雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

武人の出家 (3) ・ 今昔物語 ( 19 - 4 )

2023-01-23 14:21:19 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 武人の出家 (3) ・ 今昔物語 ( 19 - 4 ) 』


    ( ( 2 ) より続く )

さて、説教が終ると、守は聖人たちのいる所に参り、直接お目にかかって、「しかるべき縁がありまして、このように突然おいでをいただき、大変結構な功徳を納めさせていただきましたのも、その時期が到来したのでございましょう。私もずいぶん年老いました。犯しました罪は数限りなく積もっております。『今は法師になろう』と思うのですが、あと一両日ご滞在いただきまして、同じ事なら私を仏道に入れてしまってくださいませんか」と言うと、源信僧都は、「まことに尊い事でございます。仰せの通り、どのようにでもいたしましょう。ただ、明日は吉日でございます。ですから、明日ご出家なさるのがよろしいでしょう。明日を過ぎますと、しばらく吉日はございません」と言った。
それというのも、「このような者は、説教を聞いた時だからこそ、道心を起こして、このように言うのだ。日数が経てば、きっと気が変わってしまうだろう」と思って、このように言ったのである。

守は、「それでは、今日ただ今でも、早速出家させてください」と言った。
僧都は、「今日は、出家するには良くない日です。今日一日は我慢して、明日の早朝に出家しなさい」と言った。
守は、「嬉しく有り難いことです」と言って、手をすり合せて自分の部屋に帰り、主だった郎等たちを集めて、「わしは、明日出家しようと思う。わしは長年の間、武者としていささかの過失もなく過ごしてきた。しかし、兵(ツワモノ)として生きていくのは、今夜が最後だ。お前たちはそのことをよく心得て、今夜だけはわしをしっかりと警護せよ」と言った。
郎等たちはこれを聞いて、皆涙を流して立ち去った。

その後、郎等たちは全員が武具を負い甲冑を着て、四、五百人ばかりが館の周りを三重四重に囲み、夜もすがらかがり火を立て、多くの従者たちが巡察して、油断なく警護した。蠅さえ飛ばさないようにして、一夜が明けると、守は夜が明けるのを待ちかねて、明けるや否や、沐浴して早く出家したいと伝えると、三人の聖人は極めて尊い言葉で以て勧めて出家させた。
鷹屋につながれていた多くの鷹は、足緒を切って放つと、烏が飛ぶように飛んでいった。
あちらこちらに仕掛けている梁に人を遣って破らせた。鷲屋にいる鷲たちも皆逃がした。長明(地名らしいが不詳。)にある大網などを取りに遣って、目の前で切り裂かさせた。倉にある甲冑、弓矢、刀剣なども皆取り出して、目の前に積んで燃やした。

長年仕えてきた親しい郎等五十余人も、同時に出家してしまった。その妻子たちは、互いに泣き合うこと限りなかった。
出家の功徳はもともと極めて尊いこととは言いながら、「この出家は、御仏が特にお喜びになるだろう」と思われた。
守が出家を果たした後、聖人たちはさらに尊いことなどを物語のように言い聞かせると、守はますます手をすり合せて泣き入った。
聖人たちは、「これは、大変な功徳を勧めることが出来たものだ」と思って、「さらに、もう少し道心をつけてから帰ろう」と思って、「明日もう一日滞在させていただき、明後日に帰ります」と言うと、新入道の満仲(守)はたいそう喜んで自分の部屋に帰っていった。

その日は暮れて、翌日、この聖人たちは相談して、「このように道心を起こしたときは、錯乱するほど盛んに起こすものだ。この機会にさらにもう少し強く道心を起こさせよう」ということになり、前もって、「もしかすると本当に信仰心を起こすことがあるかもしれない」と思って、菩薩に扮するための
装束を十着ほど持ってこさせていた。
さらに、笛や笙などを吹く人たちを数人雇い、それらを物陰にやり、菩薩の装束を着せて、「新入道がやって来たら、道心の話などをするので、お前たちは池の西にある山の後ろから、笛や笙などを吹いて、美しい音楽を奏して出てこい」と命じた。

そして、命じられたように音楽を奏しながら
次第に近づいてくると、新入道は、「あれは、何の音楽ですか」と怪しんで言うと、聖人たちは素知らぬ顔で、「何のための音楽でしょうかねぇ。極楽からのお迎えなどの時には、このような音楽が聞こえるのでしょうか。さあ、念仏を唱えましょう」と言うと、聖人たちと弟子たち十人ばかりが声を合わせて尊い声で念仏を唱えたので、新入道は手をすり合せて尊ぶこと限りなかった。
やがて、新入道が座っている部屋の障子を引き開けてみると、金色の菩薩が金の蓮華を捧げ持って、ゆっくりと近づいてくる。新入道はこれを見て、声を挙げて泣き、板敷より転がるように落ちて拝んだ。聖人たちもこれを尊び拝んだ。
しばらくして、菩薩は、音楽を奏しながら帰っていった。

その後、新入道は縁側に上がり、「まことにこの上ない功徳を造らせてくださいましたなあ。わしは、数限りなく生類を殺した人間だ。その罪を償うために、早速お堂を造り、自らの罪を減じ、殺してきた者どもも救いたいと思います」と言って、すぐさまお堂を造り始めた。
聖人たちは、次の日の早朝に、多々を出て比叡山に帰っていった。
その後、お堂は完成し、供養を行った。いわゆる多々の寺は、その時始めて建立されたお堂などである。

これを思うに、出家は機縁があってのことだとは言いながら、子の源賢の心は、まことに有り難く貴いものである。
また、仏のような聖人たちの勧めたことなので、この極悪の者も前進に立ち戻って出家を遂げたのである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆



 

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哀れ 六の宮の姫  ( 1 ) ・ 今昔物語 ( 19 - 5 )

2023-01-23 14:20:54 | 今昔物語拾い読み ・ その5

        『 哀れ 六の宮の姫  ( 1 ) ・ 今昔物語 ( 19 - 5 ) 』


今は昔、
六の宮(不詳)という所に住んでいた、年老いて世間から忘れられたような宮方の子で、兵部の大輔(ヒョウブノダイブ・兵部省の次官)[ 姓名が入るが、意識的な欠字。]という人がいた。
心[ 欠字。]にして古風なので、世間と進んで交わろうとせず、父宮から受け継いだ、木々が茂った大きな邸宅の荒れ果てて残っている東の対(寝殿造りの東の対屋。主人は寝殿に住むが、そこが破損して娘などが住む東の対屋に移っていた。)に住んでいた。
年は五十余りになっていたが、娘が一人いた。年は十余歳ばかりで、姿形は美しく、髪をはじめとして容姿、物腰などどこをとっても非の打ち所がなかった。心ばえもすばらしく、愛らしい人柄である。

