つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

中国風信24 中国で女性であるということー現代中国のジェンダー・ポリティクス(『粉体技術』8-12, 2016.12より転載)

2017-09-18 00:02:19 | 日記
 今回は、私たちのグループが最近刊行した『現代中国のジェンダー・ポリティクス-格差・性売買・「慰安婦」』(小浜正子・秋山洋子編、勉誠出版、2016年10月)という本から、中国のジェンダー研究者の最前線の議論を紹介しよう。近代以来、日本や西欧とは異なった歴史を歩んできた中国では、男らしさと女らしさの捉えられ方も、独自の変遷を辿ってきた。
 中国の近代の幕開けの時期、中国の男性知識人は、女権の実現は近代文明の指標であり、中国の富国強兵の前提条件だと考えた。男尊女卑の伝統社会で苦渋をなめてきた女性たちは、「一人の人間」としての権利を求め、男性と同じように社会で活動しようとした。
 中華人民共和国は、女性解放・男女平等を国是として掲げ、社会主義によってそれは達成されるとして女性の社会進出を進めた。ミシガン大学の王政教授は、近代以来求められてきた男性を基準とした(女性が男性並みになることによる)男女平等が極点に達したのは、毛沢東の「時代は変わった。男も女も同じだ。男の同志にできることは、女の同志にもできる」という言葉が流布した文化大革命の時期であるとする。女らしい服装は批判されてユニセックスの人民服をみなが着用し、高圧電線での作業など男性の職域とされた仕事に取り組む女性が「鉄の娘」ともてはやされた。このような社会主義中国の男女平等は、女性の地位を大きく向上させたが、一方で、家事などは相変わらず主に女性が担い続けるという二重負担(ダブル・バーデン)を伴うものでもあった。(毛沢東は「女にできることは男にもできる」とは言わなかったのだ。)
 1980年代から改革開放の時代が始まって、抑圧されていた個性や自由の追求が始まった。男女ともにファッションは多様化し、化粧やスカートも広まって、おおっぴらに女らしさも表現されるようになった。
 しかし自由の拡大は、社会主義が達成した平等を掘り崩した。経済的な格差が広がり、都市と農村の格差だけでなく男女の格差も広がった。社会主義時代、男性と大きくは変わらなかった女性の就業率も収入も、現在ではかなり差が開いていることを、南京師範大学金陵女子学院の金一虹教授は詳細に明らかにしている。(とはいえ、日本の男女格差は世界でも際だっているので、日本に比べれば差は少ない。)
 しかも、自由な市場の発達は、社会主義時代には存在しなかったセックス・マーケットの出現と成長をももたらした。現在の中国都市には、華やかなショーに登場するタレントもどきの高級娼婦から、出稼ぎ労働者が消費する下級売春婦まで、多様なセックス市場が存在している。中国人民大学の宋少鵬教授は、現代中国の権勢のある男性の男らしさは、性的な消費を含む男性としての気概として求められるようになり、一方、出稼ぎ労働者は性的な欠乏からセックス・マーケットを求めるという。前者は、高位の政治家が愛人を囲うのがおきまりの腐敗のコースとなったのはなぜかを説明もしている。中国社会が、改革開放時代に新たなジェンダー秩序を構築する-すなわち男らしさ、女らしさを定義し直す-プロセスは、まず新たなセックス化として実現し、男性間の格差の拡大と女性の収入の低下が多様なセックス・マーケットを発展させたのである。
 以上のような改革開放の進展する現代中国の男らしさと女らしさのあり方は、非常に市場化・商業化されたもので、それは社会主義時代の反動という側面も少なくない。単純にどちらがよいとはいえない変化の様子には、どのような男女のあり方が理想なのか、考えさせられるものがある。


中国風信25 上海と北京、昨今(『粉体技術』9-2, 2017.2より転載)

