雅工房 作品集

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運命紀行  血脈に翻弄されて

2011-12-15 08:00:07 | 運命紀行
       運命紀行

          血脈に翻弄されて


「私が政務一切の先頭に立とう」
亡き天武天皇の皇后、持統(鸕野讚良・ウノノササラ)は決意を固めた。

朱鳥元年(686)七月、重病の床にある天武天皇から重大な発表がなされた。政務の全権を持統とその子である草壁皇子に委ねたのである。
持統は、天皇の病気平癒を願い大規模な宗教行事を催した。年号も縁起を求めて朱鳥(アカミトリ)と改め、諸王、群臣らを集めて天皇のために祈祷などを数多く行った。
しかし、天皇の病に回復の気配は見えず、ついに、九月九日古代史屈指の英雄天武天皇は崩御した。

壬申の乱から十四年、天武王朝は盤石の王権を築き上げてきていた。しかし、それは、皇后持統の立場を盤石にしているということではなかった。いわんや、皇太子草壁の存在に至っては、極めて危ういものといえた。二人の地位は、天武天皇あってのことで、壬申の乱を戦ってきた天武の重臣たちの多くは健在で、皇后とはいえ持統の思いのまま祭り事を進められる状態ではなかった。
さらに、持統の強い働きかけにより、わが子草壁を皇太子につけることが出来たが、血統、年齢のいずれをとっても見劣りしない大津皇子の存在があった。
草壁とは異母兄弟である大津皇子は、早くから祭り事に深く関与しており、その能力人望は高く、母である持統の目から見ても病弱である草壁を全ての面で上回っていることを認めざるを得なかった。
天武王朝の重臣たちの多くは、大津皇子こそが天武の後継者と望んでおり、持統・草壁に全権を委ねたという重病の天武の決定を素直に受け入れていない者も多い。

しかし、何が何でも、わが子である草壁皇子に即位させなくてはならないと、持統は自らを励ました。
持統は懸命に策を模索した。今強行することはあまりにも危険が大きい。王朝勢力の大半は大津皇子に目が向けられており、正面からはとても太刀打ちできる情勢にはなかった。
「私が称制になろう」
持統は決意した。
斉明天皇崩御の後、天智天皇が即位することなく「称制」として政務を行った例があり、天武天皇の喪に服する時でもあり、これに反対する者はいないと考えたのである。
わが身が担う数奇な血脈を草壁を通して伝えて行くための決意であり、それは、苦難な戦いを覚悟する決意でもあった。


     * * *

王権をめぐる激しい戦いが繰り返された飛鳥時代。その真っ只中を生き抜いた女帝がいた。持統天皇である。

現代人にもなじみ深い小倉百人一首。その一番歌は、天智天皇の御製であるが、二番歌には持統天皇が挙げられている。
『春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山』というのどやかな歌である。
もともとは万葉集に収められているものを、新古今集を経て小倉百人一首に選出されたものであるが、本歌は少し違い、『春過ぎて夏来たるらし白妙の 衣ほしたり天の香具山』であり、この方が遥かに力強く、のびやかに感じられる。
いずれにしても、歌の巧拙はともかく、持統天皇の持つイメージは、飛鳥時代を制した天武天皇の皇后であり、その後を引き継いだ持統天皇として繁栄の生涯を思い浮かべがちである。しかし、今少し残された記録の向こうを覗いて見ると、壮絶な生涯が垣間見られる。

この時代を知るための資料の根幹をなすものは「日本書紀」である。古事記と比べ、あるいはその他の資料と比べ批判を受ける部分もあるようだが、わが国最初の正史である「日本書紀」を軽視することは出来まい。
ただ、「日本書紀」は、天武天皇の命により編纂が始まり、神代から持統天皇の御代までが記録されている。つまり、壬申の乱の勝者である天武・持統の意向が強く反映された記録書であることは否めない。さらに言えば、完成したのは奈良時代に入ってからであり、さらに時の実権者により意図的な編集がなされていることは十分考えられることである。

本編の主人公持統天皇が誕生したのは、西暦645年、和暦でいえば大化元年にあたる。この年は、乙巳の変(イッシノヘン・大化の改新とも)が断行された年である。
父は、大化の改新という呼び名でよく知られている乙巳の変の首謀者、中大兄皇子、後の天智天皇であり、母は、このクーデターの実行グループの一人である蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘(オチノイラツメ)である。
つまり、乙巳の変は、蘇我本家である蘇我入鹿を暗殺し滅亡させたクーデターといえようが、その実行者には、中大兄皇子や中臣鎌足らと共に、持統の祖父も有力メンバーとして加わっていたのである。
しかも、四年後には、蘇我倉山田石川麻呂は謀反との讒言を受けて中大兄皇子に、誅殺されてしまうのである。持統の母遠智娘は、夫に父親を殺されてしまったのである。そして遠智娘は、この事件により発狂状態になり死に至ったという。

