

2016-03-09 23:08:31 | 旅日記
過去二回を含め、この総集編の内容は、当時の記録をほとんど参照することなく綴ったものです。その結果、印象に残った活動については詳細な、そうでもなかった活動についてはそれなりの記述になります。このような方法を採ったとき、とりわけ長くならざるを得ないのが三月の記録です。
今振り返って思うのは、北陸新幹線の開業は東北・上越新幹線の開業に次ぐ一大変革だったということです。その間国鉄の分割・民営化、青函トンネル・瀬戸大橋の開業、東北から九州までを縦断する新幹線網の完成など、我が国の鉄道史上に残る変革はいくつもあったわけで、それらに比べてしまえば北陸新幹線の開業など小さな出来事のようでもあります。しかし、特定地域への移動経路を抜本的に変え、大幹線を一夜にして寂れたローカル線に転落させた落差の大きさという点では、北陸新幹線の開業は有史以来屈指の出来事だったというのが実感です。少なくとも、自分が一部始終を見届けたものとしては最大級と断言できます。今後ますます鉄道が衰退していくことを考えると、これに匹敵する出来事は生涯起こらないかもしれません。

・早春の越後を行く(3/7-8 2日間)
ほどよいところで締めくくり、同業者で混み合う最末期を避けるつもりでいたところが、結局居ても立ってもいられなくなり、最後の週末に再び車を飛ばして日本海側へ向かいました。
この活動で幸運だったのは、前回関越道の事故渋滞に見舞われて撮り損なった「北越1号」に、国鉄特急色のK1編成が再び入ったことです。わずかな出遅れが致命傷となった前回の教訓に基づき、十分な余裕を持って出た結果、米山のお立ち台には破綻のない時刻に着き、目当ての「北越1号」を彼方の雪山まで見渡せる絶好の条件下で仕留め、これが最大の収穫となりました。その後次第に雲が出て、午後はさしたる収穫もなく終わったものの、直江津港の近くの宿に飛び込みで入り、そこを拠点にしてまたも「妙高」に乗った後、駅前の大衆酒場で軽く一杯やるというのが初日の顛末です。翌日も昼過ぎまでは空振り気味の進行ながらも、米山に戻った夕方から再び空が晴れ出し、四つ目の前照灯を点灯したT18編成を仕留めて、有終の美を飾れたのは幸いでした。
新幹線の開業により特急電車は姿を消し、残る115系もいずれは安普請の新車に置き換えられ、二十年来通い続けた米山のお立ち台はいよいよ有名無実化しようとしています。それだけに、ここから眺める夕景も見納めかと思うといいようのない去りがたさを感じ、同業者がとうに去った後も一人で残っているうちに、周囲はすっかり暗くなりました。いよいよ潮時かと思い夜空を見上げたとき、天の川を見るような満天の星空だったのが思い出されます。
最後の週末は終わっても、活動はまだ終わりません。柏崎に車を置き、国鉄色の「北越9号」と最終の上越新幹線を乗り継いで一時帰京しました。この後中三日を置いて、正真正銘の最終日を含む活動を迎えることになります。

・春まだ浅い北陸へ 2015完結編(3/12/-15 4日間)
長きにわたって北信越に通い続けた日々も、最後の二日を残すのみとなりました。前回の帰京後から春の嵐が吹き荒れて、前日まで「北越」も「くびき野」も全列車運休という状況が続き、運休のまま最終日を迎えるというまさかの事態も脳裏をよぎる中、幸いにしてこちらの復帰と同時に列車は動き出しました。しかし依然として天候は荒れており、凍えるような風雪が吹き付ける中、かじかむ指でシャッターを切るのが精一杯という状況です。とはいえ、この機会を逃せば荒波寄せる日本海と列車との取り合わせも見納めとなります。これまでとは違う光景を記録できたという点に意義がありました。それに加えて、「くびき野」と「北越」にそれぞれ一本入った国鉄特急色の編成を揃って記録できたのも収穫です。
日中の撮影を終えた後は柏崎に宿をとり、T18編成による「くびき野5号」に新潟まで乗り通した後、折り返しの6号に長岡まで乗り、「魚仙」で一献傾けてから柏崎に戻りました。これが最後といいながら、往生際悪く何度も乗車を繰り返してきた国鉄特急色の編成にも、結果としてこれが今生の別れとなりました。