このようにすばらしい女性なので、然るべき君達(公達)などと娶せても、露ほども見劣りすることがない。しかしながら、このような美人でありながら、世間の人に知られていなかったので、特に妻にと言ってくる人もないままに、「どうであろうと、進んで婿を求めるようなことが出来ようか。言ってきてくれる人があれば考えるが」と、古風な考え方から控えめにしていた。
時には、「高貴な人と交際させようか」とも思ったが、父である自分の貧しさを考えると、それも出来なかった。そのため、父も母も娘を不憫に思い、ただ二人の間に寝かせては、様々なことを教えていた。乳母は信頼できそうもなく、相談する兄弟もいない。そうしたことがこの上なく気掛かりで、父母は、これを嘆き泣くより仕方がなかった。

こうしているうちに、父も母も続いてはかなく亡くなってしまったので、一人残された姫君の悲しみを察していただきたい。まことに悲しく、身の置き所もない思いを喩えるものとてない。
それでも月日は過ぎて、喪服を脱ぐことになった。
父母が明け暮れに油断できない者だと言っておられたので、乳母に気を許すことも出来ない。と言って、何をするということもなく何年かが経つうちに、伝来の然るべき調度類がたくさんあったが、それらも乳母がいつの間にか人手に渡しなくなってしまった。
そのため、姫君もすっかりみすぼらしくなり、心細く悲しい日々を送っていた。

ある日のこと、乳母は、「わたしの兄弟にあたる僧を通して、こう言って来た人がおります。そのお方は、[ 国名が入るが意識的な欠字。]の前司(ゼンジ・前の国守)の子で、二十歳余りの容姿端麗で気立ても優しくいらっしゃいます。父上は今は受領ですが、最近の上達部(カンダチメ・上級の貴族)の子孫ですから[ 欠字。「上品」と言った言葉か? ]人です。そのお方が、姫様のお美しいことを聞いて、このように申してきたのです。婿として通ってこられましても、恥ずかしいお方ではありません。『このように心細くお過ごしされるより良いこと』と思うのです」と言った。
姫君は、これを聞くと、髪を振り乱して泣くばかりであった。
その後、乳母は度々手紙を取り次いだが、姫君は見ようともしないので、仕えている若い女房に姫君が書いた手紙のようにして書かせて、男に返信した。
このようなことが度々繰り返されたので、男が約束した日だとして訪れることになり、そうなったうえは仕方なく、男と契りを結ぶようになった。女の様子はこのように美しいので、男は心底から愛情を抱くようになったのは当然のことである。
男も、さすがに然るべき人の子であるから、人柄も容姿も立派であった。

姫君は、頼りにする人もないままに、この男を頼りにして過ごしていたが、この夫の父親が陸奧の守に任じられた。
春になって、急いで任国に下ることになり、「男子であるから、京に残ることは出来ない」ということで、父と共に下ることになり、妻を見捨てて行くことに堪えがたく辛かったが、妻のことは親の許しを得た仲ではないので、「連れていきたい」とも恥ずかしくて言い出すことが出来ず、心の中では思い悩みながら妻に言い出すことが出来ず、下る当日になって将来を深く約束して、泣く泣く別れて、夫は陸奧へ下っていった。
夫は、任国に行き着いた後、すぐにも手紙を届けようと思ったが、確実な伝手もなく、嘆きながら過ごしているうちに、年月は過ぎていった。

男の父の任期が終り、上京への道を急いでいたが、その当時、常陸の守[ 人名が入るが意識的に欠字になっている。]という人が、任国において栄華を誇っていたが、この陸奥の守の子を「婿に迎えたい」と遣いの人を何度も寄こしていたが、陸奧の守も「たいへん結構なことだ」と喜んで、子を常陸に婿入りさせた。
そのため、陸奥国に五年いて、常陸国に三、四年いる間に、いつの間にか七、八年が過ぎてしまった。
常陸国の妻は、若くて魅力的な女であったが、あの京の人にはとても及ばないので、常に京に心を馳せ、恋い慕っていたがどうすることも出来ない。伝手を探して京に手紙を送ったが、あるときは宛先が見当たらないといって手紙を持ち帰り、あるときは、使いの者がそのまま京に留まって返事を持ってこなかった。

               ( 以下 ( 2 )に続く ) 

     ☆   ☆   ☆

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哀れ 六の宮の姫 ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 19 - 5 )

2023-01-23 14:20:28 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『  哀れ 六の宮の姫 ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 19 - 5 ) 』

                 ( ( 1 ) より続く )

やがて、義父となった常陸の守の任期が終り京に上ることになり、婿である男も同じように帰京することになった。
道すがら、京に残していた女のことを思い続けているうちに、いつしか粟津(現在の滋賀県大津市の一部。)に着いたが、そのまま今日に入るには日が悪いということで、二、三日そこに留まった。その間の時間は、男にとって、これまで数年よりも心が揺らいだ。

いよいよ京に入る日は、昼は見苦しいというので日暮れてから京に入った。(このような風習があったらしい。)
京に入るや否や、妻を父の常陸の守の家に送り届けると、男は旅装束のまま六の宮に急いで行き、見てみれば、以前には崩れながらも築地があったが今はそれもなく、小さな家があるだけであった。四足門(ヨツアシモン・左右二本の円柱の前後に二本ずつ袖柱を立てた屋根のある門。大臣家などで、総門と中門の間に建てる。)があった所も、跡形さえない。寝殿の対屋もあったが、一つも残っていない。政所屋(マンドコロヤ・公卿、貴族家の事務所。)にあった板屋は崩れそうな形で残っている。池には水もなく、ナギ(ミズアオイの古名。食用にした。)という物を作っていて、とても池には見えない。趣のあった樹木もあちらこちらと切られてなくなっている。
この様子を見て、男は気掛かりで胸騒ぎがして、「このあたりに様子を知っている者はいないか」と捜させたが、知る人はまったくいなかった。

政所屋の壊れかかった所に、わずかに人が住んでいるような気配がある。近寄って声をかけると、一人の尼が出てきた。月の明かりで見てみると、あの人の下働きをしていた女の母であった。
神殿の柱が倒れて残っているのに男は腰を下ろして、その尼を呼び寄せて、「ここに住んでおられた人は、どうなさったのか」と尋ねると、尼は口ごもって答えない。
男は、「隠しているな」と思ったので、季節は十月の二十日ばかりのことでもあり、尼はたいそう寒そうにしていたので、着ていた着物を一枚脱いで与えると、尼は戸惑った様子で、「このような物を下さるとは、あなた様は一体どういうお方でございますか」と言った。男は、「私は然々こういう者ではないか。そなたは忘れてしまったのか。私は忘れてはいないぞ」と言うと、尼はそれを聞くや否や、むせびつつ激しく泣きだした。

