曠野すぐりBLOG 「小説旅日記」

「途中から読んでも内容の分かる連載小説」をいくつか、あと日記を、のんびりと載せていきます。
 

小説・つなちゃん(29)

2013年03月22日 | 連載小説
《大学時代に出会った、或る大酒呑みの男の小説》
 
 
(29)
 
 
土曜の晩の呑み会で少々二日酔い気味だったが、ぼくは翌日曜日、場外馬券場に向かった。行ったついでに2、3レースやって帰ることもあったが、その日はとんでもない大雨だったので、昼頃、馬券だけ購入するとすぐに引き返してしまった。
ところで、競馬を長年やっていれば心に残る馬の1頭や2頭はだれでもいるだろうが、おそらく多くの人は自分が競馬を始めた頃の馬を挙げるのではないだろうか。始めた頃は最も刺激を受けやすいし、始めた頃に印象に残った馬がいたからこそ長く競馬に携わるようになった、ということもある。
ぼくが心に残っている1頭は、まさに始めた頃の馬。サクラホクトオーという馬で、その弥生賞に圧倒的な一番人気で出走していた馬だった。
サクラホクトオーはデビュー時からダービー候補筆頭のスターホースだった。兄がダービー馬で、GⅠの朝日3歳(当時はかぞえ年だった)を勝ってデビューの年は無敗。どのレースも危なげなく、迫力を感じさせる勝ち方だった。明けてクラシックの王道、弥生賞に出てきたのだが、これでは1番人気は当たり前というところだ。
我々昨晩の呑み会検討陣は全員サクラホクトオーからの馬券。年が明けてから呑みの場で競馬の話をすると、必ずと言っていいほどこの馬の名が出るほどだったので、クラシックロードはこれで間違いなし! という刷り込みがされていた。前日の呑み会でも当然、雨が降ろうが鉄板、と新聞見ながら皆で言いあっていたのだ。むしろどれくらい強い勝ち方をするかが焦点だった。
しかしこの弥生賞、台風並みの豪雨のせいでメチャクチャなレースになってしまったのだ。
雨はレースのときまでやまず、馬場はまるで田んぼのよう。テレビでもよく観えない。4コーナーでコースアウトする馬もいたほどだった。
鋭い末脚が武器のサクラホクトオーは2けた着順の大惨敗。勝った馬は重馬場が得意だったらしく、皆が苦労する泥んこ馬場をまっすぐ走り、こういう王道のトライアルレースには珍しく2着との着差は大差。それでもコースの平均タイムより5秒以上遅かったと記憶している。
ぼくを含めて馬券は全滅。たしかにハズれたことも残念だったが、なによりも我々にとっての最大の話題馬、ホクトオーに土がついたことがガッカリだった。
 

小説・つなちゃん(28)

2013年03月21日 | 連載小説
《大学時代に出会った、或る大酒呑みの男の小説》
 
 
(28)
 
 
試験期間も終わって大学が春休みに入ったので、ぼくは心おきなくT産業のアルバイトに専念した。
学期中であれば、夕方から大学に行かなければいけない。アルバイトから帰って、着替えてあらためて出かけるというのは実に億劫だし、90分の授業を2コマというのも朝6時半に起きて肉体労働をする身には負担だ。さらには時おり、校内で会った友人と、ちょっと呑んで帰るかということにもなる。だからアルバイトはどうしても、ある程度に、ということになってしまう。しかし休みの期間中であればアルバイトに全力を注げるのだ。
ぼくは残業も連続でこなした。定時が朝8時から夕方5時までで、残業をすると夜の10時まで。拘束時間14時間というのは長くてたいへんに感じるが、一旦帰って出かけるのに比べれば移動の面倒がない分とてもラクだ。自分に合った雰囲気のいい職場だし、残業時には友達も来て、通常業務時間よりのんびりしたムードとなる。だから残業は苦にならなかった。やってもやらなくてもいいという気楽な立場というのも、ラクに感じた一つの要因だったかもしれない。そのうえ、年明け社長が来たときに、トラックに荷積みをしているぼくのところに寄ってきて時給を100円上げようと言ってくれた。なんの前置きもなくいきなりだったので驚いたが、そんなことをしても差し支えないくらい好景気の時代だったのだ。しかしなんといっても大学生に100円アップは大きい。残業時は2割5分増しなので125円アップということになる。これなら残業もやりたくなるというものだろう。
3月になって、さすがに真冬よりは寒さがやわらいできた。そうなると呑みに行こうということになる。なにしろその時期ぼくはT産業に居ついていたので、河瀬や社員の呑み仲間たちと、パッと話がまとまる環境なのだ。当時の週末など、呑みに行くのが当たり前というような状況になっていた。
その頃は、別棟の加部ちゃんという男も呑みの場に加わるようになっていた。クールで、淡々と日本酒を呑む働き盛りの男だ。加部ちゃんも競馬好きで、しかも我々のなかでは的中率が高かった。
本社のシマさんの声掛けで、我々は弥生賞の前日に集まろうということになった。検討しながら酒を呑もうというのだ。
シマさんは娘の名前が弥生ということで、このレースへの思い入れは格別だ。毎年、しっかり検討した馬券の他に、弥生にカケて8枠、4枠、1枠を三つ巴で各千円買うという。
弥生賞前日の土曜夜、ぼくたちは雨の中、予約を取った呑み屋のある最寄り駅に集まったのだった
 

