つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

中国風信⑧D先生のこと-清明節によせて(『紛体技術』2014年4月号より転載)

2014-04-05 11:51:34 | 日記

(写真は上海のアカデミー) 
 4月5日は、二十四節季のひとつ清明節で、中国では故人を偲ぶ日だ。清明節にちなんで、上海の亡きD先生のことをつづりたい。
 先生と初めて会ったのは、1984年の東京である。当時、中国近現代史分野でも日中の学術交流が始まったばかりで、実績ある学者として早い時期に招かれたのだ。D先生は若い頃、日本に留学経験があって日本語が堪能で、おぼつかない中国語の私たちとも話が弾んだ。その縁で翌年、大学院生だった私は、上海での学会に初めて参加する機会を得た。会議後、自宅に招かれて先生の故郷の福建料理をいただきながら紹介された若手研究者は、のちに中国の学界をリードしていった人々だが、もう三十年近い交流が続いている。
 その後も上海に行く度にご飯をよばれて、90年代前半に子共連れで留学の機会を得た時には、夫人共々細やかに生活の心配もしてくださった。この分野の日本人研究者は、みな同様に世話になっているはずだ。温厚な先生の慈顔に接すると、まだ慣れなかった中国でもほっとした。
 D先生は、日本の大正時代にあたる中華民国の初期の生まれだ。父君は中国国民党の古参革命家で、蒋介石政権の時代には政治家として活躍した。D青年は上海で少年時代を過ごし、1930年代半ばに日本に留学して経済学を学ぶ。しかし1937年8月、日中戦争が勃発したために自主退学して帰国し、中国共産党の対日抗戦の拠点であった陝西省延安へ行って抗日軍政大学で学んだ。国共合作の抗日民族統一戦線の時期とはいえ、国民党の政府高官の息子が共産党の根拠地へ赴いたのには、強い思いがあったに違いない。
 その後、四川省や故郷の福建省で財政金融畑で働く。戦後、共産党に入党し、共産党による福建接収の時にスムーズな政権移行に活躍したというのは、人名事典からの情報だが、ご本人に話を聞いておけばよかったと残念だ。
 人民共和国成立後しばらくして上海に移り、その後は上海のアカデミーで経済学の研究にあたった。しかし1966年に文化大革命が始まると、アカデミーも混乱の中で活動を停止し、復活は1978年まで待たなければならなかった。文革では、引退していた父君は国民党関係者だということで攻撃されて世を去った。先生自身の日本留学の経験も攻撃材料となったろう。先生の働き盛りの50代は、まるまる文革で空費された。
 私がD先生の知遇をえたのは、そのような時代が過ぎて、中国が改革開放に転じてしばらくした頃だ。共産党のみの視点による歴史観から脱却して、企業家の歴史的役割の正当な評価を確立すべく、高齢にもかかわらず学界の第一線で奮闘されていた。また、戦争や文革による研究の空白を埋めるため、後進の研究者の育成や日本の研究の紹介にも力を注いでおられた。
 若き日、戦争勃発と共に留学を切り上げ、抗日の闘士となった先生の、日本に対する想いは単純なものではなかったはずだ。しかし私たち日本の若い研究者をへだてなく世話してくださったのは、きっとD青年にそのように接した日本人がいたのだと思う。何度もご馳走になった福建料理は、私には先生の思い出と切り離せない。
 90年代の中ば頃、私は旧フランス租界地区の先生の自宅近くのホテルを上海の定宿にしていた。ときどき夕食後に、夫人とともに散歩がてら訪ねてくださった。さまざまなおしゃべりとともに、編集長をしている雑誌に載せる日本の論文の翻訳について、「この訳語はこれでいいでしょうか」と聞かれたことが何度かある。若かった私になんと丁寧に接して下さったのかと恐縮するが、学問に対して真摯なお人柄のゆえだろう。
 D先生が亡くなって十年あまり経つが、先生が井戸を掘って下さった日中の学術交流はすっかり定着している。彼の地の同業者たちとの信頼は、日中の政治関係の如何に関わらずゆるぎない。