しばらくすると、尼は、「『知らないお方が仰せだ』と思って隠しておりました。それでは、ありのままを申し上げます。あなた様が陸奧国に下られて後一年ばかりは、ここの侍女たちも『お手紙など差し上げて下さる』と思って待っておりましたが、何の音沙汰もございませんでしたので、『すっかりお忘れになったのでしょう』と思うようになりましたが、こうしていつしか時が過ぎていきますうちに、乳母の夫も二年ばかりして亡くなりましたので、お世話申し上げる人は全くいなくなり、みな散り散りに去って行きました。寝殿はお屋敷に仕えている人の焚き物にするため壊され、とうとう倒れてしまいました。姫様がいらっしゃった対屋も道行く人が勝手に壊して持ち去り、それも先年の大風で倒れてしまいました。
姫様は、侍の詰め所であった廊の二間、三間ばかりを[ 欠字 ]て、そこに身を潜めるようにして住んでおりました。この尼は、『娘が夫について但馬国に下れば、京にいては誰も養ってくれない』と思って、一緒に但馬国に下りましたが
、昨年、姫様のことが気にかかりましたので、京に戻ってきましたが、このようにお屋敷も跡形もなくなっておりました。姫様もどこに行かれたのか分からず、知り合いの人に頼み、この尼も行方を捜しましたが、未だにいらっしゃる所が分かりません」と言って、激しく泣いた。
男はこれを聞いて、深い悲しみに包まれ泣き泣き帰っていった。

男は、自分の家に帰ったものの、あの人に会わないことには生きている気がしないので、「ただ足や手の向いた方に行って捜そう」と思って、物詣でもするような姿で、藁履(ワラグツ)を履き、笠を被り、あちらこちらと捜し歩いたが、全く捜し出すことが出来なかった。
そこで、「もしかすると、西京あたりにいるかもしれない」と思って、二条通りから西に向かい、大きな垣根にそって歩いて行くと、申酉(サルトリ・午後五時頃)時の頃に辺りが暗くなり、時雨がひどく降り出した。
「朱雀門の前の西の曲殿(マガリドノ・直角に折れ曲がった建物。)で雨宿りをしよう」と思って立ち寄ってみると、連子窓の中に人のいる気配があった。そっと近寄って覗いてみると、とても汚れた筵を引きめぐらして、人が二人いる。一人は年老いた尼で、もう一人は若い女で、えらく痩せていて、顔色が青く、影法師のようである。薄汚れた筵の破れかかった物を敷き、その上に寝ている。
若い女は、牛に着せるような着物を着て、破れた筵を腰に引っかけ、手枕で寝ている。
「何ともひどい姿だか、どことなく品がある者のようだ」と見受けられた。どうも気になって、さらに近付いてよく見てみると、何と、あの行方が分からなくなっている女だと気がついた。目もくらみ、心臓も止まりそうになりながら見守っていると、その女は、とても品のよい愛らしい声で、
 『 たまくらの すきまの風も さむかりき みはならはしの ものにざりける 』
( 昔は うたた寝の 隙間風でさえ 寒かったが 今は こんな姿で寝ているが 人は環境にならされるものだ )
と言った。

この声を聞くと、間違いなくあの女なので、何ということだと思いながら懸けてある筵をかき分けて、「これはいったいどうして、このようなお姿なのです。あなたを捜し出そうとずいぶんさまよい歩いたのですよ」と言って、そばに寄って抱き締めると、女は顔を見合わせて、「まあ、あの遠くへ行ってしまった人なのですね」と気づくと、恥ずかしさに堪えられなかったのか、気を失い息絶えてしまった。
男は、しばらくの間は「生き返るかも知れない」と抱き締めていたが、そのまま冷たくなり動かないので、遂にあきらめ、そのまま家にも帰らず、愛宕護の山に行き、髻(モトドリ)を切って法師になってしまった。

この男は、道心が強かったので、この後熱心に修行した。出家したのは、この時始めて発心したということではなく、前世からの因縁のあることなのだ。
この話は、詳しく語り伝えられてはいないが、万葉集という書物に記されているので、
此(カ)く語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆ 

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鴨といえども ・ 今昔物語 ( 19 - 6 )

2023-01-23 14:20:02 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 鴨といえども ・ 今昔物語 ( 19 - 6 ) 』


今は昔、
京に一人の生侍(ナマサムライ・身分の低い侍。当時の侍は武士とは違い、警備だけでなく雑務も担う使用人である。)がいた。いつの頃のことかは分からないが、家はたいそう貧しく、日々の生活に事欠くほどであった。

やかで、その妻が出産し、しきりに肉食を求めた。夫は貧乏なので、妻の求めに応えることが出来ない。田舎へ行っても、尋ねるべき知り合いもいない。市で買いたいと思っても、その代価がない。
そこで、思案にくれて、まだ夜が明けないうちに、自ら弓と矢を二本ばかり持って家を出た。「池に行って、池にいる鳥を射て、妻に食べさせよう」と思ったからである。
「どこへ行けば良いか」と思い巡らすうちに、「美美度呂池(ミミドロノイケ・深泥池のことで、京都の著名な池。)は人里離れた所だ。そこに行って狙ってみよう」と思いついて、出かけていった。

池の水際に近寄って、草むらに隠れてうかがっていると、鴨の雌雄が人がいるとも知らずに近寄ってきた。男はこれを狙って射ると、雄鴨にあたった。男は大変喜んで、池に下りて鳥を取り、急いで家に向かったが、途中で日が暮れ、夜になって家に帰った。
妻に事の次第を告げて、喜びながら「朝になったら調理して、妻に食べさせよう」と思って、衣服を掛ける棹に吊り下げておいて、寝た。

真夜中頃、夫は棹に吊り下げていた鳥が、バタバタと羽を動かせる音を聞いた。夫は、「あの鳥が生き返ったのか」と思って、起き上がり火を灯して行ってみると、死んでいる雄鴨はそのまま棹に吊り下がっていて、傍らに、生きている雌鴨がいた。それが、雄鴨に近寄って羽ばたいていたのである。
「何と、昼に池で並んで泳いでいた雌鴨が、雄鴨が射殺されたのを見て、夫を慕って、取って持ってくる後をつけて、ここまで来たのか」と思うと、男はにわかに道心が生まれ、言いようもなく悲しい思いに襲われた。