正真正銘の最終日となった二日目は、「トワイライトエクスプレス」の上り最終列車を出迎えるところから始まりました。荒天による運休が続き、そのまま運行終了かと危ぶまれる場面はあったものの、最後の列車は柏崎を定刻に通過していきました。ただし、札幌に何日も足止めされた結果、本来大阪で積み込むべき食材の調達ができず、現地の市場で急遽調達した食材を使ったようです。本来とは異なる内容にせざるを得なかったこともあり、長年の感謝を込めて無料で振る舞われたという粋な話も。名列車はこうして最後の旅を終えました。
もっとも、その逸話を聞いたのは後日のことであり、当時は感慨に浸っている余裕などありませんでした。長岡ではなく柏崎に泊まったのは、昨日乗ったT18編成が、「くびき野1号」となって下ってくるからでもあります。性懲りもなく米山のお立ち台に急行し、列車の通過を見届けたのが七時過ぎです。直前まで差し込んでいた朝日が遮られ、写真としては半端な出来になってしまったものの、T18編成が四つ目の前照灯を灯して下るのは、定期列車としてはこれが最後になったわけです。その様子を荒波寄せる日本海とともに記録できただけでも十分ではないでしょうか。その後ほくほく線から信越山線に転戦し、最終日の光景を一通り記録して列車撮影は終了となりました。
無情の雨との予報にもかかわらず、辛うじて持ちこたえてきた天候も、撮影を終えた頃から雨模様に変わりました。運転にも難儀する土砂降りの中8号線を西進し、夕刻にたどり着いたのが通称「北陸本線キャンプ場」こと朝日町の海浜公園キャンプ場です。最後の瞬間をどこで迎えるかと考えたとき、いの一番に浮かんだのはこのキャンプ場でした。数々の思い出が残るこのキャンプ場で、あわよくばゲリラキャンプを張ろうと考え、車にもキャンプ道具一式を積み込んでいたのです。しかし、傘を差しても濡れるほどの土砂降りに加えて、山の方から風まで吹いてくる始末。淡い期待は無情にも打ち砕かれ、下り「はくたか」と上下「北越」の最終列車を見送るのが限界でした。
いよいよ最期の時が迫る中、キャンプ場を後に向かったのは魚津駅です。ここに車を置き、日付が変わってから富山に着く最終の普通列車に乗るというのが、苦肉の策で選んだ幕引きでした。しかしこれが思わぬ展開につながります。駅には何の祭りかと思うほどの人混みができており、そこへ駅長以下3名の係員が現れ惜別の横断幕を掲げたかと思うと、程なくして上り「はくたか」の最終列車が滑り込んできました。人混みの正体は、最後の列車を見届けようと集まった地元の人々だったのです。やがてどこからともなく拍手が起こり、列車はそれに送られながら走り去って行きました。終生忘れ得ぬ印象的な結末でした。

それから一夜が明けて、人々が長年待望した新幹線がついに開業しました。しかしこちらは北陸本線の残像を引きずっている人間です。長らく追い続けてきた列車たちが新幹線に取って代わられたという現実を、昨日の今日で直視したくはありませんでした。それにもかかわらず、初日早々乗車することになるとは皮肉なものです。
このようなことになったのは、よりによって開業日に野暮用があり、その日の昼までに一旦帰京する必要があったからで、それさえなければ初日に乗るなどという発想は起こらなかったでしょう。しかし、意図せざることだったとはいえ、初日に乗車を果たしたのは結果として幸運でした。沿線の随所に祝賀ムードが充ち満ちているのを目の当たりにし、この日が北陸の人々にとって歴史的な一日であることをありありと実感したからです。しかし、この華々しさも束の間、翌日にはあまりに残酷な現実に直面することになります。

