何もかもが前向きであればいいわけではない。
どうしてかって?
それは本気の気持ちなら重くて当たり前だからだ。
そして、重いやつは嫌いだと言う人は、
本気の気持ちを受け止める力がないだけだ。
苦しさとか、哀しみだとか・・・・
しかし、誰でもが好きなわけではない。困難にぶちあたってへらへら笑っている奴などいない。
たった一人で立ち向かわなければならない時があるのだ。
しかも、とてつもなく理不尽な場合が多いわけで、
どうしようもなく、周辺の人々の所為にして・・・逃げまくり、無かったことにしてしまう。
リセットするわけだ。
確かに、忘れてしまうことも大切だし、時が解決してくれることもある。
しかし、今の最大限の考える力で結論を出す必要があるわけで、たとえそれが間違っていてもだ。
内田樹「修行論」を読んだ。
15歳ぐらいから4年間ぐらい、当時、もっともマイナーだと言われたチームスポーツをやっていた。
毎日400メートルのトラックを25周走り続けた。陸上競技ではない。
ただ、試合に勝つためだけをよりどころにした反復練習。
僕はキーパーだったから、理不尽だと思った。
だって、試合では走る事などないのだからだ。
セービングが上手くなる練習に時間を費やした方が合理的だし効率がいいと思った。
練習の意義を効率で考えていた。
目標を設定して、目的を達成するために努力をする。
努力の結果が目に見えていないと理不尽だと思った。
しかし、そうではなかった。
無駄だと思った努力は・・・結果的に頑丈なカラダを僕に与えてくれた。
あの日の反復練習が少しはへこたれない気持ちを作ってくれた。
反復運動をしていると、いろんなことを想像してしまう。
好きな女こともそうだし、試合のこともあるし、小憎らしい教師のことも、頑固なオヤジのことも、
いろんなコトを頭の中で想像しなければ走り続けられなかった。夢想していただけなのかもしれない。
それは、これから出会うことのすべてのヤバイことにカラダがどう反応すればよいのかを学ぶヒントだった気がする。
頭で考えてから反応(予測)するのでは遅いことがいっぱいある。
「修行論」にはそんなことが小難しい言葉でイッパイ書かれていた。
人生には危険が溢れていて・・・信じられないぐらいの出来事が待ち受けている。
理不尽なのは当たり前なのだ。不健康であることが正常なのだ。
だから、自分には敵などいないと考えて、対人関係を築き、しっかりと自分と対決しなくてはならないのだ。
自分の敵は、やっぱり自分なのだ。