内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

注意の執着

2008-09-24 19:11:00 | 森田正馬先生の本
 『神経質患者が、夢が多いといったり、一定の強迫観念が絶えず念頭に現れるというのは、単に注意の執着による意識の関係から説明することができる。』(神経質の本態と療法 p.48)

 『強迫観念も、まったくこれと同じで、不潔なり赤面なり、これと同様の感想は、普通の人でも同じく出没しているけれども、常人は日常生活における精神流転中にすぐ忘れ、またはまったく意識するかしないで、新しい刺激の方に意識が変転してゆくから、これに懸念している暇がないのである。』(p.49)

 『神経質患者の頭重、不眠または強迫観念などのようなものは、すべてもともと常人の普通の感覚、感想が、患者のみずから病的なりとする誤った考えによって、自己暗示的に固着したところの信念である。つまり患者は注意をこれに固着するとき、周囲に対する注意の自由自在な活動を失って、無意識的注意となったものであって、患者はこれに執着して、まったくこれを事実と信ずるようになったものである。』(p.47)

 多くの人には意識にも上らないようなことでも、注意の執着があると意識されてしまうというのが森田先生の説明だと思います。

 『たとえば病児を抱き寝している母親は、その子が少しセキをしても、たちまち目をさますけれども、雷の音には、かえって覚醒しないようなものである。しかしこれは、雷の音にさめないのではない、ただ注意の圏外に脱出して、すぐ忘れるからである。』(p.43)

 ということは、注意の執着がなくなったら、つまり症状が「注意の圏外に脱出」してしまったら、精神交互作用は成り立たなくなる、ということ。

 たとえば、何かに夢中になっているような時などは症状については忘れてしまっている。あるいは、いろんなことに注意が向けられているような場合にも、注意の執着がなくなっている。

 『このように常に新しい内外刺げきの変化に応じて、いわゆる知情意の四角八面の連合作用が発動し、さらにその観念、気分および活動は、ただちに刺激となって、絶え間ない精神の活動、流転となるのである。しかもこの変転は、意識または無意識の状態のいかんにかかわらず起こることは、ちょうど昼夜の別にかかわらず、見えると見えないとにかかわらず、自然現象は絶えず変化流転して、川は流れ、動物ははっているようなものである。』(p.42)

 自然現象も、精神現象も、常に流転している。にもかかわらず、注意の執着により、ある特定の現象ばかりを意識の中に拾い集めてしまう。

 なので、最近私が意識しているのは、本来流転している自然現象、精神現象の流れを感じてみる、あるいは掃除やら洗濯やら体を動かしてみることによって、「周囲に対する注意の自由自在な活動」を取り戻そうということです。

 たとえ掃除であっても、それに集中した瞬間があったなら、その一瞬の間は全治しているということが言えるのだと思います。ひとつひとつの行動を大切にしてみること。その小さな行動が常に全治への道へとつながっていると思うのです。