持統は、十三歳の時、大海人皇子に嫁いだ。
中大兄皇子と大海人皇子の関係は、何とも難しい関係である。二人は共に舒明天皇の子であるが、母も皇極天皇である同母の兄弟とされているが、否定的な説や文献もある。大海人皇子の実母は別であり、兄弟も逆であるというものである。
やがて中大兄皇子は即位して天智天皇となるが、大海人皇子に対しては、大変な配慮と警戒を持っていた。
持統が嫁いだのもその懐柔策の一つであろうが、他にも、大田皇女、少し後のことであるが、大江皇女、新田部皇女と中大兄皇子は四人の娘を大海人皇子に嫁がせている。その一方で、あの額田王は、大海人皇子との間に十市皇女をもうけながら、天智のもとに引き取られているのである。現代のモラルで当時を推し量っても真実は見えないとしても、何とも理解し難い二人の関係ではある。
やがて、持統は草壁皇子を生み、同母の姉大田皇女は大伯皇女と大津皇子を生む。大田皇女が早く亡くなったこともあり、持統は天武即位と共に皇后となるが、それは少し先のことである。

やがて、天智天皇の衰えと共に、後継者問題が現実化して来た。
天智即位と共に大海人皇子は皇太子(あるいは皇太弟)の地位につき、次期天皇を約束されていたとされるが、この頃は、まだ皇太子という制度はなかったと考えられ、これは事実ではないと思われるが、次の天皇は大海人皇子だという漠然とした形であれ流れが出来ていた可能性はある。
しかし、時間の経過とともに、天智天皇の意思は、わが子大友皇子を後継者にする方向へと移って行った。
当時は、天皇後継者の条件に母親の血統が重視されていた。大友皇子はその点から適任ではなく、後継者は、大海人皇子、あるいはその子である、草壁皇子、大津皇子が適任者であったと想像される。
しかし、天皇の意思は絶対であった。

大海人皇子は天智王朝の都近江を脱出し、吉野に向かう。皇位継承の意思がないことを示すために身を引いたとされるが、身の危険を察しての脱出であることは誰もが承知のことであった。持統は、この脱出に同行し、この後も行動を共にする。実父である天智天皇を捨て、夫である大海人皇子を選んだのである。
果たして、大友皇子を後継者に指名して天智天皇が崩御すると、大海人皇子は決起する。壬申の乱の勃発である。

古代日本最大といえる壬申の乱に勝利した大海人皇子は、都を近江から蘇我氏の本拠地である飛鳥浄御原宮に移して即位する。天武天皇の誕生である。なお、これまでの天皇は、正しくは大王という称号であり、天武が天皇という称号で即位した初代である。
これにより、持統は皇后の地位に就き、強力な天武王朝を築き上げる夫を助けたとされる。
しかし、天武が即位してから十三年後、ついに英雄天武天皇が崩御すると、天武王朝に難問が表面化した。後継者問題である。

天武は生前、後継者を草壁皇子としていたが、壬申の乱を戦ってきた天武の重臣たちは、その決定が草壁皇子の母である持統の強い圧力で決定されたことを知っていた。
天皇崩御により、重臣たちの意向は大きく動いて行った。
この時点で、天皇後継者となりうる人物が二人いた。草壁皇子と大津皇子である。年齢は草壁が一歳上であるが、文武両面で大津の方が遥かに上で、人望は比較にもならなかった。さらに草壁は、幼い頃から病弱であった。ただ、大津皇子に不運だったのは、母である大田皇女が早くに亡くなっていたことである。
しかし、持統は何としても草壁を即位させる覚悟であった。

持統は称制として、政務一切を背負う覚悟を決める。
天武天皇の喪に服しているうちに、いかなる手段をとろうとも、草壁即位を群臣たちに認めさせなければならない。持統のこの強い覚悟は、苦しい戦いの日々への出発だったのではないか。

持統は直ちに行動に出た。大津皇子を謀反の疑いで逮捕、自死に追い込む。
最大のライバルを滅亡させたが、それでも、一年経ち、二年経っても、草壁を即位させることが出来なかった。天武の喪を続けるにも限度があった。そして、草壁皇子も死去してしまう。伝えられている死因は病気とされている。
ついに持統は、自ら即位する。持統天皇の誕生である。

持統天皇は、690年(持統四年)に即位し、697年(持統十一年)に、文武天皇に譲位したとされている。そして、この五年後に逝去する。
その治世は、天武王朝の継承であり、むしろ持統天皇を頂点とする王朝を確立させたともいわれている。
しかし、持統天皇統治とされる時代は、持統にとって安らかなものであったとは考えにくい。王朝の有力者は、壬申の乱を勝ち抜いた人物が中心であり、持統の父は仇敵天智天皇であり、母は蘇我氏とはいえ、蘇我本家を滅ぼした一族なのである。しかも、群臣たちに人望があった大津皇子を死に追い込んだ張本人と見られていたとすれば、持統天皇が誕生したこと自体不思議な気がするのである。
実際に、持統天皇が政務を司った宮城ははっきりせず、三十数回にも及ぶ吉野詣は、飛鳥の地に強い地盤を築くことが出来ていなかったことを窺わせるのである。

夫、天武天皇が崩御してから文武天皇に譲位するまでの十一年間は、持統にとって苦難の日々だったのではないだろうか。そして、藤原不比等らの協力を得て、愛してやまなかった草壁皇子の子、文武天皇を誕生させたことは、まさしく執念の勝利とでもいえよう。


                                        ( 完 )
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