雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

原発政策は冷静に ・ 小さな小さな物語 ( 432 )

2013-02-06 19:08:17 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
原発の今後については多くの意見が錯綜していますが、今こそ冷静な議論がなされ、それも拙速ではなく、本当の意味での英知が結集された形での方針が出されることを願っています。
特に、間もなく衆議院議員選挙が行われるでしょうが、故意なのか無知なのかはともかく、現実を無視したような政策が堂々と列記されることは、これまでの選挙で嫌というほど見せられてきました。次の選挙でも、またまた似たような状況になると思うのですが、今度は有権者も少しばかり真剣に正否を見分けられるよう努力しましょうよ。


その、『夢』のような公約の中に、原発政策も入れ込まれるのではないかと懸念しています。
もちろん、この夢は、「将来への夢」などとは別次元の、寝惚けたような『夢』のことを指しています。
わが国の電気エネルギーの調達源を原子力に求めない、ということには多くの人が賛成だと思われます。私もその一人です。
しかし、現実の社会を考えてみた場合、放射性物質が怖いという観点だけで結論を急げば、多くの問題を生み出してしまう可能性があります。


例えば、わが国にとっていえば、短期的には電力料の高騰は避けられないでしょう。発電と送電の分離とか、合理化だとか、改善余地はあるとしても、相当の高騰は避けられないでしょう。そのくらいは節電で家計を守ればよいという考え方もありますが、企業がそのコストを吸収するのは大変なことです。
企業の場合は、節電や省電力機器を作りだしても、海外の企業も追随してきます。間違いなく、海外勢に負けるか、工場を国外に移すことでしょう。電力料の高騰や、電力の供給不安で怖いのは、雇用の喪失なのです。
世界的な規模で見れば、石油資源の高騰に力を貸すことになるでしょう。少しくらい高くなっても他の物を節約して輸入すればよいという人もいますが、現在苦しい状態にある国や地域は、さらに酷い状態になるでしょう。
石油価格の高騰は、バイオ燃料の生産を進めることにもなります。そしてそれは、飢餓状態にある人たちに致命的な打撃を与えるでしょう。その人たちに回されるはずの小麦やトウモロコシのかなりの部分が先進国のバイオ燃料となるでしょう。


原発の怖さは、十分知らされました。それらを制御する体制が未熟なことも知りました。
しかし、わが国には、現実として54基の原発があるのです。世界には400基を越す原発があり、なお計画中の物も少なくありません。これが、現実なのです。
わが国は、この54基の原発をいかにコントロールし、代替エネルギー源の開発を急ぎ、そして何よりも大切なことは、廃炉技術を確立させることなのです。
廃炉技術が確立しない限り、原発廃止など出来るわけがありませんし、いたずらに電力会社や研究者の力をそぐような行動や対策は禍根を残すことになるはずです。
冷静な議論や方針決定がなされることを祈るばかりです。

( 2012.09.06 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しつけ ・ 小さな小さな物語 ( 433 )

2013-02-06 19:07:00 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
夏休みが終わるとともに、幼児や子供たちをめぐる犯罪などの悲しい報道が増えています。
これまでは隠されたり埋没していたものが表面化してきた一面もあり、そのことは辛いことではありますが進歩しつつあると考えるべきかもしれません。
それらの犯罪の中で、幼い子供に対する父や母や保護者であるべき人により虐待や、あきらかに殺傷を意識したとしか思えないような事件は、ひときわ辛いものです。


保護者による子供に対する犯罪の場合、その加害者の多くが「しつけのためだった」と供述しているようです。
全くの言い逃れのための発言が大部分だと思うのですが、中には、かなり本気で「しつけが行き過ぎた」ためだと考えている加害者もあるというのです。
特に、実母によるこの種の発言は、被害者である子供はもちろんのこと、加害者である実母に対してもとても辛くなってしまいます。その行為に対しては一片の同情もわきませんが、そんな神経や感覚を持つにいたったことに唖然とした気持ちにさせられるのです。


