中学生のころ僕はウソをつかなかっただろうか゛・・・・
たぶんいい加減なことを、適当なことを、罪の意識もなく、相手の気持ちなど考えずに、言っていたと思う。
そして、僕の言葉が原因で友達が死ぬなんてこともなかった。
非現実は次の角を曲がったところで待ち受けている。
そんな可能性は“無い”とは言えない。
宮部みゆき原作の映画「ソロモンの偽証」を観た。
ちょうどテレビのなんたらシネマて言う番組で放映されていたものを2週にわたって録画した。
映画館で見るべき映画でない様に思っていたから・・・・
軽く見てた。
少々重かった。でも、いい映画であることは間違いない。
中学生が学校内で起きた事件を自分たちのチカラで裁判の形式でホントのことを知ろうとする物語。
まずはこの設定に驚いた。
あまりにもリアリティに欠けている。
予告編を見るだけだったからそう思えた。
でも、学校も裁判を開かせるしかないような事柄が用意され、
その理由があまりにもリアルすぎたから、すんなりと物語に入って行けた。
生徒役のほとんどをオーディションで選出したからなのか
生徒たちの動きやセリフが不思議な緊迫を観る者に与えていたし
脇役たちのキャストも困り果てたオトナ感がにじみ出たりしてた。
ストーリーはシンプル。
生徒の校内自殺。それとも他殺か・・・・?
事件に仕立てられた感を薄々感じながらも主人公の女の子は
自殺した子から言われたキョーレツな一言の呪縛から逃れられない。
「君は偽善者だ・・・」
ちょっと違った方向からこの映画は進行していく。
パターン化された映画であれば、自殺した子供の周辺背景をつぶさに見せつけて
彼を自殺に追い込んだものはなんだったのか・・・・そんな描き方が定石なわけだけれど、
違った。
あまりにも可愛げのない少年の仕掛けた罠にみんなが振り回される。
「みんなが罪の意識に囲われるだろう。
生きている意味なんてないんだ。
だって、みんな嘘つきだし偽善者なんだし
そんなコトも理解もできないで仲良く暮らしているなんて信じられない。
僕の苦しみ哀しみを解るヤツなんていない。
だから、解らしてやる!」
これは僕の想像。
しかし、中学生たちはそんな仕掛けられた罠にひっかかりはしなかった。
「私は偽善者じゃない!」
そんな言葉を知らしめるために全力を尽くそうとする。
しかし、認めざるを得ない。
なぜなら、彼が指摘した行動をとった現実は変えられないからだ・・・
現実はいつだって正しい。
裁判に参加する中学生を含めて親も警察官もマスコミも
現実に向き合わなくてはならなくなる。
自分自身と対決しなくてはならなくなる。
対決してもなを生きることを選ばなくてはならなくなる。
それが、生きることの意味なのだろう。
「意味」は与えられるものではないし、授かるものでもない。
自分で作り上げるものなのだ。
罪を犯せば・・・
みんなは懺悔し、赦しを乞うことで救われようとする。
罰を受ければすべて楽になる。死ねばすべて忘れられる。
救われたい・・・・つまり楽になりたい。
どんなに辛くても背負いながら生き続けることを選ばない限り
生きる意味など見つけられない。
そんなことを言いたかった・・・・そんな気分にさせられた。
混沌した状況や、難解な問題にはできるだけ関わりたくない。
メンドクサイからね・・・・。
だから、誰かに考えて欲しい・・・・文句は決して言わないから言われた通りにするから・・・・
そんな思いは…犬に食わせなくてはならなくなってる。
それが、今なんだ。