曠野すぐりBLOG 「小説旅日記」

「途中から読んでも内容の分かる連載小説」をいくつか、あと日記を、のんびりと載せていきます。
 

小説・立ち食いそば紀行  うどんとそば(2)

2011年10月27日 | 立ちそば連載小説
 
《主人公の「私」が、各地の立ち食いそば屋を食べ歩く小説です》
 
 
うどんとそば(2)
 
しかしここまでそばにこだわる私でも、三鷹駅の彩花庵でだけはうどんを食してしまう。
この彩花庵、うどんは武蔵野うどんの形態で、確固たる信念が伝わってくる。もちろん味もよいのだが、私としては信念がまず好きだ。武蔵野うどんとはつけ汁タイプのうどんで、肉とネギが入ったこってりタイプの汁が大きな特徴だ。麺はこしがあり、乱切りで太さがマチマチというのが多摩北西部に点在する武蔵野うどん店の一般的なものだが、彩花庵はさすがに駅そば店なので麺はほぼ揃っている。
 
その日私は改札外から店に入った。ここは改札内外に入口があり、店内は半分ずつに仕切られている。こういう店のカタチをなんというのだろう。セパレートタイプとでも言うのだろうか。私は個人的に番台型と言っている。
 
私はこの日も武蔵野うどん。以前は意地を張ってそばを食していたのだが、周りがすべてうどんだったので試しに食してみたところ、ファンになってしまったのだ。
食券を渡して席に着く。武蔵野うどんは券売機にボタンが別途あり、食券にも記載されている。だから一声発しなくて済む。これもまた武蔵野うどんの魅力のひとつだ。
 
呼ばれて取りに行き、席に戻る。つけ汁に七味を入れたのち、私は麺を持ち上げた。
そして、つけ汁に。ここで武蔵野うどんの特徴が出る。具が多すぎて麺が沈まないのだ。あたかもチチカカ湖に浮かぶ葦の浮島のように、乗せた物を容易に水没させない。
私は麺を押して無理に沈め、汁に充分からませてから具と一緒にすくい上げた。なにしろ具がたっぷりなので、最初の一口目から具も一緒に食していっても大丈夫なのだ。
太くてこしがあるので、一本ずつ食していく。豚肉、ネギ、きのこの具はバランスが絶妙で、さして意識しないで食べ進んでも均等に残る。
 
となりに座った男はそばを食している。彼、人生をちょっと損しているなと私は思う。
麺をすべて食べ終えてもつけ汁の中に具が残っている。それを片付けたあと、つけ汁をきれいに飲み干した。
 
非常に満ち足りた気分になった私は、盆を返却して三鷹駅へと出て行ったのだった。
 
 
(うどんとそば・終わり)
 
 

小説・立ち食いそば紀行  うどんとそば(1)

2011年10月25日 | 立ちそば連載小説
 
《主人公の「私」が、各地の立ち食いそば屋を食べ歩く小説です》
 
 
うどんとそば(1)
 
立ち食いそば屋に入って食券を差し出す。黙っていれば当然、
「お客さんどちらで?」
と訊かれる。そばかうどんかという意味だ。(忙しいので「お客さん」と「どちらで?」はつながっている) そう訊かれるのが分かっているから、客は券を差し出すと同時にどちらかを表明する。
 
しかしその声、聞いていると分かるが、実に偏っているのだ。
「そば」
「そばで」
「そばの方ね」
「そばお願い」
など。十中八九そばだ。たまにうどんの客でもいれば、その声に客の視線が集まったりする。
 
これだけの偏りを見せているのだから、いっそ基本はそばにして、食券に明記してしまえばどうだろう。うどんへの対応は券売機や差し出し口などに、
「うどんの方はお声かけください」
とでも書いておけば事足りるはずだ。

だいたいにおいて、一声発するというのは店が思っている以上にコトなのだ。最近一部コンビニやスーパーなどで
「ポイントカードはお持ちでしょうか?」
と訊かれ、いらぬ一声を強要させられることが多い。そんなレジからの不意の呼びかけにかすれ声や上ずった声で対応して恥ずかしい思いをした者は一人や二人じゃあるまい。私もそうだ。呑んだあとなど言葉が詰まってしまうこともある。
そばと記載している食券を使用している店舗があったら、多少味が落ちても私は通う。
 