かつて、私たちの国では、「子供は七歳までは神様の領分」に入れられて大切に育てられたそうです。
もちろん、「間引き」とか「売買」とか、忌わしい歴史を覆い隠すつもりはありませんが、厳しい環境の子供を町内の人たちが気配りするとか、他所の子供であっても怒鳴りつける頑固親父などは、つい最近までは珍しくもない光景でした。
戦国時代前後に多く来日した宣教師たちの記録にも、日本人が子供たちを実に大切に育てることが幾つも残されているそうです。
例えば、「残酷な刑罰を行う日本人だが、子供に対して体罰を与えることなどほとんどない」とか、「幼い子供に対しても、一人前の大人と同じように説諭でしつけようとしている」などといった具合にです。


私たちは、いつの間にか「しつけ」のあり方を間違えてしまったのではないでしょうか。
「いじめ」であるとか「虐待」であるとか区別することに私自身は反対で、いずれも全くの犯罪だと考えているのですが、その加害者に対して、その子供の頃に適切な「しつけ」を受けて育っていたら、もう少し違う解決方法を模索したのではないかと考えてしまいます。さらに、その加害者を「しつけ」すべき人たちさえも、すでに適切な「しつけ」を受けずに育っていたため、それは無理な話のような気さえしてしまうのです。
それは、単なる子供たちに対する犯罪ばかりでなく、社会の指導的立場で活動していると思われる人でさえ、あまりにも稚拙で、あまりにも無慈悲で、あまりにも無知な行動が目立つのも、彼らが幼い頃に適切な「しつけ」を受けていなかった証左ではないかとさえ考えてしまうのです。
個々の人は、何の「しつけ」や「指導」を受けなくても、格調高く育つ人は育ちます。しかし、普通の人が普通の努力をすれば普通に生活することが出来る、温かくて公平な社会を目指すとすれば、幼児期にごく基本的なものに対して正しいものと間違っているものを判別すべき「しつけ」を行う必要があるように思うのです。
私たちは、いつの頃からか、何かを間違えてしまっているのではないでしょうか。

( 2012.09.09 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

責任の在り処 ・ 小さな小さな物語 ( 434 )

2013-02-06 19:05:58 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
たった一人で自給自足の生活が可能であれば、「責任の在り処」などという面倒な問題は起きない。
まあ、そんな場合でも、案外に何かに責任を求めるかもしれない。
例えば無人島で生活するようになっても、飲み水が十分でないのはお天道様の所為であり、木の実が十分採れないのは、その木が横着を決めているからだと当たり散らすかもしれない。
どうやら、私たちが自分の責任は認めたくなく、他人には厳しく追及してしまうのは、どうすることも出来ない悲しい性なのかもしれませんね。


私たちの社会では、指導的立場であるべき人たちが、責任などというものにあまりにも無神経な様子を見ていると、どうもこれは個々の問題ではなく、人間の性なのかも知れないと思ってしまうのです。
この指導的立場というのは、国政にあたる人とか、知事とか市長などといった政治的な人ばかりでなく、例えば教育現場であれば、生徒に対しての校長や教師、企業であれば経営者はもちろん、課長や係長であっても小たりといえども指導的立場にあるといえるでしょう。
一家にあっては、かつては親父がその立場だったのですが、今もまあそれに近い立場でしょうし、子供たちにとっては母親は間違いなくそうでしょう。


このように考えていくと、社会に身に置いている以上は、ごく幼い子供を除けば、何らかの責任を背負わなくては生活していけないということになります。
例えば車を運転している場合、ほとんど無意識に近い状態でハンドルを握っていますが、その行為には数多くの負わなくてはならない責任を背負っているということになります。
そのようなことをいちいち考えていては息が詰まってしまいますが、権利を主張したり便宜を得たりする裏には、必ず対価としての義務があり、果たさなければならない責任があるものです。ごく簡単な原理で、背負うべき責任は背負うというのが、一般社会の最も基本的なルールの一つだと思うのです。


ところが、不思議なことですが、この簡単なルールがうまく運用されない部分も少なくないのです。ちょうどサッカーのオフサイドのような、実に微妙な部分があるからですが、故意に複雑にして、このごく簡単なルールから逃れようとする輩もごく少数ですがいるようなのです。
本来は、「責任の在り処」などは、探すまでもなく明白なはずなのですが、ずる賢いのか図太いのかは知りませんが、ルールをややこしくする達人がいるみたいなのです。
ところで、財務大臣という職責には、国家財政を円滑に運用させるというものも含まれているのではないでしょうか。理由はともあれ、地方交付税さえ配布出来ない今の状態は責任を取るべきだと思うのですが、そんなものは職責外と考えているのでしょうか。