ところが、雌鴨は、人が火を灯してやって来たのを恐れることもなく、命を惜しむことなく夫と並んでいたのである。
これを見て男は、「畜生なりと言えども、夫を愛おしく思うがゆえに、命を惜しむことなくここまで来たのだ。私は人の身を受けていながら、妻を愛するがゆえに鳥を殺してしまったとはいえ、すぐにその肉を食べさせようとしているとは」と哀れみの心が生じ、寝ている妻を起こして、この事を話し、鴨の様子を見せた。妻もまた、その様子を見て哀れみ悲しんだ。そして、夜が明けても、この鳥の肉を食べることはなかった。
夫は、この事を思うにつけ道心が深く生じたので、愛宕護の山の尊い山寺に行き、すぐさま髻(モトドリ)を切って法師になったのである。
その後、立派な聖人となり、熱心に仏道修行を続けた。

これを思うに、殺生の罪は重いとはいえ、男は、殺生を行ったゆえに道心が生じて出家したのである。されば、こうしたことはみな然るべき因縁によるものなのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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逆罪を犯す ・ 今昔物語 ( 19 - 7 )

2023-01-23 14:19:36 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 逆罪を犯す ・ 今昔物語 ( 19 - 7 ) 』


今は昔、
藤原保昌(フジワラノヤスマサ・1036 年没、正四位下。母は醍醐天皇の孫。武勇に優れ、藤原道長の四天王の一人といわれた。和泉式部の夫でもある。)という人がいた。武人の家柄ではないが、勇猛で弓矢の達人であった。
この人が丹後の守として任国にあるとき、その国において朝夕に郎等眷属と共に鹿狩りを行うことを日課のようにしていた。

ところで、その郎等の一人に、[ 名前を意識的に欠字にしている。]という人がいた。弓矢の上手として長年の間主人に仕えていたが、いささかも主人の期待に反するようなことがなかった。中でも、鹿を射ることに関して、特に優れていた。
ある時、山野に出て狩りをすることになった。この男は、その狩りが翌々日に行われるという日の夜に、寝た夢の中に、死んだ母が現れて、「私は悪業(アクゴウ)の報いにより、鹿の身を受けてこの山に住んでいます。ところが、明後日の狩りで、私はきっと命を落すでしょう。多くの射手の中を逃げ遁れようとしますが、そなたは弓矢の道を極めているので、そなたの手から遁れることは出来ますまい。ですから、そなたは、大きな女鹿が出てきたのを見たら、『これは我が母親だ』と知って、射ないで下さい。私は自らそなたのいる所に飛び出していきます」というのを聞いたところで、夢から覚めた。
そのあとは、胸騒ぎがして、何とも悲しく哀れで仕方がなかった。

夜が明けてから、男は病であることを申し出て、明日の狩りに供が出来ないと主人の守に申し出た。しかし、守はそれを許可しなかった。何度も申し出たが、守は承知せず、しまいには怒って、「この狩りは、ただお前が鹿を追い詰めて射るのを見るために行うのだ。それを、どうしてお前は固辞しようとするのか。もし明日の狩りに参らなかったなら、すぐさまお前の首をはねることにする」と言った。
男は守の言葉をひどく恐れ、「たとえ参ったとしても、夢のお告げの通りに、その鹿を射ないようにしょう」と決心して、出かけることにした。

いよいよその日となり、この男は、何とも気分が悪げにしぶしぶと出かけていった。二月の二十日頃のことである。
守は支度がととのったのを見て狩りの開始を命じたところ、この男は、七、八頭ほどの鹿の大群に出合った。その中に、大きな女鹿がいた。
男は、弓手(ユンデ・弓を持つ方の手で、左手のこと。)に合わせて弓を引き絞り、馬の鐙(アブミ・足をかける馬具)を踏み直して女鹿を狙えるように馬の方向を変え、馬の腹を一蹴りしたとたんに、この男は夢のお告げをすっかり忘れてしまった。
矢を放つと、その鹿の右腹に命中し、雁股(カリマタ・先端が左右に開いた鏃( ヤジリ )
。)を付けた矢の先端が腹の向こうまで射貫いた。鹿は射られて振り向いた顔を見ると、紛れもなく亡き母の顔で、「痛い」と叫んだ。
その瞬間、男は夢のお告げを思いだし、悔いて悲しんだが、どうすることも出来ず、すぐさま馬から飛び降りて、泣きながら弓矢を投げ棄てて、その場で髻(モトドリ)を切って法師となった。

守は、これを見て驚き怪しんで、そのわけを訊ねると、男は夢のことや鹿を射る間のことを語った。
守は、「お前は何と愚かなのだ。どうしてその事を前もって言わなかったのか。わしがその事を聞いておれば、お前の今日の狩りの役目をすぐに免除してやったのだ」と言った。しかし、今更どうすることも出来ず、男は家に帰った。
明くる日の明け方、その国にある尊い山寺に行った。道心が深く生じていたので、その後も心が変わることなく、極めて尊い聖人となり、尊い修行を続けた。
逆罪(ギャクザイ・母を殺した罪は、仏教で説く五逆罪の一つ。)を犯すといえども、それが出家への縁になると言うのは、このようなことである、
となむ語り伝へたるとや。

    ☆   ☆   ☆

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雉になった夢 ・ 今昔物語 ( 19 - 8 )

2023-01-23 14:19:13 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 雉になった夢 ・ 今昔物語 ( 19 - 8 ) 』


今は昔、
西京(右京)に鷹を使うことを仕事にしている者がいた。名を[ 欠字。名前が入るが不詳。]といった。
男の子がたくさんいたが、それらにも鷹の使い方で生計が立てられるよう伝え教えていた。この男は、熱心に夜も昼も鷹を使うことを好んでいたので、寝ても覚めても鷹のこと以外のことは考えようともしなかった。いつも、夜は鷹を手に止まらせたまま夜を明かし、昼は野に出て雉を狩って日を暮らした。
家には、鷹七、八羽を止まり木に並んで止まらせている。犬も十匹、二十匹と繋いで飼っている。

鷹の夏飼い(鷹の子を夏期に訓練して、鷹狩り用に仕立て上げる。)の頃は、多くの生き物を殺すが、その数は数え切れない。冬になれば、連日、野に出て雉を捕らえる。春は鳴鳥(ナキトリ)を合わせるといって、明け方に野に出て、雉が鳴く声を聞かせてこれを捕らえる。
このようにして過ごしているうちに、この人も次第に年老いていった。