最終日は前半の荒天が嘘のような快晴に恵まれ、立山連峰が青空に映えるという見事な光景が出現しました。しかし魚津駅に降り立つと異様な気配が漂ってきました。そこにあったのは、頻発していた特急が一本残らず廃止され、さらにはみどりの窓口も売店も閉鎖されて、兵どもが夢の跡となった旧北陸本線の駅でした。
このホームから特急に乗り込んでいた人々は、一ヶ所に削減された窓口に長蛇の列をなして切符を買い、短編成の普通列車に詰め込まれて、新幹線が発着する富山駅へと運ばれていきました。名撮影地として知られた常願寺川のお立ち台を訪ねても、やってくるのは同じく短編成の普通列車のみ。帰りがけに寄ったキャンプ場で、どこの閑散線区かと思うような単行の気動車が目の前を通過していったときには、ただ愕然とするしかありませんでした。
かつての北陸本線の無残な姿に気落ちしたこともあるのか、復路の移動では一気に疲労が噴出し、休憩をはさみつつ四時前にようやく帰着という結果です。このような正視に耐えない現実を見せつけられるなら、まっすぐ帰った方がよかったとさえ今は思っています。

新幹線の開業を前に、いまだかつてないほど足繁く北陸へ通った日々はこうして終わりました。そして終わった後に残ったのは、虫酸が走るような不快感です。これも偏に、かつての北陸本線、信越本線が見るも無惨な姿に変わり果ててしまったからに他なりません。今年久々に北信越を再訪したことにより、その感覚は薄れるどころかむしろ増してきました。
新幹線の開業により在来線が厳しい環境に置かれるのが明白な状況ならば、それを活性化するための施策を打つのが本来の姿にもかかわらず、北陸新幹線の並行在来線を引き継いだ事業者は、活性化を図るどころか接客水準を大幅に落としてしまいました。その結果在来線は全く使えない代物となり、金沢と富山の間を移動しようにも、高額な新幹線か高速バス以外の選択肢が事実上存在しなくなりました。長野新幹線、東北新幹線の開業後に並行在来線を引き継いだ事業者と比べても、今回在来線を引き継いだ事業者のお粗末さは目に余ります。
このような不誠実な事業者が出現したのは、新幹線偏重の歪んだ国策の後始末を各県に丸投げしたことの弊害でしょう。いずれは敦賀から根こそぎ切り捨てられる北陸本線の運命を考えても、県境で分断された路線を一元管理する仕組みを作らなければ、日本海縦貫線という列島の骨格をなす大幹線が、文字通り骨抜きになってしまうと思うのですが。そのような危機感がどこからも感じられないのは嘆かわしいばかりです。

・早春の会津を行く 2015(3/21-22 2日間)
北陸に通い詰めた日々が終わり、早春の年中行事の一つである水戸と会津にまたがる小旅行の順番がようやく巡ってきました。しかし、結論から言えば今一つの活動でした。
まず、往路に寄った偕楽園ではこの年も快晴に恵まれ、「籠太」と「麦とろ」をはしごした会津若松の夜も上々でした。何がまずかったかといえば汽車旅を選択したことです。このような選択になったのは、それまで北陸詣でに追われ、冬場に訪ねるつもりだった福島、山形、仙台に全く手が回らなかったことから、ついでにさらってしまおうと思い立ったことによります。そのためには車ではなく列車によるしかなかったわけです。しかし結果としては、水戸から乗った水郡線は単なる移動の域を越えず、わざわざ乗るには値しない代物でした。翌日も福島、山形、仙台の全てを掛け持ちするのは時間的に厳しく、福島と山形の両都市に短時間滞在するのがせいぜいでした。何かにつけて中途半端な形となった上に、東北の汽車旅はつまらないという当たり前の事実を再確認する結果となり、帰りの列車では空疎感が残ったのを覚えています。
この旅から帰ったところで都内の桜が開花し、その後は二週にわたり近所で花見をする週末でした。次なる旅は四月中旬の信州となります。
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