認知症一期一会 http://blog.goo.ne.jp/mizukiosamu/

毎朝8時30分
ケイタイのアラームが鳴ると、私はアリセプト5mgを飲み食卓を離れます。


「今」という境地に達する

2007年02月21日 | クリスティーンさんの本から

《私の痴呆の旅は、本当は自分は誰なのかを探すという
 自己発見の旅であった。私は一冊目の本で、
 「私は死ぬとき誰になっていくの?」と問うた。
 それは自分がなくなってしまう恐怖を表現したもので、
 痴呆の旅は自己喪失のようなものだろうと私は思いこんでいた。
 しかし、ここ数年間は、
 私たちを人らしめているものは何なのか、
 痴呆の旅をしている私たちに
 何が起きているのかについてよく考えてみた。
 痴呆症は、少しずつ死んでいく病気だと
 思われることが多いが、まず、「死ぬ」とは
 どういうことなのかを問わなければならない。
 痴呆の人は現在という時に積極的に存在し、
 「今」という境地に達している人なのではないか。》
とクリスティーンさんは書いておられます。
『私は私になっていく』(クリエイツかもがわ)P215



この文章が書かれている欄外に、
緑色の字で「有余涅槃」との、私のメモがあります。

聞いた言葉ではありますが、意味不明です。

私は本を読んでも・・・その文章が記憶されることはまれ。
ですから・・・
ふっと思ったことがあれば・・・即座に
メモしなければなりません。

二回・・・三回と読めば・・・そのつど、
メモ書きが増えていきます。

そんな感じでの「有余涅槃」です。

仕方ありませんから・・・辞書を見ます。

「有余涅槃」とは、
「煩悩を断じ尽くして心の束縛はなれることができても、
まだ肉体が残っていて、
肉体上の束縛を離れない涅槃を言う」
(岩波仏教辞典P62

《今という境地に達している人》と、
クリスティーンさんが書かれていますが、
私の反応は・・・「有余涅槃」・・・だったのでしょう。

脳のどこかに・・・言葉の蔵があって
それが・・・出番を待っていて、

勝手に浮かんでくるようです。

それこそが、
私の「今」であり・・・
そう浮かんでくることが・・・とても愛おしく思います。


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2 コメント

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仏教用語 (miki)
2007-02-21 19:08:26
水木様は、仏教の言葉をよくご存知ですね。
そういう死生観も水木様の精神を支えているのでしょうか。

父と母は、息子(私の兄・36歳で病死)を亡くして
曹洞宗の経文を毎夕読経していました。
父は、息子の七回忌まで病気の連続で、七回忌を終えて九州から関東に移ってきました。

私も介護生活が始まって、ときどき読経もつきあいましたが、そのなかに「ただひとり黄泉におもむくのみなり」という字句があります。
父が亡くなって、「ああ、そうだよなあ。人間はたったひとりで旅だっていくんだよね」と心から納得しました。
旅立つまでは大変ですが、父はそれなりに上手に旅立ってくれたのでありがたかったし、私も経文の意味を体感しました。

人間は、みんな生まれて生きて死んでいくのです。
認知症も、人間のかかる病気のひとつです。
社会がそういう捉え方ができるようになるといいなあ。
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一期一会 (水木)
2007-02-23 15:44:18
miki様へ

仏教用語は・・・日本人の原風景でしょう。

何か文章を書くとき、ポロっと浮かんでくるのです。

「一期一会」は、茶道の世界で使われていますが、
大好きな言葉です。

「認知症一期一会」という名のブログが・・・発信できているのは、
その言葉に「思い」がつまっているのでは・・・と、思うようになりました。

私なりの・・・そして、
miki様なりの「一期一会」を大切にしたいです。
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