2017-09-17 23:49:08 | 日記
 昨年の師走、上海の大学と北京の研究所に、それぞれ短い出張で出かけた。その時のとりとめない様子などを記してみよう。
 上海では、旧フランス租界地区の、古い洋館を改修した美しいこぢんまりしたホテルに泊まった。旧市街の中でもおしゃれな場所とされているこの地区は、散歩をしていてもなんとなく楽しい。街がやや暗く、歳末の賑わいも今ひとつな感じがしたのは、中国経済が失速気味だということなのか、はたまた習近平政権の腐敗取り締まりが厳しいせいだろうか。とはいえ、この地域の消費生活はすでに成熟の域に達した感があり、ハイセンスなアクセサリー店やネイルサロンなども、さりげなく店を構えている。値段は日本と同じくらいだろうか。近くの不動産屋の看板を見てみると、150平方㍍とか180平方㍍とかいう豪華マンションが、数千万元(=数億円)の値段でたくさん出ている。賃貸マンションも日本の常識を上回る家賃で、上海の中心部に住むのはたいへんだ。
 ホテルから歩いていける場所にある上海図書館では、いつものように多くの人が勉強や調べものに余念がなかった。上海の本屋で一番品揃えがよいと文化人の間で評価が高い「季風書屋」も、地下鉄の上海図書館駅構内に移転してきて、便利になった。店内には落ち着いたカフェもあり、コーヒーを飲みながら購入した本を読むこともできる。中国では、本屋もレストランも、よい店の情況はしょっちゅう変わるので、いつも最新情報を上書きしなくてはならない。

上海の街角


 北京では、街の中心の繁華街・王府(ワンフー)井(ジン)にほど近いところに、伝統ある出版社の三聯書店の店舗ビルがあった。ここはなんと24時間営業で、深夜でも若者を中心に多くの人が訪れ、熱心に本を選んでいた。机と椅子も配置してあって、座って本が読めるようになっている。
 北京といえば、私たちが行く直前、PM2.5による大気汚染がとてもひどくて、一週間のうち三日間、学校が休みになったという(だいたい夏よりも冬、南方より北方が、空気の汚染はひどい)。遠方はスモッグでかすみ、日曜日でも王府井の歩行者天国の人出はまばらだった。数日して青空が見えて「空気質指数」が良くなった日には、街をぶらつく人も増えた。人々は毎日、空気を気にして暮らさざるを得ず、雑談の中でも、PM2.5の話はたくさん出る。日本の大気汚染はどうかと聞かれて、「1960~70年代の高度経済成長期にひどくなったが、その後対策が進んで、現在はあまり大きな問題でない」と話すと、将来の改善の可能性に、友人は遠い目をした。
 中国の友人達がもうひとつ嘆いていたのは、子供の教育の大変さだ。毎日、たくさんの宿題が出て、子供たちは遊ぶ時間など全くなく、夜おそくまで勉強に追われる生活を送らなくてはならない。それは幼稚園から始まり、三才児の宿題は、「花の絵を描いてきなさい」とか「ぼんぼりを作ってきなさい」など。「三歳児がどうして一人でできる? 実質的には親の仕事で、毎日これに付き合うのはほんとに大変」と友人。翌日会った小学生のお父さんは、「パワーポイントで課題を作って、プリントアウトしてきなさいって、親が手伝うしかないだろう」とこぼす。「一人っ子政策」が「二人っ子政策」に変更になっても、そうした親の仕事をこなすのが本当に負担なので、一人で充分だという。子供が遊ぶ時間もなく勉強づけの毎日を送るのはよくない、とみな思っているのだが、周りが皆そうなので、名門大学を目ざす競争から降りられない。中国の都市の中間層の人々にとって、子供の将来へ向けての選択肢は、限りなく少なくなっているように見えた。

北京・王府井

中国風信26 琉球からみる中国-朝貢関係の虚実(『粉体技術』9-4, 2017.4より転載)

