雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行 ・ 荒波の陰で 

2013-03-09 08:00:09 | 運命紀行
         運命紀行

            荒波の陰で


何をもって幸運といい、何をもって不運というかについては、一定の基準などないと思う。それぞれの価値観や、人生の捉え方によって幸運も不運も千差万別といるからである。
しかし、歴史上の人物を俯瞰してみた場合、やはり、運・不運はあるように見える。

松姫は、永禄四年(1561)、武田信玄の第五女として誕生した。母は側室の湯川氏である。
同母の兄弟姉妹には、信玄の意向で信濃の名族仁科氏の養子となった仁科盛信、駿河の名族葛山氏の養子となった葛山信昌、木曽義昌に嫁いだ真理姫、上杉景勝に嫁いだ菊姫らがいる。
これらの養子や婚姻は、当然武田家の勢力拡大あるいは安泰のための政略的なものであることは当然で、松姫にも同じような未来が用意されていたのである。

永禄十年(1567)十二月、武田・織田の同盟強化の一つとして、織田信長の嫡男信忠と松姫との間で婚約が調った。信忠十一歳、松姫はまだ七歳であった。
政略結婚であるから、花婿花嫁の年齢など関係ないが、そうとはいえ松姫があまりに幼いため結婚を先に延ばしたように思われるが、実は、この時に二人の婚姻は成立していたらしい。
織田家からは膨大な引き出物が届けられ、武田家では躑躅が崎の館に二人のための新居が立てられ、以後松姫はそこで大切に育てられることになった。記録にも、「信忠正室を預かる」とあり、松姫も新館御寮人と呼ばれたらしい。そうであれば、婚姻は成立していて、当面は新妻を武田家で預かるという形であったようだ。

元亀三年(1572)、信玄は三河・遠江方面へ大規模な侵攻を開始した。この時の三方ヶ原での合戦は、家康の生涯において最大の敗戦だったといわれる。
家康とは長い同盟関係にある信長は徳川に援軍を送ったため、武田と織田の同盟は破綻、連動して松姫と信忠の婚姻も解消となった。

天正元年(1573)には信玄が没する。異母兄の勝頼が武田家の家督を継ぎ、松姫は兄の仁科盛信の庇護を受けることとなり、高遠城下の館に移った。
天正十年になると、織田・徳川の連合軍が武田領に侵入、武田方の豪族たちや、一門に繋がる勢力さえもほとんど抵抗することなく降伏し、織田軍の総大将信忠は五万ともいわれる大軍で高遠城に迫った。
城主である仁科盛信は、危険が迫るのを知ると松姫を幼いわが娘督姫とともに、勝頼のいる新府城に逃れさせた。
高遠城を守る将兵は僅かに三千、勝敗の帰趨は自ずから明らかであり、信忠は一度は義兄弟の関係にあった盛信に開城を進めるが聞き入れられず、多くの武将たちが簡単に降伏するなかで、盛信以下高遠城三千の将兵は華々しく討ち死する。

松姫が逃れた新府城も、織田の大軍が迫っており、松姫も兄盛信の最期を知る。
かつては夫婦の契りを誓った信忠に、兄盛信は討ち取られ、いま大軍を率いて進軍していることを知った松姫の心境は察するに余りある。
勝頼主従は、新府城が未完成の城であり籠城には適しておらず、協議の結果一門の小山田信茂の居城岩殿城を目指すが、到着直前に信茂の謀反にあい、結局天目山棲雲寺に行く先を変更したが、途中織田の先鋒隊に追いつかれ、勝頼は自刃、武田の嫡流はここに滅びる。

一方松姫は、勝頼主従たちとは行動を共にせず、僅かな従者に守られて、三、四歳の姫三人を連れて、東に向かって脱出した。
笛吹川を渡り、僅かな縁故を頼りにしての脱出行であった。その辺りはもともと武田の領地であったが、勝頼敗れるの報に北条軍が展開しており、後方からは織田や徳川の残党狩りが迫っていた。さらに恐ろしいのは、落ち武者を待ち構えている野伏せりたちであった。