ある時、男は風邪をひいて体調が優れず、一晩中眠れなかった。明け方になって、ようやく寝入ったときに夢を見た。

『嵯峨野に大きな墓場があり、その墓屋の中に自分は長年妻子たちと一緒に住んでいるように思われた。ひどく寒い冬がようやく過ぎて、春の季節となり、日もうららかなので、「ひなたぼっこをしよう。若菜を摘もう」と思って、妻子たちを引き連れて墓屋の外に出た。温かで気持ちが良いので、散り散りになって、ある者は若菜を摘み、ある者は遊び回ったりしているうちに、みな墓屋のあたりから遠く離れてしまった。
その時、太秦(ウズマサ)の北の森のあたりに、大勢の人の声がする。鈴の音が大きく、あるいは小さく盛んに鳴り響いている。
これを聞くと、胸が塞がり、大変恐ろしく思われたので、高い所に登って見てみると、錦の帽子を被った者が、斑の狩衣を着て、熊皮の行縢(ムカバキ・乗馬の時などに、腰に付け脚部の前面を覆う用具。)を着て、斑の猪の尻鞘(シリサヤ・鞘を痛めないように覆う袋。)をした太刀を佩き、鬼のような鷹を手に止まらせて、高く鳴り響く鈴をその鷹に付けて、鷹が飛び立とうとするのを手の上に引き止め引き止め、見るからに早そうな馬に乗り、数人が嵯峨野に散らばってやってくる。

その前面には、藺笠(イガサ・藺草で編んだ笠。狩猟などに用いられた。)を被った者が、体には紺の狩衣を着て、腕は赤い皮を袖として、袴にも皮を付け、膝にも何かを巻き付け、貫(ツラヌキ・毛皮の沓。)を履き、杖を突きたてて、獅子のような犬に大きな鈴を付けてやって来る。それらの鈴が鳴り合って空に響き、隼のような早さで迫ってくる。
この様子を見て、目がくらみ動転して、「これは大変だ。我が妻子たちを早く呼び戻して、隠れなくてはならない」と思って辺りを見たが、あちらこちらに散って遊んでいて、呼び戻すことが出来ない。
そこで、西東も分からないままに、深い藪がある所に逃げ込むと、自分の大切な太郎もその藪に隠れていた。

その間にも、犬飼や鷹飼はみな野に広がって、あちらこちらにいる。犬飼は杖で藪を打ち叩き、多くの犬に匂いをかがせている。
「えらいことになってしまったぞ。どうすればいいのか」と思って座り込んでいると、一人の犬飼が、この太郎が隠れている藪に近寄ってきた。そして、犬飼が杖で藪を打つと、生い茂っている薄も杖にあたって皆倒れ伏した。犬は鈴を鳴らして、鼻を土に付けて匂いをかぎながら近寄ってくる。

「もう駄目だ」と見ていると、太郎は恐怖に堪えられず、空に飛び上がった。
それを見て、犬飼が大声で叫んだ。すると、少し離れて立っている鷹飼が、鷹を放って飛びかかって行かせた。太郎はさらに高く飛んでいくと、鷹は下から羽を[ 欠字・欠文あり、不詳。]。
そして、太郎は力尽きて舞い降りてくるところを、鷹は下から飛びついて、腹と頭をつかみ、地上に転げ落ちた。犬飼は走り寄って、鷹を引き離し、太郎を取って、首の骨を掻きねじりへし折った。
その間、太郎の悲しげな声を聞くに付け、もう生きているとは思えず、刀で以て心臓を切り裂かれるような思いであった。

「次郎はどうしているだろうか」と思っていると、また、次郎が隠れている藪に向かって、犬が土をかぎながら近寄っている。「ああ、危ない」と見ていると、犬はさっと走り寄って、次男をくわえ挙げた。次郎は羽をばたつかせて必死にもがいたが、犬飼が走り寄って、首の骨を掻きねじりへし折った。
「三郎はどうしているのか」と見遣ると、三郎が隠れている藪に向かって、犬が土をかぎながら近寄っている。三郎が堪えきれずに立ち上がると、犬飼は杖で三郎の頭を打ち据えて、打ち落とした。

「子供たちはみな死んでしまった。せめて妻だけでも生き残ってくれ」と切ない気持ちで見ていると、まだ犬飼が近付く前に、妻は素早く飛び立って北の山の方に逃げた。
すると、鷹飼がそれを見つけて、鷹を放って襲わせ、馬を走らせて後を追った。妻は飛ぶのが早く、遠く離れた松の木の根元にある藪に逃げ込んだ。だが、犬が続いて藪に飛び込んで、妻をくわえた。

鷹は松の木に止まっていたので、鷹飼は手元に呼び寄せた。その後、自分が隠れている藪は、草も高く茨も茂っているので、その中に深く隠れていたが、一匹どころか、五、六匹の犬が鈴を鳴らして、自分がいる藪に向かってやって来た。
自分は堪えられなくなり、北の山の方に向かって逃げ出したが、空には多くの鷹がおり高くあるいは低く飛びながら追ってきた。下には多くの犬が鈴を鳴らして追ってくる。鷹飼も馬を走らせて追ってくる。
犬飼は、杖で以て藪を打ちつつ、[ 欠字。]る。こうした中を、飛んで逃げてようやく深い藪に逃げ込んだ。鷹は、高い木に止まっていて、鈴を鳴らして自分がいる所を犬に教えている。犬は鷹が教えるのに従って、自分が逃げ込んだ所を捜して、匂いをかぎながらやって来る。
もうこれ以上は、逃げる手立てがない。犬飼の獲物をあきらめさせ追い込む声は、雷が鳴り響いているようである。悲しく、どうすることも出来ないままに、下が湿地になっている藪の中に、頭だけを隠して、尻を逆さまにして伏せっていた。犬は鈴を鳴らして迫ってきたので、「もうこれまでだ」と思った・・・』
そこで、夢から覚めた。

汗みずくになって、「ああ、夢だったのだ」と思うと共に、「さては、自分が長年の間、鷹を使う仕事をしてきたことが夢となって見えたに違いない。長い年月、多くの雉どもを殺してきたが、その雉どもは、今夜の夢の中で自分が思ったような、悲しい思いをしたのであろう。大変な罪を犯したものだ」と、たちどころに夢の意味を悟った。
男は、夜が明けるや否や、鷹屋に行き、並べて止まらせている鷹どもを、すべての足緒を切って逃がした。犬は首縄を切って追い放った。鷹や犬を飼育する道具を、みな取り集めて目の前で燃やしてしまった。
その後、妻子に向かってこの夢のことを泣く泣く語って聞かせ、自分はそのまま尊い山寺に行き、髻(モトドリ)を切って法師となった。

その後は、修行一途の僧となって、日夜に弥陀の念仏を唱えて、十余年という年月を経て尊い最期を遂げたのである。まことにこれは尊いことである、
となむ語り伝へたるとや。

      
☆   ☆   ☆ 

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秘蔵の硯 ( 1 )  ・ 今昔物語 ( 19 - 9 )