2017-09-17 23:45:06 | 日記
 今年の春は、例年のように中国ではなく、沖縄を訪れる機会があった。彼の地では、復元された首里城などを多くの中国人観光客が見学していた。今回は昔の琉球と中国との関係を考えてみよう。
 琉球国王の住んだ首里城は、何重かにめぐらした石垣で囲まれた最も高い場所に宮殿が配置されている。石垣の様子は日本の城のようだが、中心部は門を入ると四方を囲まれた中庭の向こうに朱塗りの宮殿が鎮座しているという、北京の紫禁城を彷彿とさせる造りである。日本の城にはふつうこのような中庭はなく、中国文化の強い影響を感じさせる。
 中庭は儀礼空間であり、重要な儀式が行われる。新年には文武百官が整列して、宮殿の二階に鎮座する琉球国王に拝謁して新年を祝う。他に重要なものとして、中国の皇帝から派遣された冊封使による琉球国王の冊封の儀式がある。
東アジアの海域の中継貿易で栄えた琉球王国は、よく知られているように、成立以来、明・清の中国王朝に朝貢していた。琉球からは、朝貢使節が中国を訪れて皇帝への朝貢品を差し出し、それに数倍する下賜品を賜る。琉球国王が代替わりした時には、北京から皇帝の名代の冊封使と呼ばれる使節がやってきて、「汝を封じて琉球国王と為す」と、新たな国王の地位を認定する。その際には、首里城の中庭の正面にしつらえられた台に座る冊封使に対して琉球国王は下座に立ち、皇帝からの書簡をいただく。冊封された国では、中国の暦(元号など)を使うことが義務づけられた。そこでも中国皇帝の支配する時間が流れるのであり、これを「正朔を奉じる」という(朔とは毎月の一日のこと)。これらの儀礼のあり方は、朝鮮やベトナム(大越国)など他の朝貢国も同様で、こうした儀礼的関係のネットワークによって、前近代東アジアの国際秩序が形成されていた。
ところが1609年、薩摩藩の島津家が琉球に侵攻してここを支配下に置き、琉球は徳川将軍を頂点とする幕藩体制下に薩摩藩の下属として組み込まれた。かくして琉球は、一方で中国の朝貢国であり、一方で日本の徳川幕府の支配下にあるという、「両属」と呼ばれる状態になり、それは明治初年の琉球処分によって沖縄県が置かれて琉球王国が終焉を迎えるまで続いた。
しかし一体、「両属」という二重主権のような状態は、どのようにして可能だったのだろうか。
幕府や薩摩藩は、琉球が中国の朝貢国であることは先刻承知であった。彼らは中国の役人が琉球へ来る時は鉢合わせしないように身を隠し、支配の実態を意図的に慎重に隠し続けていた。中国の使者がやって来るのは国王の代替わりの際の冊封使くらいに限られており、それは清朝の二百数十年で8回だけだったから、その時だけ彼らの目を欺けばよかったのである。
だが、たまにしかやって来ないとはいえ、冊封使らの一行は、琉球で幕府の支配の気配を感じていた。たとえば中国のものではない、日本の元号が使われているのを見つけたりする。が、彼らは気づいても、見て見ぬ振りをした。尚温王の即位に際して冊封副使として嘉慶5(1800)年に琉球に赴いた李鼎元は、日本の寛永銭や元号を見て、「琉球がむかしかつて日本に親属していたことがわかる。今、これを言うのを避けているのだ」と述べて、「今」の「事実」を直視しようとしない。(夫馬進編『使琉球録解題及び研究』参照)
前近代東アジアの国際秩序、すなわち朝貢=冊封システムとは、そのような危うい均衡によって維持されていたのである。琉球について言えば、両属であるからこそ中継貿易の基地たりえたのであり、清朝も薩摩藩もそのことにメリットを見出していたのだろう。建前を押し通すよりも、曖昧な現実が受け容れられて、東シナ海が平和な海であった時代があったのだ。

【写真】首里城の復元された中庭と宮殿

ブログ再開

2017-09-16 07:22:10 | 日記
 仕事が忙しくなって、ずっと中断していたブログを再開します。
 といっても、まあ、無理のない範囲で。とりあえずは、『粉体技術』に二ヶ月ごとに連載していたエッセー「中国風信」の転載が、ずっと途絶えていたのでまだアップしていないものを挙げていきます。二年分くらい溜まっているので、古くなっているものもありますが、ご勘弁を。