( 2012.09.12 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つながり ・ 小さな小さな物語 ( 435 )

2013-02-06 19:04:53 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ふと、思うことがあります。自分がどのような「つながり」の中で生きているのだろうかと。
それほど深刻な問題としてではないのですが、予期せぬ訃報などに接した時には、ふと、そんなことを考えたりするです。
「つながり」などという言葉にすれば随分抽象的になってしまいますが、例えば、大げさに考えれば、私たち人間が生存しているのは、地球あってのことですから、この宇宙の法則に縛られてのことであることは疑問の余地はありません。つまり、私たちは、宇宙という大自然の法則に、「つながり」などという生易しいものではなく、がんじがらめに縛られていることになります。
それほど大げさなことではなく、人間関係だけで考えた場合も、これがなかなか難しい問題を含んでいます。


私たちは、自分を中心として円形の人間関係を築いているとします。真ん丸な円形ではないでしょうし、大きさも人さまざまでしょうし、濃密さにも差があるでしょう。また、一人の円形の中でも濃淡さまざま、色合いさえ違っているのかもしれません。
そしてその円形は、一人一人全く別のものと思われます。同心円に近いものはあるとしても、大きさや歪みまで一緒などということはないはずです。夫婦が同一の円形を持っているなどと考える人は極めてまれでしょうが、例え双子の人であっても早い段階で別々の円形を持つようになるはずです。


私が持っている円形の中にいる人は、全ての人がそれぞれの円形を持っています。ある部分は重なりながら、多くのものは私とは無縁の方向に広がっています。その無縁の方向の人も同様の円形の人間関係を持っているはずですから、最も無縁な方向に十人も広がって行けば、予想もつかないような人物が登場してくることでしょう。
私たちは日常生活の大半を、この自分だけの円形の中で生活しています。それ以外の人と、つまり円形内の人より遥かに多い円形外の人と毎日のように接しているのですが、全く無関心に、たとえ興味を示したとしても、それは、パンダやスズメバチに興味を示すのと大差ないみたいなのです。


そして、もう一つ。私たちは一人一人が独自の円形を持っていると述べましたが、どうもそうではなく、多くの円形を持っているのかもしれないという気もするのです。それとも、瞬時に変形する、伸縮自在の円形なのかもしれません。
自分に有利なことに対しては無限かと思われるほどに広がり、自分に不利と感じると近しい肉親さえ弾き出すほどに縮まる、変幻自在の円形なのかもしれません。
東北の大惨劇の後には、「絆」という言葉がやたら使われました。決して自分に有利になることでなくても、これほど自分の円形を広げることが出来るのだと感動するほどの広がりでした。
ただ、私たちの円形は、それほど持続力がないみたいなのです。僅か一年半で「絆」という文字を見ることが少なくなりましたし、各自の円形は相当しぼんだらしく、瓦礫の受け入れ先さえ難航しているという体たらくです。
しかし、それを責めることなど出来ません。人間のごく自然な形なのですから。
従って、人々のあるがままに放置しておけば、汚いものはより汚く、弱いものはより弱く、貧しいものはより貧しくなるようになっているのでしょう。
それを防ぐ方法として行政があり、私たちをリードしてくれるリーダーを選ぶ制度を考え出しているのです。
次の選挙では、少しばかり円形を広げ、濃度を高めて、もう一度政治に期待しましょうよ。

( 2012.09.15 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

故人を偲ぶ ・ 小さな小さな物語 ( 436 )

2013-02-06 19:03:55 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
このところ、訃報に接したり、法事があったりで、少々神妙な日々を過ごしています。
法事の方は、私が主催するものではなく、参加させていただく方なので精神的な負担はそれほどあるわけではありません。それでも法会の対象の方は、近しい関係で、また故人となられて日が浅いため想い出も鮮明なものでありました。


法会は故人の菩提寺である禅宗の寺院で行われましたが、法会の後でたまたま住職の方からお話を聞く機会がありました。
その寺院は、大宗派に属している寺院ではありませんが、本山はとても有名な大寺院で、そこと縁の深い末寺です。歴史は、四百年程だと思うのですが、江戸時代の皇族の位牌が祭られており、何人かの歴史上の人物ともいえる人との縁もあるそうです。
その寺院のご本尊は大日如来ですが、その他にも数体の仏像や高僧の像が祭られています。
その中で一番端に祭られている高僧は、当山の第五代住職だそうです。多分三百年余り昔のお方です。
住職のお話によれば、開山されたお方は、大変著名な高僧だそうですが、この第五代住職というお方は、大変頭の良いお方だったそうで、それも世辞にあかるく、薬などの製法を商人に教えたりして、豊かな檀家が多く付き、この時代にこの寺院が相応の寺領や本堂を構えることが出来たらしいのです。


