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雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

さあ、飛び立て! ・ 小さな小さな物語 ( 69 )

2010-01-20 19:26:46 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
わが家の小さな庭にもセミの抜け殻が見られるようになりました。今朝は、その中の一つが少々危なげながら勢いよく飛び立っていきました。種類は確認できませんでしたが、わが家の庭で生まれてくるのはほとんどがクマゼミですので、今朝の坊やもクマゼミと思われます。


もっとも、羽化してからのセミの寿命は大体二週間ほどのようですし、遥かに長い期間を地中で生活しているわけですから、羽化を生まれるというのは間違っているのでしょうね。
セミの地中生活は飛び回る期間に比べずいぶん長く、アブラゼミやミンミンゼミでは七年、ニイニイゼミで四年だそうです。クマゼミの場合謎めいているところもあるようですが、やはり大体七年のようです。


北米には、周期ゼミといわれる特異な生態を持つ小型のセミがいるそうです。
周期ゼミには三種類あって、それぞれに十七年型と十三年型があるそうです。さらに、十七年型には十二集団が、十三年型には三集団が存在しているそうですが、それぞれの集団は一斉に、それもほぼ一夜のうちに森にあふれるほどの数が羽化するそうです。
しかも、この周期ゼミと呼ばれるセミは、十七年ごと、あるいは十三年ごとに一斉に姿を現し、その他の年には全く姿を見せないそうなのです。


いずれにしても、セミの仲間は大変長い地中生活を過ごしており、そこでの生活がセミたちの生涯の中心なのかもしれませんが、最後のごく限られた期間に羽と鳴き声を与えられるのには、きっと何かの意味があるのでしょう。
さあ、大空高く飛び立って、声を限りに鳴き続けるがよい!

( 2009.07.09 )
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高級食材って? ・ 小さな小さな物語 ( 70 )

2010-01-20 19:25:17 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
「高級食材 値下がり」
これは、昨日、7月11日の日本経済新聞の夕刊一面のトップ記事です。
マグロ、ハモ、和牛などの値段が大幅に値下がりしているというのです。
金融危機に端を発した不況の影響を伝えるため、経済専門紙らしい視点といえばそうなのかもしれませんが、しかし、夕刊とはいえ一面トップにするほどのことなのでしょうか。


そもそも、高級食材という言葉が大変気に入らない言葉です。あまりお目にかかることのない者のひがみであることは、ご指摘を受けるまでもなく重々承知しておりますが・・・。
それに、高級食材というのはどういった定義で決められるのでしょうね。
値段が高いからですか? 品質が良いからですか? 品薄だからですか? 宣伝や販売方法が巧みだからですか? もしかすると、美味だからですか? 
それとも、もっと単純に一般庶民が手を出せなくなると高級食材とされるのでしょうか。


信頼する広辞苑には「高級食材」という項目は単独では載っていません。何だかほっとしました。
本来、食材として高級とは、健康面や栄養面などで優れている食材を指すべきだと私個人は考えているのですが、値段が高ければ高いほど良いものだという風潮は、最近に限ったことではないようです。でも、信じられないような、一部の牛肉やマグロやマンゴーなどの値段など、別にどうなってもいいんじゃないですか。


マグロが食べられなくなる、なんて大げさなニュースを目にしたのはつい先日のことだと思うのですが、今や一部の水産会社ではマグロの在庫を廃棄しているというニュースさえ出るほどです。
この落差に驚きますし、だからこそニュース価値があるのでしょうが、本当は、食料に関するもっと重要で深刻な問題があるのではないでしょうか。
そういえば、穀物類の深刻な逼迫についてのニュースをあまり見なくなりましたが、飢餓に直面している人たちの状況は少しでも改善されているのでしょうか。

( 2009.07.12 )
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美味しく頂く ・ 小さな小さな物語 ( 71 )

2010-01-20 07:48:50 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
「グルメ」って言葉がありますが、本当の意味はどういうことを指すのでしょうか。
例によって、広辞苑の力を借りてみましたが、ごく簡単に「食通。美食家。」と説明されています。もともとはフランス語ですが、日本語としての意味だけを考えてみますと、良い食材を腕の良い調理人により見事に仕上げられた料理を正しく評価し味わえる事、あるいはその人のことを指しているのだと思います。


前回の当コラムで、高級食材に少々八つ当たりしましたが、正直なところ、同じ食べるなら美味しいものを食べたいと思うのは人情です。
かつて経験したことですが、ある大きな駅に立ち食いうどんの店が二つあるところがありました。片方は、確かに美味しいのですがいつも満員。ある時あまりの混雑に嫌気がさして、ガラガラの店の方に入りました。案の定、うどんをこれほどまずく作ることができるのかというほどの味でした。


各地で行列のできるラーメン屋とかパン屋などといったお店がテレビなどで紹介されることがよくあります。
全部が全部本当かどうかは別にして、料理人の腕一つで味が大きく変わることは確かなことです。
材料にしても、生産者の努力はもちろんですが、季節であるとか (旬のもの) 保存の仕方とか、取り合わせとか、などで同じコストでも大きく変わるようです。

そして、美味しいものを頂くのに何より大切なのは、美味しく頂ける能力を高めることだそうです。おふくろの味などはその決定的な実証例ですが、生まれた時から教えられた味は美味しいものとして体に染みつきます。
すなわち、人は訓練次第で大抵のものを美味と感じることができるのです。
いつも口にする食事を何よりも美味しいと感じることも、訓練次第で可能なのです。多分・・・。
そして、その域に達した人こそ、グルメと呼ばれるに値する人ではないでしょうか。

( 2009.07.15 )
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「うま味」を学ぶ ・ 小さな小さな物語 ( 72 )

2010-01-20 07:46:48 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
同じテーマが続きますが、今回も味に関するお話です。
私たちが感じる味覚の基本となる要素は五種類だと言われています。
「甘味」「酸味」「塩味」「苦味」「うま味」の五つです。
実は、つい百年ほど前までは、私たちが感じる味覚の要素は、上記のうち「うま味」を除いた四種類だと考えられていました。私たちが感じ取る味のすべては、その四種類の組み合わせにより作り出されると考えられていたのです。
ところが、その後の研究により、それらの四種類ではどうしても作り出されない特有の味が存在しており、しかもその味は私たちにとても良い味として感じられるものであることを発見し、その研究者により「うま味」と名付けられました。


私たちは、先天的に味覚を感じ取る能力を有しているように思われます。
生まれたばかりの赤ん坊が母親のお乳を美味しそうに飲むことができるのは、努力や学習からではなく先天的に母乳を単なる飢えからではなく、美味として感じ取る能力を有しているからではないでしょうか。
しかし、その赤ん坊が、僅か五年も過ごすうちに好き嫌いが生まれてきます。多少の差はあれ、まず殆どの人には好き嫌いがあります。


以前何かで読んだ記憶ですので、どの程度正しいものなのか確認できないのですが、私たちは先天的に美味しさを感じ取ることができるが、「苦味」を美味と感じ取るためには訓練が必要だというのです。そして、日本人はそれを「サンマのはらわた」から覚えるのだというのです。
この話は、化学や料理に詳しい人の話だったのか、単なるコラムだったのか記憶がないのですが、私たちが美味しさを習得するには訓練が必要だということを示唆しています。
濃い味を好んだり、薄い味を好んだり、油の濃淡にも好みがあります。健康上やむを得ず味を犠牲にしている人はともかく、食材や味の好き嫌いは殆どが習慣から、すなわち学習によって身についていったものなのです。


五要素のうち最後に発見された「うま味」とは、グルタミン酸とかイノシン酸などといったアミノ酸に含まれているものです。この五要素によって絶妙の味が生み出されてくるのですが、同時に食べる側の美味しいものを美味しいと感じ取れる訓練や学習も大変重要です。
因みに、この「うま味」という味の存在を見つけ出したのは日本の研究者でした。従って「UMAMI」という言葉は、世界共通語となっているのです。
値段や名前でなく、私たちが手軽に手を出せる食材を使って、味の五要素と「愛情」というスパイスをほんの少しばかり加えて美味しい料理を作ることが大切であり、同時に、それを美味しいと感じ取れる訓練を積んでいきたいものです。

( 2009.07.18 )
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わが身を奴婢とせよ ・ 小さな小さな物語 ( 73 )

2010-01-20 07:45:22 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
方丈記の中に次のような部分があります。少し長いですが引用させていただきます。
** 人の奴たるものは 賞罰はなはだしく恩顧あつきを先とす。さらに、はぐくみあはれむと 安く静かなるとをば願はず。
ただ、わが身をとするには しかず。いかがとするならば、もし なすべきことあれば、すなわち おのが身を使ふ。
たゆからずしもあらねど、人をしたがへ かへりみるよりもやすし。もし歩むべきことあれば、みずから歩む。苦しといへども 馬・鞍・牛・車と、心を悩ますには しかず。 **


方丈記は、ご承知の通り鎌倉初期に鴨長明により書かれた古典文学の代表作品の一つです。
その書き出しの「ゆく河の流れは絶えずして、しかも もとの水にあらず・・・」という名調子はあまりにも有名です。ただ、私は、冒頭部分のあまりの素晴らしさに比べ、その後に続く内容が、歴史的な価値はともかく文学としてはいかにも悲惨で暗いものが多く、大変好きな作品とは言えません。
引用部分の要約は、
** 人に使われている者は、金銭や品物をたくさんくれる人を良しとして、いたわったり情をかけたり、平穏であることを重要だと考えない。
しかし、召使というものがそのようなものだとすれば、自分が自分の召使になるのがよい。
ではどうやって召使になるのかといえば、なすべきことがあるときには自分自身ですることだ。それでは疲れるだろうが、人を使って気苦労するよりましである。
もし行くところがあれば、自分の足で歩けばよい。歩くのが苦しいといっても、馬や鞍やなどと心を悩ますよりましだ。 **


かつて、バブル絶頂の頃でしたでしょうか、ソーホー (SOHO)という経営形態が話題になったことがありました。
パソコンやネットワークを駆使して、自宅などを事務所にした小規模経営を推奨するものでした。
実は、私もある時期かなりあこがれたことがありました。その魅力の最大のものは、「誰にも雇われず、誰をも雇わない」というものでした。
当時、この考えは大変新しいと私は感じたのですが、何のことはありません、遥か昔に鴨長明は、すでに身に染みて感じ取っていたのです。


まあ、宮仕えもしんどいですが、人を使うのも大変です。それらの人間関係から逃げ出したいと思うのですが、それが、なかなか難しいようです。
団塊の世代のリタイアーが始まっていますが、嫌で嫌で仕方がなかったはずの人間関係をいつまでも引きずっている人が少なくないようなのです。
第二の人生では、さわやかな人間関係を作り上げたいものです。 

( 2009.07.21 ) 
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神の領域 ・ 小さな小さな物語 ( 74 )

2010-01-20 07:32:07 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
自動車業界は世界的な大不況に見舞われていますが、ハイブリッド車だけは大人気でトヨタの新型プリウスなどは、八、九か月の納車待ちだそうです。
ガソリンの高騰、環境対策の強化、エコカー減税など追い風をいっぱいに受けて、これまでの技術開発の努力が一気に花開いた感じです。


ところが、何もかも良いことだらけのようなハイブリッド車ですが、思わぬ問題点が浮上してきています。それは、エンジン音が静か過ぎて、歩行者などに危険を与える可能性が懸念されているのです。
すでに、危険な目にあった人やハイブリッド車を運転している人からも多くの指摘があり、メーカーも何らかの音を発生させる仕組みを検討しているようなのです。
ハイブリッド車開発の目的は燃費の向上です。乗用車にとって、運転音が静かであることは重要な要素ですが、ハイブリッド車の運転音が静かなのは付随的な成果だと思われます。しかし、重要な要素である静かさが向上しすぎて、問題が出てきているのです。


子供の頃に仲間うちで話題になったことなので、どこまで本当なのか分かりませんが、こんな話を覚えています。
ハリウッドのある大スターは、拳銃の抜き撃ちが大変うまく、それこそ目にもとまらぬスピードの持ち主だそうです。彼が西部劇映画に出演し、悪人との決闘シーンで早撃ちを見せる時には、わざとゆっくりと手を動かしたそうです。真剣に演技しますと、早過ぎてうまく映像に収まらずトリックのようになってしまうからだというのです。
さて、どこまで本当か分かりませんが、技術も人間技を超えてしまうと、何かと不都合があるようです。
先だっては、脳死に関する議決がありました。臓器提供という背景があり、その手段以外では救うことができない幼い命があるといわれますと、無責任な発言などできないのですが、人の死という判断を、いくら国民の負託を受けているとはいえ国会議員だけで決議できるものではないように思われます。


科学が進み、月も火星も現実世界の中に組み込まれてしまいました。
私たちがどこからやって来て、どこへ行こうとしているのかは哲学や宗教の問題だと思っていましたが、ごく簡単に絵解きしてくれる人もいます。
ほんの数分先が見通すことができるようになれば、多くの事故や災害が回避されるようになるでしょうが、賭け競馬は成り立たなくなるでしょうし、株式市場も現在のシステムは崩壊するでしょう。あるいは、もしかして、すでにそのような技術を開発している人がいて、こっそり儲けているかもしれません。
いずれにしても、人間は進化の過程の何かのはずみで、とんでもない能力を持ってしまったのかもしれないという懸念が消えないのです。
しかし、いくら能力を持っているとしても、人間ごときが、神の領域にまで手を突っ込むことは正しくないように思うのです。

( 2009.07.24 )
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花時計は命が伝えるメッセージ ・ 小さな小さな物語 ( 75 )

2010-01-20 07:30:46 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
花時計といえば、ふつう公園や広場などにある文字盤に花を美しく植え込んだものを指すのでしょう。辞書にもそう説明されています。
ただ、表題の花時計は、草木が季節や時間を認識して開花させる能力 (あるいは性質) のことを指しています。


朝顔の花が朝開き、夕顔の花は夕方開く。サボテン類の多くは夜中に開花するようですが、これらの性質は代々受け継がれてきています。
季節をみましても、桜前線や紅葉前線などは大きく報道されるようにその季節を代表する風物詩とも言えるでしょう。
しかも、例えば桜の開花時期が例年より遅れると予測される場合、私たちは季節の異常をその原因として考えます。桜が寝坊して遅刻していると言う人は極めて少数派でしょう。
私たちは、花時計を相当信頼しているのです。


以前朝顔に関する次のような記事を見た記憶があります。
その記事は、植物を育成する場合、光や温度の管理によって、成長や開花期をかなりコントロールできるという内容のものでした。その中に朝顔に関するものがあり、人工照明により一日の長さをコントロールしていった場合、それに応じた成長の仕方をするのですが、いちばん生育が良くたくさんの花を付けるのは一日を二十時間にしたときなのだそうです。
その理由は、朝顔の祖先が登場したのは極めて古く、四億年前には地球上に存在していたそうです。そして、その頃の地球の自転は今より早く、一日が二十時間だったそうです。朝顔は今なおその頃の花時計を遺伝子として伝え続けているのです。


春になれば多くの草木は緑を増やし、それぞれの草木はそれぞれの時に合わせて花開きます。
いつ飛んできたのか分からない一粒の種子が、その定められた時期ともなれば、僅かな土と水と光の助けを受けて、小さな双葉を芽吹かせます。
当たり前の自然の摂理だと言ってしまえばその通りなのでしょうが、小さな命の誕生には何万年何億年にも及ぶ命が伝えられているのだと思えば、愛おしさを感じてしまいます。
小さいくせに荒れ放題のわが家の庭ですが、遥かな旅を続けてきた命たちのひとときの安らぎの場所になるように、少しは手入れをすることにしましょう。

( 2009.07.27 )
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愛情の総和 ・ 小さな小さな物語 ( 76 )

2010-01-20 07:28:14 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
「愛情」などというものを、愛情という言葉そのもので表現するほど馬鹿げたことはない・・・。
これは、遠い昔、ある先輩が私に話してくれたことです。
何故だか私はこの言葉に影響を受けていまして、当ブログで発表させていただいている作品の殆どが何らかの愛を主要なテーマにしているはずなのですが、「愛情」という言葉そのものを使うことがなかなかできないのです。


最近、当ブログにトラックバックして下さった方は、一人っ子についていろいろ研究されているようです。一人っ子の良し悪しなどについてなのですが、残念ながら私は明確な意見を持っていないのですが、例によって変なことを考えてしまいました。
つまり、一人の子供を持っている母親と、三人の子供を持っている母親がいる場合を考えてみました。もちろん母親の代わりに父親としてもいいのですが。
この場合、母親の愛情の大きさを数値化できるとすれば、どちらの子供の方が大きな愛情を受け取っているのでしょうか。どちらの母親も子供も平均的な能力の持ち主としてです。


一人っ子の方が、よく目が届くこともあり大きな愛情を受けている、という意見があるかもしれません。
母親の愛情は子供の数に分割されることなどなく、一人でも三人でも同じだという意見があるかもしれません。
さて、そこで、このような問題が出てきます。つまり、前の意見によれば、子供の数は少ないほど親の愛情をたくさん受けて成長するということになりますし、後の意見によれば、子供の数が多いほど愛情豊かな母親になるということになります。


「愛情」ということになりますとさまざまな関係において発生しますので、親子間の愛情ということに限定して考えてみた場合、前記の考え方は理論的なようで何かが欠けているとしか思えません。
例えば、猫や犬が子供を護り育てようとする姿、ツバメが子供にえさを運んで来る姿、これらは眺めているだけで愛おしく、親の深い愛情を感じます。これらの親子間の愛情が人間の親子に劣っているとは思えないのです。
かつて先輩が教えてくれたように、愛情などという言葉は簡単に使うべきではなく、いわんや愛情に数値化できる総和があるなどというのは論外なのでしょうね。

( 2009.07.30 )
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究極の選択 ・ 小さな小さな物語 ( 77 )

2010-01-20 07:24:09 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
「今日の私があるのは、あの人のお陰です」とか「あの決断が今日の私に育ててくれた」などという言葉を、テレビのインタビューなどで見たり聞いたりすることがあります。
発言されている方の本音は、たいていの場合、出会った人がいかに素晴らしい人物であったかとか、出合った仕事や事件や現象の持つ影響の大きさを強調されているものですが、「今日私がある・・・」という言葉が、私はどうしても好きになれず白けてしまうのです。


どうも個人的な偏執が先になってしまいましたが、私たちが生きてきた中で、究極の選択ともいえるものは誰にでもあるように思われます。
進学であるとか、就職であるとか、結婚であるとか、上司や仲間との出会い、生涯続く親友との出会いなど、ちょっと考えてみるだけでいくつもあります。
また、それは人の出会いだけではなく、大切なペットとの出会いをあげる人もいるでしょうし、仕事に関することもあるでしょう。大切な品物、風景、思い出などにもあるかもしれません。


それも、必ずしも一つに限らず複数あげられる人が多いようです。むしろ、この選択が最も重要だったと言える人の方が少数派のようにさえ思います。
つまり、いくつもの究極の選択をしてきた人は案外たくさんいるということです。


そんなに幾つもあげられるようなものは、究極の選択とか、究極の決断とは言わないのだ、というご意見もあるようですが、必ずしもそうではないようです。
私たちは、毎日毎日数多くの選択に迫られ決断しているのです。
「さあ起きるか、いやあと五分寝床にいるか」「バスが来た。走るか、次のにするか」「スーパーで賞味期限が近づき割引されている刺身を買うか、新しい方にするか」・・・、どれも重要な決断を迫られるものであり、その度に一番良いと思われるものを探しているのです。つまり、究極の選択をしているのです。
極端にいえば、私たちは一瞬一瞬選択しながら生きているともいえます。結果として、生涯大変大きな意味を持つこともあれば、選択したことさえ意識にないものもあります。
いずれにしても、私たちは迷路のような道を一歩一歩進んでいることだけは確かなことです。さあ、今日も究極の選択にチャレンジです。

( 2009.08.02 )
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クリーンエネルギー ・ 小さな小さな物語 ( 78 ) 

2010-01-20 07:22:34 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
クリーンエネルギーという言葉を時々見ます。
直訳すれば「きれいなエネルギー」とか「清浄なエネルギー」ということになるのでしょうが、要は二酸化排出量が少なくてエネルギーが得られる手段を指しているらしく、今はやりの言葉に直せば「環境に優しいエネルギー」ということになるのでしょう。
代表的なものとしては、太陽光発電や風力発電などになるのでしょう。


この種の言葉として、「再生可能エネルギー」と「新エネルギー」という言葉があります。国際的に通用し比較が可能なのは「再生可能エネルギー」の方で、水力発電、風力発電、地熱発電、バイオマスなどによるエネルギーを指しますが、「新エネルギー」は、2003年に施行された「新エネルギー等電気利用法」に基づくもので、大規模水力発電や地熱発電は含まれていません。
以上のことは本日の日本経済新聞の記事を参照させてもらったものです。


ところで、最近少々気になる記事も散見されます。
例えば、風力発電の施設の近くで、周辺住民が体調不良を訴えているというのです。どうやら風車の低周波音が原因している可能性があるようなのですが、他にも、鳥が風車に巻き込まれるとか、風景を阻害しているとかといった問題もあるようです。
二酸化炭素の排出量が少ないから環境に優しいエネルギーだとか、クリーンエネルギーだとかいうのはあまりにも短絡で、本当に自然に優しく人間にやさしいものでなくては「クリーンエネルギー」などとは表現すべきでないと思うのです。


そもそも「二酸化排出量イコール環境に優しい」という考え方が強すぎるように思えてならないのです。化石燃料を無秩序に使い続けることが地球環境を破滅に導くことは確かでしょうが、二酸化炭素を抑えるということだけに焦点を置けば、おそらく、これを封じ込めるとか、分解するとか、再利用するなどの技術も進むはずです。
しかし、大切なことは石油や石炭といった資源は有限だということです。私たちの世代で大量消費してはならないということです。
太陽光発電で自動車を走らせることは可能ですが、私たちの生活の必需品になっている化学製品の材料にはならないということです。その意味でも、地球上のエネルギーの過半を化石燃料に頼らない体制を確立しなくてはならないと思うのですが、安易に「クリーンエネルギー」などとおだてることには反対です。

( 2009.08.05 )
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