中国風信27 中国の携帯電話いまむかし(『粉体技術』9-6, 2017.6より転載)

2017-09-16 07:04:58 | 日記
中国出張の際、携帯電話をどうしよう、というのは頭を悩ませることのひとつである。以前、中国の携帯を別に用意して持参していたが、そのうち便利ではなくなったので、止めてしまった。中国の携帯電話-「手机(ショウチー)(机は機の中国語の字体)」事情の変遷を振り返ってみよう。
 1990年代初頭、中国ではまだ電話は各家庭に普及していなかった。私の周囲では、学部長の教授は自宅に電話があったが、若い准教授の家にはなく、宿舎の門番に呼び出してもらっていた。経済発展には電話の普及も必要だろうが、多くの人口と広い国土を考えれば、固定電話のインフラ整備はとても大変そうで、「(まだ日本でも普及していない)携帯電話の技術進歩が希望となろう」と論じられたものである。
 予想は当たって、21世紀に入ると中国では爆発的に携帯電話が広まり、人々はいつも「手机」を片手に口角泡をとばしているようになった。口コミ情報を頼りにし、多くの人と関係(グワンシ)(コネ)をつないで世の中を渡るのを常とする中国人の気性に携帯電話はぴったり合ったようだ。携帯の出現によって変化した社会と人間関係を風刺した小説「手机」が映画化されて大ヒットしたのは2004年のことである。
 まもなく、もはや携帯を持つのが当然になっている現地の友人たちとの連絡のために、私は中国出張用の携帯を購入した。あの頃、日本円で数千円出せば機械と電話番号が簡単に手に入ったし、もっと安いものもたくさん出回っていた。中国の携帯はプリペイド式で、残金がなくなればカードを買ってチャージすればよいので、たまに訪中する私でも気楽に携帯を持てたのだ。
 ところがその後、チャージしたお金は数ヶ月で失効するようになり、さらにはしばらくチャージしないと番号まで使えなくなるなど、使い勝手が悪くなった。さらには携帯の購入には身分証の提示が必要になるなど、管理も厳しくなった。かくして私の携帯は、現在、失効したままである。
 2000年代後半の中国の携帯電話製造業の様子を、丸川知雄『チャイニーズ・ドリーム』(ちくま新書、2013年)は「ゲリラ携帯電話産業」と表現する。先進国では携帯電話を開発設計・製造するのは大手企業に限られるが、その頃の中国には大小400社程の携帯の基板・ソフト設計会社があり、深圳などでしのぎを削っていた。最小は従業員10人以下の零細企業で、なかには中古機の部品をつぎはぎして国外のメーカー品のコピーを作っているところもあった。先進国では統合されている設計と販売が垂直分裂したことに中国のゲリラ携帯電話産業の誕生の原点があり、先進国の企業が先進国の需要に応えて開発した技術を、中国の草の根資本家たちはバラバラに解体して換骨奪胎し、世界の貧困層の需要にあったイノベーションを生み出した。そうした活気に満ちながらもアナーキーなゲリラ携帯電話産業は、早晩消滅すべきと多くの人たちは考えていた。しかし中にはゲリラを卒業してブランドメーカーになりあがる企業も出てくるだろう、と丸川は予想していた。
 その後の展開は、Huawei(華為)やOPPO(欧珀)、Vivo(維沃)などの中国メーカーが、先進国のメーカーに見劣りしないハイスペックな品質と高すぎない価格でシェアを広げてゆき、2016年には世界のスマートフォンの三分の一とも5割超ともいわれるシェアを占めるようになった。同時に、たくさんあったスマートフォンメーカーは淘汰され、半分以下に減少した。
現在、中国の人々は、日本人に劣らずスマホ漬けになって暮らしている。日本でも中国でも携帯で生活が変わったのは、一見、同様である。
<写真は、映画「手机」(原作:劉震雲、監督:馮小剛)のポスター>