小説・つなちゃん(27)

2013年03月19日 | 連載小説
《大学時代に出会った、或る大酒呑みの男の小説》
 
 
(27)
 
 
年明けの大学は試験の時期で、夜間の学生でも昼すぎから授業を取れる土曜日はT産業を休んでいた。
とある金曜日、ぼくはつなちゃんに、翌日は馬券の払い戻しがあるから午前中に場外馬券場に寄るけど買うか聞いてみた。真冬の、重賞も何もない土曜日である。しかもつなちゃんは土曜日が勤務なのでレースを観られない。ぼくとしてはなんとなく話のついでとして声をかけただけだった。
しかしつなちゃん、グルッと工場内を見回すと、「5レースの枠連3-8を500円」と言って500円玉をこちらに渡した。ぼくは忘れないようにメモ用紙に書いて財布の当たり馬券を挟んだ。こうすれば絶対に買い忘れない。
こんないい加減、当たるわけないじゃんかと思いながら、土曜日の午前、場外で自分の分と合わせて買って学校に向かった。
そして夕方の休み時間に公衆電話でレース結果を聞くと、なんとつなちゃんの馬券が的中している。しかも配当が40倍とくる。こんなこと程度でびっくりしたくはなかったが、正直なところすごくびっくりした。いやぁ、あんな簡単に当たるものなのか、と。なにしろ新聞も見ないで当てずっぽうに番号を言ったまでだ。その日の第5レースは障害戦だったが、つなちゃん、それすらも知らなかったろう。まともに検討して買うのがバカバカしくなる。
ぼくは工場の残業時間まで待った。残業時間中はプレス棟の社員が電話を取ることになっていて、その日の残業はつなちゃんと小池君で、つなちゃんが取ると分かっていたからだ。当たったことを伝えたらなんと言うか楽しみだった。
当時は携帯電話がないので、またまた公衆電話のボックスに入って受話器を取った。テレホンカードを入れて番号を押そうとするとカードが反対だったようで勢いよく吐き出された。おのれ、機械のくせに! と腹を立てながら入れなおす。
「あ、つなちゃん、馬券当たって2万になったぜ」
ストレートに伝えると、まったく予想通りの言葉が返ってきた。それは以下のとおり。
「やっぱり! 俺ね、ピーンと来たんだよな。当たると思ってたよ。じゃあ今晩行くか。畑野10時までに帰ってこられるだろ」
ぼくは9時に授業が終わると早足で駅に向かい、帰っていった。そして自分の最寄り駅を通り過ぎると、団地の近くの居酒屋に一足先に到着して、座敷で一人、ビールを呑んで待った。
すぐにつなちゃんと河瀬が来て、カンパイ。払い戻しはしていないが、つなちゃんが手持ちの金から奢ると言う。つなちゃん、こういうところの気前は本当にいいのだ。
「で、つなちゃん、なんであれ買ったの?」
ぼくが聞くと、
「いやぁ、畑野が聞いてきたとき、プレス機見たら3番と8番が電機かかっててさ、5番が型の取替えだったから」
「マジかよ~。それで当たっちゃうの?」
「でもいいじゃんか。そのおかげでタダ酒呑めるんだからよ」
そのとうりなのだった。
寒い日だったがもちろん終電までに切り上げることなどなく、ぼくはその晩も歩いて帰ったのだった。
 


小説・つなちゃん(26)

