リオ・オリンピック2016が始まった。
隣は一家こぞって朝早くからテレビに向かい声援を送っている。
田舎育ちか下町暮らしが長いのか、
窓を開きっぱなしで大声援を送っている。
おまけにベランダに出てきて携帯で友人に戦況を伝えている。
イラつくなよー。
身体に障るから、怒るなよー。
もう一人の面白くもない発想が売りの自分が叫んでいる。
年寄りの「キレル化」が話題になった時期があった。
その時からずぅ~と思っていた。
そうだ、クリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」って映画を観て考えがまとまったような気がしていた。
自分が感じたり、考えたコトを
そのままに、どうして言ってはいけないんだ。
もちろん感情のままに怒りをぶちまけたりするのは不作法だし思いやりに欠ける。
いつからなんだ・・・・こんな軟弱な時代になったのは。。。。。
差別用語なんて自主規制的なコトをマスコミが騒ぎ始めたときからなんだろうか?
僕にとってはどうでもいいんだけれどね・・・・
そうなんだ。
この「どうでもいい。」そんな意見が理解できないんだろう。
怒りは必要なんだと思ってる。
じっと我慢も必要。でも、怒りをぶつけなければ理解されないことの方が多い。
取りあえず怒りをぶつけられた方は
驚き、なんで?
すべてはそんなところから始めなくちゃならなくなってしまっているらしい。
相手が泣いたり笑ったり怒ったりしていることの理由を知りたがらなくなってしまったんだろうか?
ヴァーチャルにレスポンスはない。
攻撃もしなければ誹謗もしない。
ただただ褒めるだけなんだ。
すべてを肯定してくれる。
悪いことですら寛容なのだ。
そしてすべてを許し、最後に困ったことに陥った若者に投げかける言葉が
「自己責任」なのだから・・・なんてふざけた言葉を吐き捨てる
そんな大人が増えたことなんだ。
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