明日、参議院選挙

2016-07-09 17:10:29 | 日記
 明日は参議院の選挙だ。
 いろいろ言われているが、自民党は与党が2/3とれば本気で憲法改正を始めると思われる。自民党のHPで、「政治的中立性を損なう教育をしている」として「子供たちを戦争に送るな」と主張した教員を通報するよう呼びかけていた(批判殺到したのですでに削除されたが、http://archive.is/FysFM で見ることができます)ということを知って、本当にますます恐ろしくなってきた。
 これを見てくださった方、とにかく与党にだけは投票しないでくださいな。

<歴史教育の未来をひらく―アクティブ・ラーニングと「歴史総合」>シンポジウム開催

2016-03-27 01:26:09 | 日記

 <歴史教育の未来をひらく―アクティブ・ラーニングと「歴史総合」>と題するシンポジウムを日本大学文理学部で開催した。近現代史を専門とする学部の同僚とやっている共同研究主催で、共催は日本大学史学会と高大連携歴史教育研究会。
 このシンポジウムを企画したのは、歴史教育の曲がり角の時期に、しっかりした歴史を考える力を生徒につけようと熱心にアクティブ・ラーニングによる授業を展開している高校の先生たちを知って、ぜひ日大の関係者(付属高校を含む)にもこのような試みを知ってもらいたいと思ったからだ。同時に、私自身も歴史教育の制度と授業内容および方法について、もっと勉強する必要を感じてもいる。
 結果、予想を大きく上回る160人以上の参加があって大盛会だった。アクティブラーニングへの関心の高さを実感したが(「アクティブラーニング祭り」という表現も出た)、上から教え方を変えろ、と言われているからだけでなく、歴史教育を再生させないと本当にまずい、としみじみ思っている。
 私自身は、歴史教育をジェンダー主流化しようということで、こういう問題にかかわりだしたのだが、そもそも歴史教育を崩壊から救わないと大変だ、ということに気づいた次第。そのためにはジェンダー主流化(ジェンダー視点を歴史教育に入れていくこと)は、必須の課題だと考えるが、それだけではなく他にもなすべきことは山積している。
 ともあれ、できることを皆が自分の場所で始めていくしかない。



卒業式

2016-03-25 01:19:21 | 日記


3月25日は日本大学の卒業式でした。
今年巣立っていったゼミ生は4人。それぞれに印象的な卒論を書き、4月から社会人としての第一歩を踏み出します。中国語中国文化学科では、80人ほどが巣立ちました。
皆さんの将来が希望に満ちたものになりますように。