だいたいにおいて、立ち食いとはそばのことなのだ。駅構内にある立ち食いそば屋を「駅そば」というが、それ、けっして「駅うどん」とは言わない。「駅うどん」など文字ならともかく会話の中で出されたって、意味不明だろう。
「昨日食ったエキソバが絶品でさぁ」
が、
「昨日食ったエキウドンが絶品でさぁ」
だ。これではまるでエスニック料理じゃないか。
「スタンドそば」だって「スタンドうどん」では語呂が悪い。「ド」と「う」の相性が良すぎてくっついてしまうのだ。
 
こういった点から見ても立ち食いとはそばであることが分かる。だから私は必ずと言っていいほど、そばなのだ。
 
 
(うどんとそば・つづく)
 
 

小説・立ち食いそば紀行  新宿の西口から…

2011年10月24日 | 立ちそば連載小説
 
《主人公の「私」が、各地の立ち食いそば屋を食べ歩く小説です》
 
 
そばすすりあう街を見ていたわけです、私は。春夏秋冬、ずっと。
 
で、新宿の西口で寄る店といえば、「梅もと」となるわけです。
休日にうろつくことが多い神保町界隈には「梅もと」が2軒もあるのだが、その地で入ったことは一度もない。なにしろ立ち食い激戦区で、どうしても他の魅力的な店に入ってしまうからだ。ところが新宿西口、それも地下通路には「梅もと」しかない。選択の余地がないわけだ。
 
その日私は昼を食べ損ねて極度の空腹状態だった。それもまた、天ぷら中心の「梅もと」に心が傾いた理由のひとつであった。私は天ぷらの数々を頭に思い浮かべながら、地下を進んでいった。しかし店の前まで来ると急に心変わりを起こし、店頭の券売機でコロッケそばのボタンを押した。ここのコロッケはカレー味で、空腹時にカレーという文字はひときわ魅力的に映ってしまう。
 
受付に「そば」と言って券を差し出す。さすがに人が溢れる新宿の店舗だけあって、調理場は広く、8人が慌しく作業をしている。単価が500円程度の食い物屋、それも昼食時からだいぶずれているというのに、8人という店員数は多すぎるように感じる。しかし誰一人としてボケッとしている者はなく、皆きびきびと作業に当たっていた。ある者は麺を茹で、ある者は天ぷらを揚げ、ある者は洗い物をする。立ち食いファンとしては、ずっと見ていたい心揺さぶる光景だ。
 
しかし至福の時間というのは短いもので、私のコロッケそばがすぐに呼ばれてしまう。作り置きのコロッケをどすんと乗せるだけのコロッケそばにギミックは少なく、極めて短時間でできあがってしまうのだ。
私は水を汲んで盆に乗せ、4人掛けの角に着席した。対面には女性がいたが、衝立が互いの姿を隠し、落ち着いて食することができる。
 
そばの上にはコロッケと少量のネギ。シンプルな表面に迷彩をつけようと、私はコロッケをいくつかに割った。カレーパウダーの脂が広がり、全体に濃厚な雰囲気になる。
 ――よし、これでいい。
私は七味を振ったのち、食べ始めた。
「ラーメンのお客様は麺を茹でる時間が3分ほどかかります」
先ほどから受付の女性の声が何度も響いている。それだけラーメンを注文する客が多いのだ。少し待ってでも食べたいという客が多いということは、おそらくなかなかの味なのだろう。一度食べてみる必要がありそうだ。
 
それにしても立ち食いそばの店でラーメンが人気とは。私は選択を、それも店の選択を誤ったかという思いを胸に、食していったのだった。
 
 
(おわり)
 
 

小説・立ち食いそば紀行  東京競馬場(2)

2011年10月20日 | 立ちそば連載小説
 
《主人公の「私」が、各地の立ち食いそば屋を食べ歩く小説です》
 
 
東京競馬場(2)
 
その日はまだ秋の開催も始まってなく、日曜でメインに重賞が組まれていたものの、さほどの混みようではなかった。
私は正門から入り、広い敷地の中、さてと考え込んだ。競馬場内にはいくつもの立ち食いそば屋があり、どの店舗にしようかと悩んだのだ。
 