以上は、ほんの立ち話としてお聞きしたことですから、どの程度正確なのかどうか分かりませんが、とても興味深くお聞きしました。
一つの寺院が数百年の歴史を有して存続するためには、精神的な主柱となられたお方の存在はもちろん必要だとしても、経済的なものも含めて世俗的な貢献を果たされたお方も絶対必要だと思われます。
そして、それは、寺院などに限らず、企業においてもしかり、個人生活においてもしかりと思われます。
今回の法会の正面に飾られている遺影は少し微笑んでおられましたが、その九十年に及ぶ生涯には、微笑みだけでは乗り越えられない幾つもの出来事があったことでしょう。


その寺院には、少し早いお彼岸のお参りの家族も見えられていました。
お彼岸といえばお墓参りが連想されるように、重要な仏教儀式のように思われがちですが、彼岸会法要というのは日本独特のもののようです。おそらく、浄土信仰における阿弥陀如来が治められている極楽浄土が、西方遥か彼方にあると信じられていることから、太陽が真西に沈む春分・秋分の日をとても大切な日とし、それに祖先崇拝や祖先供養の信仰が結び付いたと考えられています。
しかし、祖先を崇拝し供養する人々の祈りは、もっと遥か昔からの祈りであって、仏教信仰がそれに結び付いたというのが本当ではないでしょうか。
ところで、明日は彼岸の入りにあたります。お墓に参るのはもちろん結構なことですが、宗教的なことはともかく、一足先に故人となった、祖先や先輩や知己の方々を、ほんの少しだけでも偲んでみるのはいかがでしょうか。

( 2012.09.18 )








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行きつ戻りつ ・ 小さな小さな物語 ( 437 )

2013-02-06 19:02:50 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
厳しい残暑が続いてきましたが、明日は秋分、「暑さ寒さも彼岸まで」という古来の教え通り、さすがの残暑もこのあたりで終わることでしょう。
晴れると日差しはまだ強く、日中は暑い日もあるでしょうが、これからは「行きつ戻りつ」しながら、暑さより寒さが気になる季節へと動いていくことでしょう。


今、古典をベースにした作品を書きたいと資料調べなどをしています。半年ばかり前に思い立ったことなのですが、未だ一行も書いておらず、漠然とした構想を抱きながら、原作とは全く違う形にすべきなのか、それとも、可能な限り原作に添ったものにするべきかと、「行きつ戻りつ」しながら参考資料らしいものを集めています。


今も再放送されることがあるテレビ番組で、一枚の切符として買える最長期間を旅するという番組があります。最近は海外が中心のようですが、結構好きで見てしまいます。
一枚で買える切符というのは(JRだけかもしれませんが)、同一期間を二度通ってはいけないそうです。つまり、「行きつ戻りつ」は認められないことになります。
これなどは、一種のゲームとして、一枚の切符でどれだけ長い距離の切符が買えるかということからスタートしたようですが、旅としては、同じような所をうろうろと「行きつ戻りつ」するのも、それはそれで面白いような気もします。


私たちは、どこかへ行く時には、最短距離を求めることがほとんどです。車で行く場合は、距離よりも時間が優先されるようですが、どちらを選ぶ場合でも「行きつ戻りつ」はお呼びでないようです。
移動だけでなく、何かを学ぶ場合でも、何かの治療でも、何かを楽しむ場合でさえ、最短を選ぶ傾向があるような気がします。つまり、人生そのものを、最短、最速の進路を求めてより高く、より大きな物を手にすることのみに目的化しているように見えてしまうことがあります。
勝った負けたで大騒ぎするようなオリンピックではないのですから、案外「行きつ戻りつ」する道の辺にも、しっとり落ち着いた、あるいは清々しい風が吹きぬけるような景色が見えるかもしれません。

( 2012.09.21 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まわれ右 ・ 小さな小さな物語 (438 )