2023-01-23 14:18:39 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 秘蔵の硯 ( 1 )  ・ 今昔物語 ( 19 - 9 ) 』


今は昔、
村上天皇の御代に、小一条の左大臣(藤原師尹、969 年没。)という人がいらっしゃった。貞信公と申し上げた関白の五郎の男子(五男)であられる。
その左大臣に、とても大切に育てられている娘が一人いらっしゃった。容姿が美しく、心優しい方であったので、父母はこの上なく慈しんでいた。

ある時、天皇がこの事をお聞きになり、女御として差し出すようにと仰せになられたので、「差し出そう」ということになり、急いで用意をしていたが、御[ 欠字。「髪」か? ]の道具や、調度品など、思いつく限りの品々を手を尽くして調えられた。その中でも、御硯箱は特に立派な物であった。その中に硯が入っていたが、これは先祖伝来の物で、昔から大変貴重な宝物であった。
沃懸地(イカケジ・漆塗りの地に金銀の粉を流した物。)に蒔絵をした硯の様も美しく、炭ののりぐあいなども世に比べるものとてないほどの物なので、調度品の中でも特に貴重な物とされていた。そのため、簡単には人に見せることもなく、ご自分のそばにある二段になった厨子に錦の袋に入れて置いておられた。
「女御として入内する日になって、箱に入れよう」と思って、厨子から取り出さずに置かれていたのであろう。 
天皇もその事をお聞きになって、もともとそうした物に興味をお持ちだったので、「あの硯もあるということだな」とお尋ねになられたので、大臣も自分があのような宝物を持っていて、調度品の中に加えることが出来ることを、誇らしいことと思っていらっしゃった。

ところで、その屋敷に、多少生まれの良く年若く容姿も悪くない男が仕えていた。
大臣がこの男に、「身の回りの掃除などをせよ」と命じていたので、毎朝掃除をしていたが、この男は、少しばかり書をたしなむ者だったので、この御厨子の中の硯を何とか見たいものだと思っていた。
ある日、大臣が参内なさっていて、北の方はご自分の部屋で姫君の衣装のことなどを指図するとて、姫君と一緒にいらっしゃった。女房たちも、ある者は北の方の供をしており、あるいは各々姫君入内の準備にいそがしく、それぞれの局にいた。
このように、他に人がいない状態になっていたので、この掃除を命じられていた男は、「今なら、そっと御厨子を開いてあの硯を見ても、誰も気がつくまい」と思って、硯箱の下にあった鍵を取り、厨子を開き、あの硯を取り出して見ると、まことに伝え聞いていたより言いようもないほどすばらしいので、うっとりと、手のひらに乗せて差し上げ差し下ろしてしばらく見ていたが、人の足音がしたので、あわてて元の所に置こうとしたが、取り
落してしまった。
硯は真っ二つに割れてしまった。
男は動転し、茫然としてしまって、まるで護法童子が乗り移ったかのように(加持祈祷などで、法力によって仏神が乗り移って悪霊を追い出すときに、祈祷を受けている者が震え出す状態を指している。)振るえだし、目はくらみ胸は激しく波打ち、涙を流して声を挙げて泣き出した。
「大臣がこれを見ると、何と言われるだろう。自分はこの先どうなるのだろう」と思ったことであろう。男の心中を察すると、まことにどれほど辛く悲しかったことであったろうか。

ところで、この足音の主は、このお屋敷の若君であった。
その若君は、姿形が美しく、優しい心の持ち主であった。年は十三歳で、もう元服される年令であるが、御髻(モトドリ)の美しいのを惜しんで、今まで元服されておられなかった。まだ少年ではあられるが、学問も優れていらっしゃる。
その若君が、この男が硯を打ち割って、茫然として恐れおののき、まるで死人のようになっているのを見て、何があったのかと思い、「これは、いったいどうしたのだ」と訊ねると、この男は泣くばかりで、答えることも出来ない。
若君は、この男をたいそうかわいそうに思い、この硯の割れた物を拾って、もとのように厨子に納めて、鍵をかけた。
そして、この男に、「そなたは、それほど嘆くことはない。もしこの事を聞かれたら、『若君が、この硯を取り出してご覧になっているうちに、割ってしまわれたのです』と言うがよい」と教えた。
男はこれを聞いて、どれほど感激したことであろう。まことに嬉しく思い、這うようにして去って行った。

しかし、やはり男はひどく気がとがめたが、この事を誰にも話さず、ぼんやりとしていたが、やがて大臣が内裏から帰ってこられて、「いろいろ品物を取り出そう」と思われて、厨子を開いてご覧になると、あの硯が袋から取り出されていて、見事なまでに真ん中から割れている。それを見るや、目がくらみ、驚きで茫然としていた。
大臣は、しばらく気を静めて、女房に訊ねられると、知らないと答える。
そして、「いつもの掃除をする者が参っておりました」と申し上げたので、かの男を呼んで、「この硯が割れたのは、どういうわけだ。お前は知っているのか」と訊ねると、男は顔が真っ青になり、袖をかき合わせて、ひれ伏した。
大臣は短気な人なので、目を怒らせて、「おい、はっきりと申せ、申せ」と厳しく問い詰めると、男は震えながら、あえぎあえぎ「若君様が・・・」と二言ばかり申し上げると、大臣は、「なに、何と申したか」と大声で問い詰められたので、男は、「取り出してご覧になろうとなさいましたときに、取り落とされて打ち割ってしまいました」と申し上げると、大臣は何もおっしゃられず、「もうよい、早う下がれ、下がれ」と男に言われたので、男は這いずるようにして立ち去った。

                   ( 以下 ( 2 ) に続く )
     
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秘蔵の硯 ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 19 - 9 )

2023-01-23 14:17:55 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 秘蔵の硯 ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 19 - 9 ) 』


    ( ( 1 ) より続く )

大臣は奥の間に入り、北の方に仰せられた。
「この硯は、我が息子が割ったのだ。もう、あれは我が子ではない。前世の敵だったのだ。このようにとんでもない者を、よくも長年大切に育ててきたものだ」と言って、声を挙げてお泣きになる。
北の方もこれを聞いてお泣きになる。女房たちも、何か不吉に感じられるほどに寄り集まって泣いている。ましてや、若君の乳母の悲しみは何とも言いようもない。

しばらくして大臣は、「私は、あの子の顔は見たくもない。親子の間だから、年が経って顔を合わせることもあるかもしれないが、すぐには見たくもない。今すぐに乳母の家に連れて行き、そこに預けよ」と言うと、情け容赦もなく追い出したので、乳母は人の車を借りて、しょんぼりとして、「情けない」と思いながら、取るものも取りあえず、泣く泣く若君を連れて屋敷を出た。
道々、乳母も泣き、若君も泣き続けていた。

