1936年10月5日は日本人初のヒマラヤ登頂を立教大学登山隊が成功させた日らしい。
隊長は、堀田弥一氏1909年生まれで健在とか。
92歳の時、講演の中で「登山というのは頭の中で抽象的に考えるんじゃなくて、自分で具体的に計画し体験してそして体で覚えていく、それが大切じゃないかと思うんです」と述べられています。
私たちはとてもまねの出来ない世界ですが、低山でも同じことが言えるのではないでしょうか。
真剣に考え計画して楽しく安全に遊びながら、体に覚えこませていきましょう。
ちなみに、日本の女子登山隊のヒマラヤ初登頂は1960年だそうです。
今でも大変なのに、この時代にどんな苦労をして登られたのでしょうね。
改めてみんなで
隊長は、堀田弥一氏1909年生まれで健在とか。
92歳の時、講演の中で「登山というのは頭の中で抽象的に考えるんじゃなくて、自分で具体的に計画し体験してそして体で覚えていく、それが大切じゃないかと思うんです」と述べられています。
私たちはとてもまねの出来ない世界ですが、低山でも同じことが言えるのではないでしょうか。
真剣に考え計画して楽しく安全に遊びながら、体に覚えこませていきましょう。
ちなみに、日本の女子登山隊のヒマラヤ初登頂は1960年だそうです。
今でも大変なのに、この時代にどんな苦労をして登られたのでしょうね。
改めてみんなで
出来るならば、寡黙でその世界と一体となり、木霊と友達になりたいと願っています。
男は寡黙がいい
人によるかな~
そもそも、今や恒例となりし、お祭り的イベント、「六甲山縦走大会」の草分けはこの文太郎さんではなかろうか?と思っているのですが、博学な方あらばご教示下さい。
思いを馳せれば50年余も昔、頼る標も無く、踏み跡とて定かではなかったであろう六甲山脈を、単独で縦走する氏を思い浮かべる時、その不屈の闘志の中に単独行者の悲しみを知らされます。
「街のフクロウ」さん一同は、来月はいよいよ出撃ですネ。
チラチラする「駅裏灯り」と、同じ縦走路に懸けた文太郎の想いを糧に、元気よく完走して下さい。
私なんか何にも知らなかった。
調べてみた驚いた。彼は但馬は兵庫県美方郡新温泉町(旧美方郡浜坂町浜坂552番地)の生まれで、就職して須磨に住んでいた、そのため六甲に登る環境化にあったそうで、おっしゃるとおり六甲縦走を最初に始めた人物らしい。でも、すごく足が速く早朝に須磨を出て六甲全山縦走して宝塚に着きその日の内に須磨まで帰ったんだそうですね。
地下足袋を履いて、100Kmもの整備されていない道を1日で歩くなんてほんと~にすごいですね~。
長田の家の庭ではビバークの練習。
レーションは油紙に包んだ、目刺しと甘納豆。
実家での結婚式にも、神戸の和田岬から、観音山まで、歩き。
冬季の北鎌での遭難は、悔しい限りなり。
これからも、明るく元気に過ごしましょう。
その為のハイキングも、みんなで楽しくやりましょう。