( 五 )
富沢氏が逝去されたのは、私が昼食をご一緒させていただいた日から、ひと月後のことである。
私は、その日の夕方に、東京に住んでいる同僚から富沢氏の訃報を受けたが、大阪に勤務していたこともあって、通夜にも葬儀にも出席することができなかった。
そして、十日余りたった土曜日に富沢家を訪ねた。
生前お会いしてから、わずか四十日程しか経っていなかった。
奥さまは、葬儀などの慌ただしい毎日の最中であり、大変お疲れのことであったと思われるが、あたたかく迎えて下さり一晩泊めていただくことになった。そして、晩年の富沢氏の生活の一端をお聞きすることができたのである。
富沢氏が、当時は不治とまで言われていた病を得たのは、四年余り前のことであった。
それでも、手術が成功し、半年後にはほぼ普通の生活が送れるまでに回復された。その後、二年ばかりは小康を得た日々であったが、一年前に再発し治療を続けてきたが、少しずつ進行していく病を押さえこむことはできなかった。
手術による完治の可能性は極めて低く、富沢氏も体力を大幅に減じる手術を強く拒絶したようであった。
そして、亡くなられる三か月ばかり前に退院し通院での治療に切り替えたが、それは快方に向かったからではなく、完治への治療を放棄したことからであった。
最初の入院から回復したあと、富沢氏は入院前の生活パターンを大きく変えられた。
その頃すでに七十歳を過ぎていて、現職からは遠ざかっておられたが、なお二社の顧問をされていた。その顧問職も、入院生活の間に強い慰留を振り切って辞職されていた。
手術が成功し小康を得てからの日々は、かつての戦友を訪ねることを中心にした生活に変わっていった。
泊まりがけの旅程が必要なことも多く、日常生活に不便がないまでに回復していたとはいえ、常に奥さまが寄り添うような生活になっていった。
あの大戦で、本隊からはぐれた状態で捕虜となり、シベリアの同じ労働収容所で抑留生活をやむなくされた兵士は、富沢氏を含めて十八人だった。
二年半に及ぶ収容所生活を終え日本本土に辿り着くまで、その戦友は行動を共にすることができたが、五人を異国の地で亡くしていた。
昭和二十三年の春、生き残った十三人は、無事辿り着いた舞鶴の港で再会を約して別れたが、数年後、それぞれが新しい生活に目処がついた頃と考えて集まろうとしたが、その数年の間に、三人が亡くなり、二人の行方が分からなくなっていた。
連絡が取れた八人は、舞鶴に近いということで京都で再会を果たし、その後も数年ごとに旧交を温め合ってきたが、富沢氏が手術から回復したときには、富沢氏を含めて三人になっていた。
富沢氏は、健在な二人の戦友を訪ね、すでにこの世を去っている戦友たちの墓所を訪ね、行方の分からない二人の消息を求めるのが、残された人生の中心になった。
奥さまも常に行動を共にしていたが、これらの旅を通じて、富沢氏が心の奥に秘められていたものを少しは知ることができたように思う、と奥さまは語られた。
夫妻には三人の子供さんが居られたが、みなさん近くで独立されていて何の心配もなく、手術後の生活は名実ともに二人だけの生活だったとも、奥さまはしみじみと振り返られていた。
富沢氏が、かつての戦友を見舞ったり墓所を訪ねたり、さらに消えてしまった足跡を見つけ出そうとしたのは、苦しかった昔を懐かしんでのことではなかった。そのような気持ちが全くなかったわけではないかもしれないが、富沢氏にとっては、かつての戦友たちへの感謝の気持ちを抱いて訪ね歩く日々だったのである。
富沢氏にとって、あの極寒のシベリアの独房での夜、小さな明かり取りの窓から投げ込まれた黒いパンの塊は、絶対に忘れることなど出来ないものであった。
毎日毎日が空腹の日々であった。食べ終わった時には既に始まっている空腹は、単に腹が空いているというような空腹ではなかった。それは、生命を削り取っていく空腹であった。一食たべないということは、そのまま生命の危険に繋がるような空腹の連続であった。
あれほど厳しい状態にあって、あの小さな黒いパンを二つに割って、その片方を投げ込んでくれた男の真心に、どうすれば応えることができるのかと葛藤する自分の心を鎮めるための旅であった。
