雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  松が枝に託す命

2011-12-09 08:18:02 | 運命紀行
       運命紀行    

          松が枝に託す命  


『磐代の浜松が枝を引きむすび 真幸くあらばまた還り見む』

「松の枝を結んで願い事をすれば叶えられる」という古くからの言い伝えは聞いていたが、まさか自分自身がこの儚い願いに命を託すとは思いもよらなかった。
しかし、同時に、自分の身が危険にさらされていることは承知していることであった。正気を失っているとまでの配慮をしてきていながら、簡単に敵の罠にはまってしまった自分を恨むしかなかった。

捕われの身となり、紀の湯に滞在中の天皇に懸命の釈明を行うつもりであるが、聞き入れられるものかどうか予断が許されなかった。
すでに尋問を受けた中大兄皇子には、自分の言い分を聞きとろうとする気配さえなかった。それも当然なことで、次期皇位を狙う中大兄皇子にとって、自分が邪魔な存在であることは確かであり、そのためにめぐらした罠だったのだから。
天皇に最後の望みを託そうとしているのは、斉明天皇が自分の伯母にあたるからで、その血の繋がりにすがるつもりであるが、自分を亡き者にしようとしている中大兄皇子が実子であることを思えば、その願いは、「松が枝」に託するよりもさらに脆いものかもしれない。

有間皇子が処刑されたのは、松が枝に願いを掛けた翌日であったのか、さらにその翌日のことであったのか・・・。
まだ十九歳の青年皇族であった。


     * * *

有間皇子は645年に誕生した。父は、軽皇子、後の孝徳天皇である。母は、小足媛(オタラシヒメ)、左大臣安倍内麻呂の娘である。二人が有馬に滞在中に誕生したことから名付けられたともいう。

641年、舒明天皇が崩御。この時、舒明天皇には後継者として有力な皇子が二人いた。古人大兄皇子と中大兄皇子である。第一皇子である古人大兄皇子の年齢は不詳であるが、中大兄皇子は十六歳である。天皇の意中の後継者は、第一皇子であり蘇我馬子の娘を母に持つ古人大兄皇子であったが、まだ若年であったことから、皇后である宝皇女が即位した。皇極天皇の誕生である。

645年、政変が発生。中大兄皇子や中臣鎌足を中心とした勢力が実力第一の蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼしたのである。乙巳の変(大化改新とも)である。
これにより後ろ楯を失った古人大兄皇子は、天皇位につく意思のないことを宣言して吉野に隠退するが、謀反の疑いとされて中大兄皇子勢力に滅ぼされてしまう。
皇極天皇は政変後譲位を決意し、息子である中大兄皇子を即位させようとしたが、まだ若年であることや反対勢力を侮れないことなどを理由に時期を待てという中臣鎌足の進言を入れ、結局皇極天皇の同父母弟である軽皇子に譲位されることとなる。孝徳天皇である。

父の即位により、有間皇子は、次期天皇への有力候補に躍り出てしまったのである。
それは、中大兄皇子にとっては全く意図しないことであり、「皇祖母尊(スメミオヤノミコト)」という称号を受けた皇極も全く同じ考えであったと思われる。(もっとも、この称号は、あとの時代に作られたものらしい)

孝徳天皇は、難波の宮を拠点として大化の改新と呼ばれる政治体制を推し進めて行った。しかし、孝徳天皇の政治力の発揮は、皇極にとっても中大兄皇子にとっても望ましいものではなかった。
皇極・中大兄親子にとっては、孝徳天皇は一時的に皇位を預けたものに過ぎなかった。皇極にとっては飛鳥の倭京の建設こそが重要であり、中大兄としては孝徳天皇が実力を蓄えて行くことは黙視できることではなかった。悪くすれば、次の皇位を自分の子である有間皇子にする可能性が強くなる。

中大兄皇子は、孝徳天皇に都を倭京に戻すことを強く求め、聞き入れられないとなると影響下にある貴族たちを引き連れて倭京へ移ってしまった。皇極も行動を共にし、皇后の間人皇女までが中大兄に従ってしまった。
孝徳天皇の皇后である間人皇女は、中大兄皇子と父母を同じくする兄妹であるが、とかくの噂のある関係でもあった。
さらに、おそらく、孝徳天皇に対し退位を迫り、実際に実質的な王権は皇極・中大兄の手中になって行ったと考えられる。

654年、孝徳天皇は失意のうちに崩御。天皇位はふたたび皇極のもとに戻り、斉明天皇として即位した。重祚である。
この時、中大兄皇子は二十九歳になっており、即位してもおかしくない年齢と思われるが、群臣たちに受け入れられない事情があったと想像できる。

有間皇子は、父である孝徳天皇が崩御すると、政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装って、療養のためとして紀の国に身を隠した。古人大兄皇子の轍を踏まないためであった。
やがて飛鳥に戻った有間皇子は、斉明天皇に病気完治を報告し、彼の地のすばらしさを伝えた。斉明天皇は心を動かされ、静養のために紀の国に向かった。

飛鳥に残っていた有馬皇子のもとに、蘇我赤兄が接近をはかってきた。天皇や中大兄皇子の政策に不満を漏らし、失政を指摘し、自分は有間皇子の味方であるから何なりと申しつけてほしいと親交を深めようとした。自分が極めて危うい立場にいることを承知していたつもりであったが、天皇が行幸中であることもあり、有間皇子にも油断があったのかもしれない。
ある日、突然に有間皇子の邸は蘇我赤兄の軍勢に包囲され、謀反の疑いで捕われの身となった。

中大兄皇子の尋問を受けた有間皇子は、「真実は、天と赤兄だけが知っている。吾は何も知らない」と、述べたという。
有間皇子に、父孝徳天皇の無念を晴らしたい気持ちがなかったとはいえまい。母の実家安倍氏は、水軍など強力な軍事力を有しており、何らかの思惑を描いていたかもしれない。
しかし、有間皇子と一緒に捕われた、守大石や坂合部薬は、流罪の後許されており、坂合などは、後の壬申の乱では近江方として戦っていることを思えば、罠にはめられたとしか思えない。
いずれにしても、中大兄皇子には弁明を聞く耳など持ち合わせていなかった。天皇のもとに護送される途中で、若い命は断たれてしまったのである。

『家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る』
有間皇子の歌である。
十九年の生涯を終えようとする運命の旅の歌と思えば、胸が詰まる。

                                      ( 完 )
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