曠野すぐりBLOG 「小説旅日記」

「途中から読んでも内容の分かる連載小説」をいくつか、あと日記を、のんびりと載せていきます。
 

小説・つなちゃん(24)

2013年03月14日 | 連載小説
《大学時代に出会った、或る大酒呑みの男の小説》
 
 
(24)
 
 
冬の工場は本当に寒い。ぼくは寒さが深まるにつれ、どんどん着込んでいった。
まずは秋になり、Tシャツの上にネルシャツを着るようになった。ぼくは当時チェックのネルシャツ愛好者でたくさん持っていたので、古くなって毛羽立ったものを数着、仕事用におろした。さらに寒くなると、ネルシャツの上にトレーナーを着た。作業服はツナギで全体的にゆとりがあるので、着込んでも窮屈でなかった。むしろ隙間が開いて寒いので、着込んで隙間を埋めなくてはならないのだ。
靴下をアウトドア用の厚手のものにして、首のまわりにタオルを巻くようになった。手首の部分がゆるいのでリストバンドをした。そしていよいよ寒さが本格的になると、Tシャツを2枚重ねて着た。気休め程度だが、今のように保温に優れた新素材などないので仕方がない。靴下だって2枚重ねたかったのだが、こちらは安全靴にあそびがないのでできなかった。
下は薄いスウェットを着た。社員は年配の人たちばかりだったので、みんな股引きを着用していた。白くてフィット感のあるそれはスウェットなどよりはるかに暖かそうだったが、ぼくはその着用に非常に強い抵抗を感じたので、うらやましくは思ったがスウェットでガマンした。
つなちゃんはぽっこりどころかぼこっと腹が出っ張っているので、あまり着込むことができないらしくけっこう薄着だった。ポロシャツっぽいシャツこそ着ていたが、トレーナーは着ていなかった。いや、着れない、だったかもしれない。それくらい腹回りが窮屈そうだった。肩とか足はブカブカなのだけど。もちろん股引きは着用していた。
河瀬はバンドマンで痩せぎすと言ってもいいくらい痩せていたので、なんとツナギの下にGパンをはいていた。それでも窮屈でないのだ。
12月のボーナス時には全員にジャンバーを支給された。ドカジャンのような、機能一点張りの冴えないかさばるものだったが、支給物なので汚してしまっても大丈夫という利点があった。ぼくは出かけるときからそのジャンバーを着込んだ。
困るのは呑みに行くときだ。工場ならともかく、街に出ると実にかっこ悪く映るシロモノなのだ。さらにはポケットがないのがとても不便だった。それに手が冷たい。作業時は軍手をしているので問題ないが、車や電車から降りてちょっと居酒屋まで歩くときなど手袋を端折るので、冷たくて困るのだ。手首の部分が広いので、ぼくはよく、昔の中国人のように左の袖に右の手首を、右の袖に左の手首を突っ込んでいた。
 

小説・つなちゃん(23)

2013年03月11日 | 連載小説
《大学時代に出会った、或る大酒呑みの男の小説》
 
 
(23)
 
 
昭和最後の有馬記念は、超実績馬が2頭、かなりの実績馬が2頭出走。それでいて小頭数。こうなれば馬券的には面白味がない。当時は単勝、複勝、枠連しかないので捻りようがないのだ。どう考えても固いだろうと、ぼくは年始の金杯に大きく賭けることにして、有馬は少し捻った馬券をちょっとだけ買うに留めた。結果は順当すぎるくらい順当におさまり、分かっちゃいるけど買えない馬券だった。今思い返すとあの350円という一番人気の配当はオイシイのだが…。
シマさんやつなちゃんからも頼まれていたが、全員はずれ。余禄も入らず仕事も忙しくということで、その年末はT産業の人たちとは呑みに行かなかった。
年が明けて5日の金杯、ぼくは勝負に出たのだがカスりもせず。荒れる金杯の格言どおりだったにも関わらず、ともに買ってない馬の組み合わせだった。
6日が仕事始めだった。寒さが厳しいなか、ぼくは自転車で向かっていった。
会社としての新年会はないので、じゃあ週末にでも軽く行くかというハナシになったのだが、昭和天皇崩御でどこも営業を控えてしまったので呑みのハナシは流れてしまった。その週は競馬も中止。唯一出掛けたのが国立リバプールへの憂歌団のライヴ。世の中の雰囲気が雰囲気だったので、まるで地下組織の集いのような感じのライヴだった。
年号が平成になって、だんだんと世の中も通常に戻っていった。競馬も行われ、まだ重賞になる前のガーネットSで中穴を当てたぼくは久々に呑みに行った。
河瀬、つなちゃんとカンパイ。その日も寒かったけど、やっぱり一杯目はビールだ。
我々は職場の抱える問題を語り合った。それは贔屓目なしでとても建設的な意見交換だったが、惜しむらくは実行に移されることのない机上の空論。ぼくと河瀬は単なるアルバイトだし、つなちゃんはあんなだし。つまりは職場の諸問題を酒の肴にしているだけに過ぎないのだ。ホントに言葉って好き勝手にどうとでも言えて、意味がないなぁ。ぼくはその当時、呑んだあとでよく思った。
 