夏の終わり -いや、まだまだ

2015-09-04 09:10:07 | 日記
 9月に入って、ずいぶん涼しくなった。夏も終わった、と言いたいところだが、まだそういうわけにもいかない。世の中の動きも自分の仕事もいまだ中途で、とはいえ、いろいろなことのあった今年の夏のことを、少し整理しておきたい気分でもある。
 この夏は、すごく久し振りで-十何年ぶりか、もっとかもしれない-ずっと国内にいた。仕事がたまっている上に、いない間に済んでいたらいやだな、と思うこともあったので、「国外逃亡」をためらったからだ。同僚の近藤先生が病床からたいへん心配されていた安保法案はその筆頭だが、それを推進しようとする人たちに見える、一言でいうなら反知性主義というべき態度に連なる重大な事柄が夏の前から相次いでもいた。
 まともな研究者の間ではほとんど議論のない「慰安婦」の実態を無視して真摯な歴史認識を将来につなげようとしない政治のあり方と、国立大学の文系分野の縮小を求める文科省の指示とは、ものごとを表層だけから見て問題を捉え、深い哲学に根差して広い視野でものを考えようとしない態度が共通しているように見える。とはいえ、文系分野の学問が、これまで充分に真の意味でその役割を果たしてきたかと問われると、自己変革が必要な部分も多いのはたしかなので、問題は複雑ではある。いずれにせよ、そこに見えるのは反知性主義-ものごとを筋道立てて深く考え自分の頭で判断して行動することを重視しない態度-で、それは昨今の学生気質と深くつながっている気がするので、ことは深刻なのだ。
 初夏の頃から、そのような私たちのしごとの基盤を揺るがすような出来事が続いていて、それに対して学術会議でシンポジウムをしたり、高大連携歴史教育研究会を立ち上げてあるべき歴史教育の姿を追及したり、という事態を前向きに進めようという動きに微力を添えてはきた。(そのような中では、ジェンダー主流化-ジェンダー視点をあらゆるところに組み込んでいくこと-が非常に重要な役割を果たすはずだ、という確信をもちながら。)
 しかし、安保関連法案は、それらもろもろを支える日本社会の根底の平和と立憲主義を破壊するもので、国会に上程されているものが本当にそんなとんでもない内容のものだということが、いまだに信じられないような呆れる思いがある。おそらく私たちは、戦後民主主義が当然空気のようにそこにあるもの、という中で育ってきて、それは日々の努力で維持成長させなければならないもの、という決意が足りなかったところを突かれたのだろう。私はジェンダー平等・公正については、日々の努力が必要だということをかなり体感し努力しているつもりだが、その基盤である立憲主義と平和については、さまで意識してこなかったのだと改めて感じたことだ。
 学生たちは、便利で豊かな日本がよい、といい、現状が続いていくことが望ましくまた当然と感じているようだ。格差が拡大しつつある中で「豊か」と言ってしまうのは私にはためらわれるが、私立の学費を払える日本大学の学生にとってはそれが実感なのだろう。学生のうちは、男女差別だって実感することはないという。ましてや平和で自由であることなど、そうでない社会は彼らの想像の範囲を超えていて、全く想定外のようだ。しかし彼らよりいくらか長く生きて少しは歴史を勉強してきた私には、どう考えても今、「平和」や「自由」が紙一重で危なくなっている、と思える。(しかし私も「平和な戦後」に暮らしてきたので、頭で考えている感があるのは否めない)「豊かさ」については、今の日本社会でだって、ちょっと目を開けばそうでない実情はすぐ見える。それを見てしまって、自分もそうなるのでは、と思うのがイヤで、彼らは見ないでおこうとしているのだろうか。いや、自分だって、そういう「彼ら」に迎合して日を送っているのではないか。
 そのようなことを、気忙しい日々の中で感じていた夏だった。まだ、夏は終わらない。
 
 
 

「戦争法案廃案!安倍政権退陣!8・30国会10万人・全国100万人大行動」

2015-08-30 00:22:47 | 日記

 安保法案廃案を求める国会前の一斉行動に、日大教員の会も参加しました。当初、この日の行動には各自で参加すればいいかと思っていたのですが、せっかく作っていただいた日大の幟を持っていると声をかけてくださる卒業生もあるようなので、これを活用することにしました。
 しかし当日は、ものすごい人で、幟を持っていてくださったH先生は、早く着いて国会正門正面で角に押し込まれていたようです。私も一斉行動の少し前に着いたのですが、すでに(後でわかったのはその直前に封鎖線が突破されて)国会正門前の道路は人で埋まりかけているところでした。
 当日は、ちょうど安保法案を大変心配して亡くなった近藤先生の密葬の日で、追悼の意味を込めて近藤先生の遺志を体現すべく行動に参加された学科の同僚のZ先生と元同僚のK先生と一緒に近藤先生の話などしながら一斉行動に参加しました。大変な人でしたが、車椅子の方の移動には皆協力し、混乱が起きないように譲り合って、それなりの秩序を保ってコールがつづきました。私は古い友人と数年ぶりに再会したりもしました。日大の幟と合流できたのは、結局、一斉行動の終了時刻の4時を過ぎて、いくらか人が減ってからでした。
 10万人の中の一人として廃案へのささやかな力を添えようと思っていったのですが、結果的に12万人が国会周辺に集まっていたようです。自分の意思で、雨にぬれる覚悟で12万人が集まったのは、やはり壮観でした。国会正門前の道路が人で埋まっているのは、もちろん初めて見ました(って自分も中にいたので外から見たのではないです)。法案の行方がどうなるかはまだわからないですが、日本の民主主義があるポイントを超えた、と感じられるものがあった日でした。