武将の娘とはいえ深窓に育った松姫には、全く経験したことのない過酷な道行きであった。幼い姫たちを励まして懸命に歩き続け、海島寺(現山梨市)に辿り着いた。海島寺は武田氏ゆかりの尼寺で、しばらくここで手厚くもてなされたが、探索の手は迫っており、再び東に向かって出立した。
国境の峠を越え、ようやく武蔵国多摩郡の金照庵(現八王子市)という尼寺に入った。その道中でも、向嶽寺などの寺院や時には野宿をしながらの逃避行であったことであろう。

この金照庵に身を置いた頃、信忠がその消息を知り迎えの使者を送ってきた。
すでに離縁された身であるとはいえ、松姫にすればまだ会ったこともない信忠ではあるが、身内の多くを失った中での信忠の配慮は嬉しかった。
迎えの使者たちとはるばる信忠のもとへ向かっていた時、「信忠自刃」の報が届けられた。本能寺の変が勃発したのである。

同年秋、心源院(現八王子市)に移り、出家して信松尼と称した。松姫二十二歳の時である。
なお、この名前の「信」は、父親信玄と結ばれることのなかった夫信忠から取ったといわれ、この後は武田一族に加え信忠の菩提を弔ったという。

武田という戦国屈指の武家の家に生まれ、織田という天下人の嫡男と結ばれ、逃れてきた八王子はこれもまた戦国の雄ともいえる北条氏の勢力圏であった。そして、出家してようやく心の平安を得られるかにみえたが、信松尼は間もなく近くのあばらやに移り住んでいる。
その原因は、秀吉率いる北条討伐軍により信源院は戦乱に巻き込まれたらしい。
さらに、北条滅亡後は八王子は徳川の領地となり、又々天下人と関わることになるのである。

戦国末期の、多くの英雄たちの野望の陰で、荒波に翻弄されながらも生き抜いた女性、信松尼松姫。ただ、最後の徳川家康からは、手厚い保護を受けたようである。


     * * *

松姫には、織田家と手切れになった後や、八王子に辿り着いてからも幾つもの縁談があったらしい。
何といっても、戦国の色濃い時代には、信玄の娘というのは大変なブランドだったからである。しかし、松姫には信忠の妻であったという思いが強かったらしく、それらの縁談話をことごとく断っているようである。
一説には、信忠の忘れ形見である三法師の母親を松姫としているらしいが、二人が対面したとは考えられないのでとても真実性のある説とは思えない。

信松尼となった松姫は、甲斐から山を越え谷を越えて共に逃れてきた三人の姫を養育しながら武田一族と信忠の冥福を祈りながら後生を過ごしたという。
一説によれば、この三人の姫というのは、仁科盛信の娘督姫、武田勝頼の娘貞姫、小山田信茂の娘香貴姫であったという。もしそれが真実であれば、小山田信茂は土壇場で主君を裏切っているので、その娘を慈しみ育てているのは、すっかり仏に仕えている身だったのであろう。
この娘たちの内二人は家康の仲立ちで嫁いだといわれ、督姫だけは身体が弱く出家の道を選び二十九歳で没している。

徳川家康は、武田の遺臣たちを大切に処遇していることも多く、信松尼に対しても何かと援助があったらしい。特に代官職であった大久保長安は、草庵を提供するなど手厚い支援をしている。
また、武田の旧臣たちを取り纏めて甲州への備えとした八王子千人同心たちにとって、信松尼の存在は心の支えであったという。
また、これは大変有名な話であるが、後の名君保科正之の幼年期を姉の見性尼とともに秀忠夫人お江らの弾圧から守りぬいている。
さらに、三人の姫たちを育てるために蚕を育て織物を作って収入を得ているが、これが八王子織物として発展していっている。

戦国期を代表する武将たちの野望の荒波の陰で懸命に生きた信松尼松姫は、元和二年(1616)四月、五十六歳で世を去った。草庵の跡は、現在に伝わっている信松院である。
また、松姫峠や松姫湖という名前が現在も使われているが、いずれる松姫に因んで名付けられたものである。

                                     ( 完 )


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