小説・つなちゃん(22)

2013年03月10日 | 連載小説
《大学時代に出会った、或る大酒呑みの男の小説》
 
 
(22)
 
 
忘年会以後は暮れの追い込みで仕事が忙しく、呑みに行く時間と元気がなかった。大学の授業はなくなっていたし、社員と同等の勤務時間が評価されて多少のボーナスをもらったうれしさもあって、ほぼ毎日残業をこなしていたので帰ると足が棒のようだった。
12月の29日までが通常業務で、30日は大掃除だった。ぼくは配送要員でもあったので、となり町にある在庫置き場の片付け担当となった。
この在庫置き場は茶畑に囲まれた、古い大きな工場を買い取ったものだった。周囲は養鶏場と朽ち果てた木造の長屋で、人の気配はしない。ぼくはよく一人で在庫を取りに行ったのだが、いつも薄気味悪いなぁと思っていた。ずらっと並んでいる在庫から、指示された型の物を選んで取り出さなくてはいけないのだが、そのためにはまずシャッターを開けなくてはならない。このシャッターのボタンが、工場の内側一ヶ所だけで、しかも上がるまでずっと押し続けないといけないというシロモノだった。
ここに来ると、まず裏口から入って、在庫の並んでいる見通しが悪くて薄暗い通路を通って正面シャッターの裏にまわる。立てかけてある在庫はぼくより高く、窓を塞いで光はほとんど入らない。敷地は広いが見通しはきかず、妙な圧迫感がある。軽量鉄骨の安普請だからか、陽に温められたり鳥がとまったりして屋上の屋根がカツン、カーンと不規則な音を立てる。そんななか、シャッターの上昇ボタンを押すのだが、押した途端ものすごい金属の軋み音に包まれることになる。シャッターの上がる速度は遅く、外が見えるくらいまで上がるのに1分近くかかる。その間、キーキーとつんざくような音の鳴り響く工場内でじっとボタンに指を添えながら立っていないといけない。大きな音に包まれるというのは、なにかこう、体の奥底から恐怖がわきあがって来るものなのだ。
ぼくはなにか出るかなと、ボタンを押しているときに在庫の羅列をキョロキョロと見つめていた。結局一度として不審な影など見たことはなかったが、きっと霊感の強い人なら何かしら見えたのではないだろうか。それくらい、不気味さ漂う場所だった。
しかし大掃除の日は、車2台を使って数名で来ていたので気味悪さは感じなかった。着くとそれぞれ事前に言われていた作業をするために散った。
時おり2階の電話が鳴り、来慣れているぼくがその都度取りに上がった。この電話も、一人で来ているときはイヤなものだった。
クモの巣に煤に埃。ハエの死骸に錆び。とても半日では終わらないのだが、それでもやらないよりはマシというものだ。ぼくたちは朝から昼すぎまで作業をした。そして工場に戻り、遅い昼食を食べた。
午後5時、それぞれ掃除を終えて事務所に集まり、工場長の言葉で解散となった。掃除だけのその日は残業がなかったので、ぼくは久々に定時で戻っていったのだった。
 

小説・つなちゃん(21)

2013年03月09日 | 連載小説
《大学時代に出会った、或る大酒呑みの男の小説》
 
 
(21)
 
 
それから少しして、T産業の忘年会があった。
社員だけでなく、アルバイトも派遣の配送員も全員参加ということだった。まぁ忘年会くらいなら全員参加も頷けるが、すごいのは来年行われる社員旅行や株主総会も参加OKだという。人手不足が深刻なのでヘンに差を付けたことを気にされて辞められたらたいへんだし、実際アルバイト連中を参加させても気にならないくらい会社が儲かってもいた。
ただ酒が呑めるということでぼくは足取りも軽く、駅前で「1馬」を買うとT産業に向かい、そこで皆と送迎バスに乗り込んだ。
宴会場では本社の社員も本社詰めの派遣の人も一緒だったが、ぼくは配送で何度も本社に行っていたので全員顔見知りだった。
「おーい畑野、新聞は?」
社長のあいさつとカンパイが済み、会場の雰囲気も暖まってきて何人かが酌にまわりだす。さっそくシマさんがビール瓶片手に近寄ってきた。
「朝日杯かぁ。毎年固いんだよな、これ」
シマさんが呟く。横からはつなちゃんが覗き込んでいる。
「これで動かしようがないだろ」と、つなちゃん。その年の朝日杯はサクラホクトオーというダービー馬候補の大本命が出ていたのだ。
「うーん、ここはタダもらいだろうな」と、声を揃えてシマさんとぼく。
そのうち本社の競馬好きや専務、果ては滝本プレス主任まで集まってきた。この時代は忙しいがしっかり稼げていたので、社内はわりといい雰囲気だった。
せっかくなので、ぼくも酌にまわることにした。なにしろ本格的な会社の忘年会は初めてのことなのだ。
いろんな人とちょこちょこと話しながら一周するとけっこうな時間になり、お開きとなった。
2次会は貸し切ったスナック。毎年同じ店だということだった。
そこではビンゴゲームが用意されていた。仕切るのは次期幹部候補のシマさんだが、酔って陽気になったつなちゃんが前に出て行って補佐を買って出る。商品の受渡しや合いの手の言葉が的確で、彼の酒席での如才なさがなんで仕事に結びつかないのだろうと見ていて不思議になった。
そこの店で社長以下経営陣は引き上げ、酒飲み連中は3次会へと進む。ここからは自腹だ。
「はーい、次行く人こっちこっちぃ」
こういうときの音頭取りはシマさんとつなちゃん。当然ぼくと河瀬も続く。さらには意外なことに滝本主任も続いた。
なんだか議論にでもなったらヤだなぁ。いや、けっこうおもしろいかなぁ。そんな風に河瀬と話していたのだが、滝本主任はすぐにこっくりこっくりと居眠りをし出した。宴会時から全体的に疲れている印象で、仕事の張り切りすぎが影響しているのかもしれなかった。結局3次会ではずっと眠っていて、シマさんともう一人が肩を貸して、タクシー乗り場に向かっていった。「みんなもっとしっかりやれよ」とか「おれだけ動いてたんじゃ疲れちまうよ」などと呟いているのが印象的だった。
そこから河瀬、つなちゃんと4次会で盛り上がったあと、お開きとなったのだった。
 

小説・つなちゃん(20)

2013年03月07日 | 連載小説
《大学時代に出会った、或る大酒呑みの男の小説》
 
 
(20)
 
 
菊花賞の日は馬券を買ったらすぐに引き返したので、当たり馬券は手元に残っていた。
その当時のJRAの番組編成、秋のG1時は天皇賞→菊花賞→エリザベス女王杯→マイルCS→ジャパンカップというカタチ。競馬に興味なかったぼくでもエリザベス女王杯は名前を知ってるレースで、払戻しついでに行ってみようと考えていた。ところが、河瀬のバンドメンバーでぼくとも友達だった飯野が一週延ばせと言ってきた。彼も競馬を始めたばかりで、府中に行ってみないかと言うのだ。せっかくの誘いなので飯野の都合に合わせ、ぼくはエリザベス女王杯を見送ることにした。なに、一週くらい見送ったって、当時の馬券の払い戻し期限は太っ腹の一年間なのだ。
マイルCSの日は雨の降る日で寒かった。せっかく競馬場に来たというのに、ぼくたちは実際のレースは観ず、スタンド内でモニター観戦していた。
東京メインのアルゼンチン共和国杯はガチガチの本命馬券でカスりもしなかったが、マイルCSが一点で的中。サッカーボーイがぶっちぎって後方からホクトヘリオスが追い込み、枠連で千円弱と、実績上位馬の組み合わせにしては意外な高配当。それもこれも人気を集めた逃げ馬ミスターボーイが凡走してくれたからだ。ぼくはさらに財布を膨らませて府中をあとにした。
その日は車で来ていたので地元に戻って車を置いて、呑みに出た。飯野が一緒だったので河瀬は誘ったがつなちゃんは誘わなかった。
調子付いたぼくは、飯野と一緒に翌週のジャパンカップも行くことに決めたのだが、その週中、本社のシマさんがぼくの的中話を聞きつけて連絡してきた。土曜の晩にジャパンカップの前夜祭をやろうというのだ。シマさんは第1回のジャパンカップから観ている、長年の競馬ファンだった。
土曜の晩に集まったのはシマさん、ぼく、河瀬、つなちゃんだった。場所はいつも行っている団地のそばの居酒屋。シマさんは河瀬やつなちゃんと同じ市内在住なので、都合がいいのだ。
帰りも楽となればトコトンコースで、結局ぼくが家に帰りついたときは秋も深まっているというのに空が少々明るくなっていた。ちょっと眠って飯野と府中に向かったが、まったくもってヨレヨレだった。車が運転できるはずもなく、当然電車。立川から南武線がとっても長く感じた。
ぽかぽか陽気で4コーナーの芝生に持参したマットを敷いたが、しばらくは馬券も買わずに横になっていた。その日、黒のGパンを履いていたことを覚えている。11月最終日曜日だというのに、黒い服装で失敗したと思うくらい日差しが強かったからだ。