2013-02-06 19:01:49 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
『まわれ、右!』なんて掛け声、今でも使われているのでしょうか。
子供の頃、運動会で練習した記憶が鮮明に残っていますし、今でも身体に染みついていて掛け声をかけられればうまくやる自信もあります。
その練習をしていた頃のことですが、何十人かが全員正確に決めるのは、なかなか難しかったような記憶があります。小学校の上級性になっても、いつも何人かが失敗するのですが、その多くは反対に回ってしまうのです。


『右向け、右!」というのもありましたが、これは『まわれ右』より易しいはずですが、やはり反対を向いてしまう者が時々いました。
年を重ねて、バリュームを飲んで胃のレントゲン検査をする時、「右を向いて」とか「右から回って」などと技師が声を掛けてくれるのですが、とっさに反応するのが結構難しくて、一瞬右左を考えてしまうのです。
右と左、二つしかないのに、とっさに判断することはそうそう簡単ではなく、『まわれ右』となれば、さらに難しいのは無理ないことかもしれません。


「あの時、左を選んでいたら、どうなっていただろうか」と考えることがあります。
それほど深刻にではありませんが、あの時右に進んだ自分ですが、反対を選んでいたら、良否はともかく、現在とは違う自分があったかもしれないと考えてみたりするのです。そして、その「あの時」は、それほど真剣に検討することなく、ほとんど反射的に右に進んでしまったようにも思われるのです。というのも、多くの場合、「あの時」という曲がり角は、後になって見えてくるからなのでしょう。


『まわれ右』となれば、右左を選ぶよりさらに大きな決断のはずですが、やはり、その転換点は後にならないとなかなか見えてこないもののようです。
『まわれ右』すべき時に決断できなかった企業の例は幾つでもあげることが出来ます。
『まわれ右』すべき時に出来なかったために取り返しのつかない事態を招いてしまった人も少なくないことでしょう。
国家とても同じでしょうし、私たちも同じなのでしょう。
ただ、いずれの場合も、当事者本人が「あの時」をその時点で気付くことは至難の技のようです。従って、国家であれ、企業であれ、私たち個人であれ、「あの時」に気付いた時には、いち早く勇気を持って『まわれ右』を決断することが大切だと思うのです。
ただ、これが、そう簡単でないことも事実なのでしょう。

( 2012.09.24 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

踏み止まる力 ・ 小さな小さな物語 ( 439 )

2013-02-06 19:00:19 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
内外ともに騒がしく、その一つ一つがわが国の凋落の一コマのように思えてなりません。
外交面を見れば、現在、非常に良好な関係にあるといえる国家はどのくらいあるのでしょうか。表面上ぎくしゃくしている様に見える国々でも、経済面を中心に複雑な補完関係が構成されていて、それほど心配するほどのことはないという意見を述べられる人も少なくありません。
しかし、本当にそうなのでしょうか。


つい二十数年ほど前までは、わが国の経済力や技術力は多くの国にとって無視できない存在だったと思われます。
果して、現在のわが国には、例えば平成元年時点と比べて、他国に比べて優位性を増したものに、どのようなものがあるのでしょうか。
外交問題のぎくしゃくが目立ちますが、その原因は必ずしも外交上の巧拙だけにあるのではなく、もちろんそれによる要因も少なくないでしょうが、国力の有無に起因することの方が遥かに大きいのではないでしょうか。


その国力の鍵を握る政治の指導力は、悲しいほどの状態にあります。
国際収支は、原油や天然ガスの輸入増大により悪化の一途を辿っています。
大手企業は円高の苦しみに耐えきること出来ず、生産施設も、人材もじりじりと国内を離れつつあります。
かつて、上質な労働力を誇ったわが国の人材も、その元となる教育の弱体化で給与水準に見合う人材が少なくなってきているようにさえ見えます。雇用問題が現在のわが国にとって大きな課題であることは確かですが、果たして、国際競争力に耐えうる人材は育成出来ているのでしょうか。労使双方の面でです。