若君は、乳母の家に着いて見てみると、ひどく荒れ果てた小さく狭い家であった。見慣れぬ様子に物恐ろしく、心細い思いで過ごしていたが、ある日の夕暮れ方、心もしおれた様子で、独り言のようにこのように詠んだ。
『 こころから あれたるやどに たびねして 思(オモイ)もかけぬ 物思ひこそすれ 』
( 自分が言い出したことではあるが このような荒れた家に 寝起きすることになり 思いもしなかった 悲しみを味わうことになってしまった )
若君の打ちひしがれた姿を見て、乳母もどれほど辛い思いがしたことであろう。
若君は、とても美しい心の持ち主だったので、お屋敷内の人はみな泣き泣き密かに若君のもとを訪れていた。とりわけ、仕えていた侍たちは、互いに相談し合って宿直に行っていた。

やがて、三、四日経った頃、若君は気分がすぐれず、熱を出して寝込んだ。さらに、三、四日経つと、「これは本格的な病だ」という状態になり、大変苦しんでいるので、乳母は北の方のもとにこの由を告げに行かせたので、北の方はそれを聞いて驚き、大臣に、「あの子は、この三、四日熱を出し苦しんでいます」と申し上げると、大臣は、「あのような分別のない者は、生きていても仕方あるまい。このついでに死んでしまうのも良いことである」と仰せられて、心配される様子がない。
北の方は嘆き悲しみ、行って様子を見たいと思われたが、大臣がたいそう腹を立てておられるので、女の身
でままならず、気安く見に行くことが出来なかった。そこで、北の方はその気持ちを手紙にして、乳母のもとに遣わした。
乳母が、若君の枕元で母からの手紙を読むのを、若君もそれを伏せったまま聞いておられた。

そして、七日ほどが過ぎた。この日は、厳重な物忌みの日に当たり、誰一人訪れない。
その日の亥の時(イノトキ・午後十時頃)の頃、若君は危篤状態に陥った。しかし、厳重な物忌み中なので、この由を北の方にもお知らせしなかった。
翌日の寅の時(トラノトキ・午前四時頃)の頃になったので、「もう、物忌みも開けたであろう」と思って、北の方の御許に若君が危篤状態になっていることを書いて、持って行かせた。
また、若君も父母をたいそう恋しく思われているご様子であったが、遠慮して口に出すことも出来なかったのであろう。乳母は、その様子を見るにつけ堪えられないほど悲しかった。
すると若君は、独り言のように詠まれた。
『 あけぬなる とりのなくなく まどろまで こはかくこそと しるらめやきみ 』
( 夜明けを告げる 鳥が鳴いているが 私はご両親が恋しくて まどろむことさえなく泣き明かしました このことを ご両親はご存知なのでしょうか )
と、苦しげな息の下で詠まれるのを聞くに付けても、乳母はどうしようもなく辛くなり、この歌と私信を書き添えて、お届けした。

北の方は、この手紙を見て、若君の歌と乳母からの手紙の二つを、泣きながら大臣に読み聞かせなさると、大臣も、もともとたいそう可愛がっておられた子でもあるので、「それほど大したことではないと思っていた。ほんとうに重態であれば、実に悲しいことだ。すぐに行ってみよう」と仰せられて、北の方と一つの車に乗って、行く先がみすぼらしい所なので、お忍びで泣く泣くいらっしゃった。

                   ( 以下 ( 2 ) に続く )
 
     ☆   ☆   ☆

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秘蔵の硯 ( 3 ) ・ 今昔物語 ( 19 - 9 )

2023-01-23 14:17:22 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『秘蔵の硯 ( 3 ) ・ 今昔物語 ( 19 - 9 ) 』


     ( ( 2 ) より続く )

乳母の家に到着し、大臣と北の方が車から降りて、急いで若君の枕元に近寄ってご覧になると、聞いていたよりさらに深刻な状態で伏せっていた。
若君のお姿に大臣は、「百千の金銀の硯とて、何になろうか。ただ思慮分別のない者と思って、腹立ちまぎれに追い出したが、ああ、かわいそうなことをした。私は、何をどう間違って、お前を追い出してしまったのだろうか」と悔い悲しんで、こう詠まれた。
『 むつごとも なににかはせむ くやしきは このよにかかる わかれ成けり 』
( 親子として交わした睦まじい語らいも 今となっては何になろうか まことに悔しいことは 今生において このような別れをしなければならないことだ )☆☆☆
と。
そして、すでに意識も薄らいでいる若君の耳に顔を押し当てて、「我が息子よ。私を無情な親と思っていることだろう」と泣きながら仰せられると、若君は息も絶え絶えに、「どうして親を、そのように思いましょうか」とお答えになった。大臣は悲しさに言葉もなく、声を抑えることもなく悔い泣き続けられたが、今さら何の甲斐もない。

若君は、苦しい息のもとで、
『 たらちねの いとひしときに きえなまし やがてわかれの みちとしりせば 』
( 父上が お叱りになったあの時に 死んでおればよかったものを やがてほんとうの別れが やってくることを知っておれば )
と仰せられて、あれほど苦しげな様子でありながら、弥陀の念仏を十度ばかり高々と唱えて、息を引き取られた。
その時の父母の悲しみを言い表すことなど出来ない。
とても長い御髪(ミグシ)がお体にそって流れ、美しいお顔は何事もなく寝入っているようにして伏せっておられるのを、父も母も乳母も、狂わしいまで嘆き悲しむこと限りなかった。
しかし、やがて日も過ぎて、作法通りに棺に納める。その家は粗末なので、もとのお屋敷に帰ってからその後の仏事などを執り行った。

こうして、三七日(ミナノカ・二十一日)ばかり過ぎた頃、あの掃除にやって来た男が、ここ数日は姿を見せていなかったが、屋敷にやって来た。大臣がご覧になると、黒い喪服を着ている。
大臣はそれを見て不審に思い、「お前の親が亡くなったとは聞いていないが、誰の喪に服しているのか」とお訊ねになると、男はうつ伏して、激しく泣き出した。大臣は、ますます不審に思い、「何があったのか」と重ねて問いただされると、男は、「若君の喪に服しております」と答えたので、大臣は、「いったいどういうわけだ。多くの人の中で、お前だけが特別に喪服を着ているのは」と仰せられると、男は泣きながら答えた。