ああ、遥かなる友よ、君はいま豊かな時を掴んでくれているのか・・・。すでに彼の地に旅立ってしまっている男たちも含めた戦友たちに、ひたすら感謝して歩く旅であったのだ。
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あの夜、あの一切れの黒いパンを口にすることができなかったならば、その前に、あの時パンの投げ込まれる音を聞くことがなかったなら、自分はあの場で生命を失っていたかもしれないと、富沢氏は折に付け奥さまに語っていたとか。
あの、半分に分けられた黒いパンの塊には、極寒のシベリアの労働収容所の極限状況の中で、細い細い生命の糸をさらに削ることに、何のためらいも見せない男の友情の息吹が詰め込まれていたのだ。
富沢氏は、せめて一言でも礼を言いたくて戦友たちに密かに尋ねていったが、どうしても確認することができなかった。
罰を受けている者に食料を与えることを責められる懸念も確かにあるが、そういうことではないと富沢氏は感じていた。自分に負担を懸けさせないための思いやりに違いなかった。
しかし、あの夜、明かり取りの窓から、乏しい食事の半分を投げ込んだ男がいたことは紛れもない事実であった。あの厳しい状況の中で、たとえ一食といえども半分にするということは、自分の生命を削ることになることは明白であった。
その男は、富沢氏への友情と引き換えに、自分の生命のいくばくかを失ったことは間違いない。それが遠因となって、故国の土を踏むことが出来ぬまま、シベリアの地で倒れていったのかもしれなかった。
十八人のうちの五人が、遥かな故国に想いを馳せながら、シベリアの土となっていった。
十八人の中で最初に倒れたのは、一番若い男であった。
中年で招集された兵隊が主体の小隊の中で、彼はまだ二十代半ばであった。一番若いのに、一番静かな男であった。戦うために生まれてくるような男ではなかった。シベリアに抑留されるようなことを、彼はいつしたというのか・・・。
彼は、彼などが生まれてきてはいけない時代に生まれてきてしまったのだといえばそれまでだが、あまりに悲しい人生であった。
彼が倒れた二年後、まことに申し訳なくも故国の土を踏むことができた十三人は、帰還できなかった五人のわずかな遺品を手分けして遺族に届けた。
富沢氏は自ら申し出て、その青年の遺品を届けることにした。
一握りに足らない遺髪とわずかばかりの遺品を持って青年の生家を訪れたときの光景は、富沢氏は生涯忘れることができなかった。
その後、奇跡とまでいわれた日本の経済復興から高度成長へと続く中で、世間的にみれば、恵まれた職場の中で順調な昇進を重ね、豊かで幸せな家庭を築いていったとみられる富沢氏であるが、彼の心の中から、青年の生家を訪れたときの光景が消えることはなかった。
もしかすると、あの夜、あの半分にちぎられた黒いパンを投げ込んでくれたのは、あの青年だったのかもしれない・・・、そして、それがあの青年の生命力が燃え尽きる引きがねになったのかもしれない・・・。
この思いを抱き続けた生涯でもあった。
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私が富沢夫妻と昼食をご一緒させていただいたあと、お二人は、富沢氏のかつての戦友を病床に見舞った。最後の戦友であった。
その戦友は、見舞った五日後に亡くなった。そして、富沢氏も、その二週間後に再入院し、十日ばかりの病院生活のあと、波乱の生涯を静かに終えられた。
奥さまにとっては、富沢氏と永遠の別れとなる悲しい一か月であったが、富沢氏にとっては、最後の戦友の葬儀に列席したあとは、まことに穏やかな日々であったとか。
私が昼食をご一緒させていただいた頃でも、私は気が付かなかったが、一日に何度かは大変な痛みに襲われる状態にあった。それが、戦友の葬儀のあとは、再入院しなくてはならない状態になったときも含めて、激しい痛みに襲われることが殆ど無くなり、亡くなる二日前に昏睡状態に陥るまで、まことに穏やかな生活であったそうである。
「あの戦争やシベリアが、主人の類いまれなほどの優しさを育んでくれたのだと思うのですが、主人にとってその後の四十年は、いただいた黒いパンのお礼さえ言えなかったことへの謝罪の日々だったのだと思います」
奥さまは、私への話を静かな笑顔で、こう結んだ。
( 終 )