では、何もかも他国に比べて劣っているのかといえば、断然優位にあるものもあります。
その最大のものは、ついに三千万人を突破したという六十五歳以上の人材です。この人たちの戦力化こそがわが国の国力強化の鍵となることでしょう。
二つ目は、世界で最も強い通貨『円』です。日銀は10兆円の国債購入枠を増大し景気動向に配慮したといって、市場に二日ほどの影響を与えましたが、最も強い商品である『円』を最大限活用させないことには、わが国の財政赤字など解消できません。現在画策されている消費税の引き上げなど全く役に立たないことでしょう。
三つ目は海洋資源の活用です。トラブルの発生しているところまで出掛けなくても、もっと手近なところから積極的に開発すべきです。資金など、国債をどんどん発行すればよろしい。
そしてもう一つ、原子力技術の向上です。この一年半ばかり、原発がほとんど停止していることで何人の雇用が失われたか試算すべきです。そして、将来原発を「0」にするのであればなおのこと、現在の技術では廃炉など推進できないのです。さらにいえば、原子力技術を世界のトップクラスに維持しなければ、わが国の国力はさらに低下することでしょう。
それに、わが国が世界と戦える技術やシステムは、簡単に十や二十は上げられるはずです。それらを積極的に活用させることができる体制を推進してくれる指導者の登場を切に願っています。
今、私たちは、踏み止まらなくてはならない瀬戸際に近付いているのではないでしょうか。

( 2012.09.27 ) 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足して二で割る ・ 小さな小さな物語 ( 440 )

2013-02-06 18:59:08 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
民主・自民両党の党首選が終了し、何となく面白くない国会周辺も、少しは新たな展開を見せてくれるものと期待したいと思います。
政党について述べるのは気が進まないのですが、民主党の方は、立候補者が出そろうまでに面白味があり、自民党は選挙戦になってから盛り上がりを見せました。
それにしても、それぞれの候補者や支援者などの意見などを聞いていると、これだけ立派な人たちが揃っているのに、なぜ、政治は三流と呼ばれるような政権しか生まれないのでしょうか。


「あれだけ意見が違う人たちが同じ党に居ることに無理がある」という意見を何度も聞きました。
「同じ価値観を共有できる者だけで政党を作る」といった意見を聞くこともありました。
どちらが正しいのか知りませんが、どちらも正しくどちらも間違っているのでしょうね。
政党助成金などという、とんでもない錬金術師のような魔法を手にしたわが国政界においては、百八十度意見が違う議員が一つの政党を構成するのは、確かに問題があるような気がします。
その一方で、金太郎飴ではないのですから、十も二十もの政策課題が全く一致している議員の集団なんて、とても気持ちが悪くなってしまいます。


私たちは、それぞれが複雑な価値観を抱きながら生活しています。比較的共有する部分が多いと思われる日本人同士であっても、完全に利害を一致させることなど至難の業といえます。いわんや、他国の人となれば、さらに何倍も難しくなるのは間違いなく、つい最近の周辺国との数々のトラブルは、そのことを思い知らされた気がしています。
かつて私たちは、隣人や近しい仲間とのトラブル回避のために、「足して二で割る」という生活の知恵を持っていました。時には親分肌のような仲裁役がいて、「三方一両損」などという知恵を落語の世界に残してくれています。
しかし、現実の世界では、「足して二で割る」ことも「三方が一両損をする」ことも、トラブル解消にはうまく機能しないようです。


「『0』と『100』を足して二で割った」からといって、『50』で解決することなど極めて珍しい事例にしか見当たりません。たいていは、『90』か『10』で強引に決着させるのが現実社会のようです。
「三方一両損」などとなれば、まず三人が三人が共、簡単には納得しないでしょう。震災直後は猫や杓子までもが「きずな、きずな」と叫んでいたように思うのですが、数か月も経たないうちから、瓦礫の受け入れさえスムーズに行かないのを見ると、実社会では生かすことの難しい先人の知恵のようです。
どうやら、「足して二で割る」なんて生活の知恵は、互いの信頼関係が構築されている時にのみ輝く教えなのかもしれません。

( 2012.09.30 )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな小さな物語 目次

2013-02-06 18:58:05 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
     小さな小さな物語 目次 ( No.441 ~ 460 )


      No.441  加減乗除
        442  既得権
        443  補助金
        444  言葉遊び
        445  健気な姿


          446  正否の基準
        447  放射線治療
        448  地震予知失敗に実刑判決
        449  世界の国旗
        450  初冬の星空


         451  ハンバーグ定食
        452  価値観の相違
        453  コスモス畑
        454  愛しき日々よ
        455  正義の限界


         456  希望を捨てないで
        457  世論調査
        458  途中下車
        459  やじろべえ
        460  だまし舟
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする