『 彼女のように生きた多くの人たちが、二百数十年に渡って心の灯を守り続けたことを思うと、まことに感慨深い。』
マセンシアは元亀元年( 1570 )に豊後の有力大名である大友義鎮(ヨシシゲ・後の大友宗麟)の七番目の娘として誕生した。名前は桂姫、あるいは引地の君と呼ばれた。
( 中略 )
(夫の)秀包没後、嫡男の元鎮は毛利家当主輝元より改めて長門国阿川の地に七千石が与えられた。その子元包は周防国𠮷敷に領地替えとなり一万一千石に加増されている。これにより、秀包の子孫は𠮷敷毛利家として一門を支えていくのである。
三十二歳の若さで未亡人となった桂姫は、おそらく息子たちと行動を共にしたと考えられるが、生涯をマセンシアという洗礼名で通したようである。
時代は徳川の時代となり、キリシタンに対する締め付けは厳しくなるばかりであった。
また、当主輝元は、もともとキリシタンを嫌っていたようで、桂姫に対しても棄教を厳しく迫っていたようである。しかし、当主であるとはいえ、桂姫は義理の叔母にあたることもあり、何よりも、桂姫の人柄と敬虔な信仰心を砕くことはできず、黙認するようになったという。
桂姫、洗礼名マセンシアは、その信仰心を微動だに揺るがせることもなく、七十九歳で天に召された。
慶安元年( 1648 )のことで、秀吉や家康による禁教令から久しく、島原の乱からも十年を経ていた。亡骸は毛利家の菩提寺に葬られたが、墓地からは遠く離れた山中であったという。一族にキリシタンを抱えた毛利家の苦しい対応が窺える。
その生涯は、今に伝えられているものはあまりに少ないが、彼女のように生きた多くの人たちが、二百数十年に渡って心の灯を守り続けたことを思うと、まことに感慨深い。
( 運命紀行「ただ 導かれて」 より )
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