とりあえず馬券を買う。モニターでオッズを観ながらマークカードを塗りつぶし、発売機にお金、カードの順に挿入し、吐き出された馬券とお釣りをポケットに押し込む。そしてスタンドの空いているイスに座り、レースが始まるまでぼんやりと馬場を眺めていた。
レースは私が軸にした1番人気が順当に勝った。私は気分よくそばを食べられるよう、配当は無視して送りバントのような手堅さで人気馬から流したのだが、2着に人気薄が入り、総流しのおかげで高配当を当てることができた。
――やった、ホテルオークラか! 神田川か! winか! 鳥駒か! 
普段は寄らない高級店が一瞬よぎる。でもそれでは、なんのためにここまで来たのか分からない。私は浮気心が肥大する前に立ち食いそばを食ってしまわねばと思い、最も近いスタンド4階の「馬そば」に駆け込んだ。
 
パドックを見下ろす場所にあるこの「馬そば」の味はなかなかで、競馬場という立地を考えればじゅうぶん合格点だろう。メニューも多い。
席がなくて、立食用のテーブルがいくつかあるのみだ。立って食べるという本日の目的に適っている。私は当たって少々気が大きくなっていたので、温玉も入って見た目が最も豪華に見える、牛すじカレーそばを頼んだ。
お金を払ってそばを受け取った私が振り向くと、困ったことにテーブルがすべて埋まっていた。しかもそれを取り囲むように、ドンブリを持って食べている者もいる。いやぁまいった。これがかけそばだったらドンブリを持って食べることもやぶさかではないが、今回はカレーそばでドンブリの放つ熱が違う。重量もかけそばの比ではない。私は仕方なくガラス扉をスライドさせて表に出て、石段に座り込んだ。
 
ここでも座って食することになるのか、という残念な気持ちのなか、箸を割って一口目をすする。カレーに囲まれて伸び気味のそばが喉を通っていくと、体の中を熱い物が落ちていく感覚があった。
座っているのでパドックは見えないが、電光掲示板は見える。そこには先ほどのレースの配当金も出ていて、それを見た私は残念な気持ちがスッと吹き飛んだ。それに、べつに席に座っているわけじゃないのだ。地べたに座っているようなものなのだ。
 
カレーと言ったらうどんでしょ、と邪道扱いする者も多いが、私はけっこうカレーそばが好きだ。もちろん麺は伸びてしまうので一般的でないことは承知している。しかし好きなのだ。
この日も私は汗をかきながら短時間で平らげてしまった。私は立って中に入り、ドンブリを返却すると払い戻し窓口に向かって行ったのだった。
 
 
(東京競馬場・おわり)
 
 

小説・立ち食いそば紀行  東京競馬場(1)

2011年10月20日 | 立ちそば連載小説
 
《主人公の「私」が、各地の立ち食いそば屋を食べ歩く小説です》
 
 
東京競馬場(1)
 
立ち食いそばと一般的に言うものの、今やその種のそば屋で立って食べることは非常にむずかしい。十分なスペースの中にイスが並んでいる店舗の方が当たり前と言ってもいい、昨今の立ち食い事情なのだ。
正直なところ、「立ち食いそば」という言葉は「簡易そば」と直した方が現状に即している。しかし庶民レベルの言葉はそうそう変わるものではない。今でも普通の会話では「看護師」ではなく「看護婦」なのだ。だからいかに時代が進んでイスが浸透していったとしても、立ち食いは立ち食いである。
 
それでも広い立ち食いそば界のこと、今もって「立ち食いそば」という言葉通りの場所がある。それは、ギャンブル場だ。駅前やビジネス街にいくらイスが増殖していこうとも、ギャンブル場ではそうやすやすと客を着席させない。客にぞんざいだと言ってしまえばそれまでだが、気骨があるという捉え方もある。私は後者を取ろう。
 
私は久しぶりに、ぞんざいに扱われてみたくなった。いや、気骨を感じてみたくなった。思えば少し、自分自身思い上がっていたフシがある。座って食べるのが当然という意識になっていて、やれ席が括りつけだのテーブルの下のカバン置きの棚が狭いだの、ずいぶんわがままになっていたものだ。人間とはなんと欲深いことだろう。
そこで原点回帰として、私は東京競馬場に出向いたのだった。
 
 
(東京競馬場・つづく)