「私は、御硯が立派だということを聞いて、ぜひ拝見したいと思う余り、殿様が参内されているうちに、密かに取り出して拝見しているうちに、取り損ねて落して割ってしまいました。ちょうどそこに若君がおいでになられ、嘆き悲しんでいる私をご覧になって、『この事は私の仕業にせよ。お前がそれほど困っているのは気の毒だ。私の仕業にすれば、大したことにはなるまい。お前の責任になれば、咎を受けるだろう』とおっしゃって下さいましたので、畏れ多いことですが、罪を遁れたいために、あのように申し上げたのでございます。ところが、若君がその咎をお受けになったことだけでも悲しく申し訳なく思っておりましたのに、すぐにお亡くなりになったとお聞きして、まことに悲しいことと思い奉りましても、とてもそのような言葉では及びませんので、せめてのこととしまして、喪服を着ているのでございます」
と言って、泣きながら、
『 なみだがは あらへどをちず はかなくて 硯のゆへに そめし衣は 』
( 私がいくら涙を流しても 洗い落とされることはないでしょう 私の硯の罪を被って亡くなられた若君のために 黒く染めた衣を着続けます )
と詠んで、激しく泣いた。

大臣はこれを聞いて、ますます嘆き悲しみ、部屋に入って泣きながら北の方に、「あの子には何の罪もなかったのだ。ほんとうはこういう事だったのだ」と仰せられるのを、北の方はお聞きになって、どれほどお嘆きになったことだろう。
大臣は、「あの子は、並の人間ではなかったのだ。私は、その子に罪を着せてしまった」と言って嘆き後悔された。また、乳母もこれを聞いて、どんなにか悲しく哀れに思ったことだろうか。

その後、この男は行方をくらました。男には父母も妻子もいて、男の行方を捜したが、分からないままであった。
そして、侍所の障子には、男はこのように書き残していた。
『 むまたまの かみをたむけて わかれぢに をくれじとこそ をもひたちぬれ 』
( 我が罪をあがなうために 我が黒髪を若君にたむけて 若君の冥土の旅に お供しようと思います )
きっと、男は、髻(モトドリ)を切って法師となり、修行に出たのである。この世の哀れを思い知っている男である。

これをお聞きになるにつけ、父母・乳母の若君への思いは尽きず、嘆き恋い慕った。
だが、父母も乳母なども、出家することはなかった。この男は、若君の恩に報いようと出家して、ひたすら仏道を修行して、若君の後世を弔った、
となむ語り伝へたるとや。

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妻を失う ・ 今昔物語 ( 19 - 10 )

2023-01-23 14:16:32 | 今昔物語拾い読み ・ その5

       『 妻を失う ・ 今昔物語 ( 19 - 10 ) 』


今は昔、
[ 天皇名が入るが意識的な欠字。]院の天皇が、まだ春宮(トウグウ・東宮に同じ。)でいらっしゃった時、蔵人に[ 姓が入るが意識的な欠字。]の宗正(伝不詳)という者がいた。
年若く、容姿美麗にして正直な心の持ち主であったので、春宮はこの者を信頼なさって、何かにつけて用事を言いつけていらっしゃった。

ところで、この男の妻は、姿美しく性質も優雅であったので、男はこの上なく愛し、仲睦まじく暮らしていたが、その妻が重い流行病にかかり、何日も病床にあった。夫は心から嘆き悲しみ、様々に祈請したが、遂に亡くなってしまった。

その後、夫がいくら愛しているからといっても、いつまでもそのままにしているわけにはいかず、棺に入れて、葬送の日がまだ先なので、十日余り家に置いていたが、夫はこの亡くなった妻を限りなく恋しく思っていたので、その思いに堪えられず、棺を開けて中を覗いてみた。
すると、あの美しかった妻の、長かった髪は抜け落ちて、枕元に散らばっており、愛らしかった目は、木の節が抜け落ちた跡のように空洞になっている。肌の色は黄黒に変じていて恐ろしげである。鼻柱は崩れて穴が二つ大きくあいている。唇は薄紙のようになって縮んでしまっているので、白い歯が上下噛み合わせたように残らず見えている。
その顔を見ているうちに、何とも恐ろしくなり、もとのように蓋をしてその場を離れた。死臭が口や鼻にまとわりつき、言いようもないほど臭く、むせるようであった。

それから後は、この時の面影ばかりが残っていて消えることがなく、そのため深く道心が生じ、「多武峰(トウノミネ・現在の奈良県桜井市南部あたり一帯。)の増賀聖人(ソウガショウニン・天台宗の僧。1003 年没。)はまことに尊い聖人だそうだ」と聞いて、「その人の弟子になろう」と思い至って、現世の栄華を棄てて、密かに家を出ようとしたが、男には四歳になる女の子がいたのである。あの亡くなった妻との子である。姿はたいそう愛らしく、この上なく大切にしていて、その子の母が死んだ後はいつも一緒に寝て離れることがなかったが、この日は、明け方には多武峰に出立すると決めていたので、乳母の所で抱き寝させていた。
ところが、その子は、大人たちにさえ全く知らせていなかったのに、この出家のことを幼子は気づいたらしく、「父上は、私を棄ててどこへ行かれるのですか」と言って、袖を引っ張って泣くのを、なだめすかし軽く叩いて寝かしつけ、その隙にそっと抜け出したのである。

道すがら、幼子が取りすがって泣く声や姿が耳に残り心にかかり、悲しく堪えがたい思いであったが、道心が堅く生じたあとなので、「どうしても、留まってはならない」と堪えて、多武峰に行き、髻(モトドリ)を切って法師となり、増賀聖人の弟子として、熱心に修行を積んでいた。
ある時、春宮がこの事をお聞きになって、たいへん哀れに思われて、和歌を詠んで遣わされた。
入道(宗正を指す)はこれを見て感激して涙を流したのを、師の聖人がその様子を物陰からご覧になって、「この入道が泣くのは、ほんとうの道心が生じたからなのだ」と尊く思って、「入道は何事に泣いておられるのか」と訊ねると、入道は、「春宮様からお手紙を頂きましたので、このように出家した身ではありますが、さすがに懐かしく思いましたのです」と言って泣くと、聖人は目を鋺(カナマリ・金属製のお椀。目を怒らせている表現。)のように見開いて、「春宮のお手紙をもらった人は仏になれるというのか。お前はそのような考えで頭を剃ったのか。誰が『法師になれ』と言ったのか。ここから出て行かれよ。この入道め。さっさと春宮のもとに参って仕えるがよい」と、荒々しく叱りつけて追い出したので、入道はそっと出て行き、近くの僧坊に行って隠れていたが、聖人の怒りが静まるのを待って、師のもとに帰っていった。
この聖人は、とても短気な人であった。しかし、すぐ腹を立てるが、すぐに怒りがおさまる人でもあった。たいそう厳しく、気性の激しい人であった。

宗正入道は、最後まで道心を失うことなく、熱心に修行を続けた。世間の中でも極めて道心の堅い人であったとみなが誉め尊んだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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