内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

生家

2008-09-23 15:44:37 | 日々の出来事
今日は自分の生まれ育った所にひとりで行って来ました。ずっと行きたかったのですが、なかなか時間が取れずにいたのです。
 私が生まれた時に住んでいた家はすでになくなり、跡地には高いビルが建っていました。となりの古いビルがなかったら、そのまま前を通りすぎて気づかなかったかもしれません。
 周辺は当然のことながら、ずいぶんと変わってしまっていました。よく買いに行ったパン屋さんも、家族でよく食事に行っていたレストランも駐車場になっていました。
 その足でよく遊んだ公園へ。家から公園への道ってこんなに短かったっけ?などと思いながら歩いていました。裏路地に入ると、まだ当時あった家も残っていたりして、すごく懐かしさを感じました。
 公園の中もずいぶん改装されていましたが、銀杏の木はそのまま残っていました。一足一足ゆっくり、その辺を歩き回っていました。懐かしさで胸が一杯でした。
 そして小学校へ。歩いていたら、「あ、学校に行くのにこの道を歩いていたんだ!」という実感がふっとよみがえってきて、その当時の出来事を思い出しました。もう数十年も前のことなのに。そうそう、この角を曲がって、学校へ通ってたんだ。
 学校自体は建て替えられていて当時のものではなかったのですが、門の位置は同じでした。**君の家はこの辺だったはず、と思って探してみると、その名前の表札がありました。今頃、どうしているんだろ。
 そして中学校へ。合併で名前が変わってしまっていましたが、建物はそのままでした。ちょうど私が入学した頃新しく立てたこの校舎も、ずいぶんと古くなっていました。
 中学生の時に引っ越したビルも見に行きました。親父が立てたビル。外装がまったく変わっていたので、最初気づかなかったのですが、建物はそのままでした。ビルとビルとの間の側面の塗装は当時のままだったので、それが嬉しかったです。「親父の建てたビルはまだ残っていたよ。」心の中で今は亡き親父に話しかけていました。このビルは、その後商売が立ち行かなくなり売ってしまったのですが。
 また次来るときには、もっと変わってしまっているんだろうな。そんなことを思いながら、帰路につきました。

精神交互作用説

2008-09-23 08:07:03 | 森田正馬先生の本
 ヒポコンドリー性基調だけでは神経症にはならない。これに「精神交互作用」が加わったときに生ずる。
 『神経質において精神交互作用説というのは、ある感覚に対して、注意を集中すれば、その感覚は鋭敏となり、この感覚鋭敏は、さらにますます注意をその方に固着させ、この感覚と注意とがあいまって交互に作用して、その感覚をますます強大にするという精神過程に対して名づけたものである。』(神経質の本態と療法 P.29)

 『さて、このように、すでにその執着にとらわれて、一定の症状を構成するようになってしまえば、患者は常にその自覚に執着し、主観の内に閉じこめられて、たとえば「鹿を追う猟師は山を見ず」というように、常に注意はそのことのみにかぎられて、他のことは見えない。』(p.39)

 森田先生はここで「執着」という言葉を使われています。この言葉のほうがわかりやすいかもしれません。
 ここでのポイントは、「主観の中に閉じこめられて」ということになるかと思います。精神交互作用でひとつのことにとらわれてそれに執着している時というのは、自分の中だけで思考がぐるぐる状態になっている。そして現実と離れてしまっている。

 私も若いとき、いつも自分の主観の中だけに閉じこもっていました。たぶん頭で考えていることの80%位は症状に対する思いとか過去にしてしまったことの後悔とかでした。今は20%くらいでしょうか。

 以下、精神交互作用についての森田先生の言葉を挙げておきます。
 『強迫観念についても、はじめは、常人にも当然あり得るような現象を、患者が自分で異常病的の苦痛と考え、恐怖を起こし、予期感動をともなうことから、精神交互作用によって、次第にその症状を憎悪させるものである。』(p.39)
 『すでに精神交互作用によって、症状が発展してしまった後では、たとえば常習頭痛であっても、めまいであっても、強迫観念であっても、患者はちょうど夢の中で、その実在を信じているように、常に主観の内に閉じこめられ、これに対する絶え間ない苦悩に悩まされるようになる。』(p.30)