2013年03月17日 | 連載小説
《大学時代に出会った、或る大酒呑みの男の小説》
 
 
(26)
 
 
作業内容こそ単純だが、プレス棟にはさまざまな危険が溢れていた。
まずはプレス機。プレスをかけるときには高圧電流を流すので、うっかり触れば大やけどで、ヘタをすれば電気ショックで死んでしまうことにもなりかねない。実際プレスをかけているときに蛍光灯を機械に寄せると点灯するほどだ。
そして糊付け機。これは糊を固めないために常にローラーが動いているので、手でも巻き込まれたらひとたまりもない。昼前と終業前に機械を洗うのだが、ローラーは水をかけながらブラシを当てて汚れを落とす。ごくまれにうっかりブラシが巻き込まれてしまい、ローラーにはさまれてとんでもなく変形してしまう。これが手だったらと思うと、ゾッとしてしまう。
工場内はいろいろ置いてあるので決して広いとは言えないのだが、そこをフォークリフトが走る。重い物を持ち上げても大丈夫なように設計してあるフォークリフトは、もし轢かれるなら乗用車の方がマシだろうなと思えるくらい重量感のあるものだ。
ベニヤを切る大型の電動ノコギリはコンセントをはずしておくのだが、使用した人がスイッチだけ切ってコンセントをはずし忘れていることが時おりあった。うっかりスイッチを入れてしまったら大惨事になりかねない。
さらには積まれているベニヤ板や凝固液の詰まっているタンク、在庫の束などもバカにできない。突風やフォークリフトの接触などで倒れてきたら、間違いなく圧死だ。
それらの危険に加え、ぼくは配送も担当していたのでトラックの運転という危険もあった。車は2トンロングと1、25トンの2つで、もちろん大きいロングも怖いのだが、中途半端な1、25トン車が意外にも怖かった。バランスが悪いからか、ちょっとの段差でもかなり跳ねるのだ。本社や在庫置き場に行くにはどうしても街道や国道を通らねばならず、流れに合わせるように多少スピードを上げなければならない。そんなときに道路の穴やキャッツアイなど踏むと、まるでバウンドするかのようなのだ。ぼくは舌など噛まないように、グッと口を結んで運転していた。
こんなにも危険に溢れた職場だが、働いている当時はそんな実感がなかった。けっこう平日の夜も酒を呑み、二日酔いで出勤したことも多かった。
 

小説・つなちゃん(25)

2013年03月16日 | 連載小説
《大学時代に出会った、或る大酒呑みの男の小説》
 
 
(25)
 
 
朝、古くなってくぐもった音の始業ベルが鳴り、ぼくたち作業員は寒い寒いと言いながら階段を降りる。そして本棟とプレス棟の間のスペースに散らばり、これまた古くなって極端にくぐもった音のラジオ体操で体を動かす。
張り詰めたような冷気。暖かみをまったく感じさせない日差しが、工場の建物の間にかろうじて注ぎ込む。そんななかのシラける、旧式の集団行動。ぼくは毎朝このいっときを、ソ連の小説によく出てくる収容所のそれになぞらえていた。しかし現実は世界有数の高額の時給をもらい、パッと辞めて職場を移るのが自由な身ということで、収容所とはまったく違うのだ。
体操が終わると連絡事項があり、めいめい配置に散る。ぼくは急ぎの配送がなければ、プレス棟だ。
まずは糊作り。バケツに半分ほど凝固液を入れて、小麦粉を柄杓で2杯。それを攪拌機で混ぜる。クリーム色の糊が出来上がりだ。それを糊付け機に流す。ローラー2つが向かい合うようにまわっているところに、はねないようにゆっくりと垂らす。ミキサー車の生コンの如く、動くローラーの間で糊は固まらずに留まってくれる。
そのローラーの下の隙間にベニヤ板を流すと、全体に糊が薄く付いて出てくる。受け取り手が板を重ね合わせていき、5枚合わせると完成。それをプレス機に運んでプレスにかける。8台すべての分を作ったら、今度はそれぞれの台のストック作り。2つくらいずつ作っていく。全部のストックを作った頃には糊がなくなり、2杯目を作る。そしてまたストック作り。そんなこんなで、始業時は寒さを忘れるくらいバタバタする。仕事にはこういう時間が必要で、ヒマだから楽だというわけでもない。ヒマだと時間の経過が遅いので、余計に疲れてしまう。