本日は三月一日。当地は、お天気は下り坂とのことですが、穏やかな朝を迎えました。
「 三月はライオンのように訪れ、子羊のように去って行く 」という諺がありますが、今年は、優しいライオンの訪れのようです。もっとも、この諺はイギリスのものですから、わが国とは風土が違いますので、喩えに使うには不適切なようにも思いますが、わが国の三月の天候も、意外に激しい部分があります。
それでも、三月は、早々に桃の節句と呼ばれる「おひなさま」があり、華やかな行事でのスタートですから、春の訪れを感じさせてくれるように思います。
「暦の上では春ですが・・」と言う名文句がありますが、私たちは、たくさんの「春の訪れ」を持っています。
その原因の一つは、私たちの生活の中に、旧暦の名残のようなものが色濃く残されていることにあるようです。
旧暦においては、一月から三月までを春の期間として、元旦を春の始まりとしました。その名残は、新暦で生活している私たちにも伝えられていて、年賀状の挨拶文に、「初春のお慶びを申し上げます」などが今なお健在です。
「立春」を春の始まりとする考え方は根強く、「暦の上では・・」の名文句は立春や立秋などに基づくもののようです。
気象庁では、三月から五月の間を春としているようですから、三月一日が春の始まりということになります。
官公庁や三月末決算会社などにおいては、三月は年度末の何かと忙しい月となります。最後の追い込みが必要な企業があるかもしれませんし、卒業式始め、学校関係も大きな節目となる月です。
それでも、やはり三月は、何か明るさを感じさせてくれる月です。「弥生」というのは、旧暦三月の異称ですが、新暦の三月にも引き継がれています。また、それぞれの月に異称がありますが、人名などに使われている数は最も多いのではないでしょうか。その理由としては、「弥生」という言葉そのものの美しさもありますが、三月が持っている明るさ・希望といったイメージが支持されているのではないでしょうか。
「 春は、あけぼの。 やうやう白くなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。」
これは、清少納言作「枕草子」の第一段の冒頭部分です。
清少納言さんは、春は、夜明け前の東の空が白みかけた頃が一番良い、と書き記されています。今日あたりに当てますと、午前五時過ぎ頃になるのでしょうか。
雪の多い地方などでは、まだまだ「春は、あけぼの」などと、のんびりしたことは言っておれないかもしれませんが、春の訪れと共に、ほんの少しばかり早起きして、東の空を眺めてみる余裕を作ってみるのも良いのではないでしょうか。
ただ、「春眠 暁を覚えず ・・」という、強烈な名言もあるのですよねぇ・・・。
( 2023.03.01 )
昨日、三月三日は「おひなさま」でした。皆様のお家ではどのような行事が行われたのでしょうか。
ほとんど関係ない、と言うお方も少なくないと思われますが、テレビでは、雛飾りのニュースなどが数多く流されていて、華やかな気持ちにさせていただきました。
おひなさまを飾るこのお祭りは、桃の節句とも言われますが、古くから「上巳(ジョウシ)の節句」という五節句の一つとされてきました。五節句とは、「一月七日の人日の節句」「三月三日の上巳の節句」「五月五日の端午の節句」「七月七日の七夕の節句」「九月九日の重陽の節句」の五つです。かつて、五月五日が祝日なのに、三月三日が祝日でないのは差別ではないかといった声を聞いたことがありますが、実は、五月五日がたまたま「こどもの日」に当てられたためで、それ以外の節句は、いずれも祝日ではありません。
実は、三月三日のことを少し調べていたところ、この日を記念日とする物が数多くあるのに驚きました。「耳の日」などは、これまでにも耳にしたことがありますが、他にも、「金魚の日」や「民放ラジオの日」や「平和の日」などがあり、ある資料によりますと、二十以上の記念日が列記されています。やはり、私たちは「ぞろ目」が好きなんだと感心しました。
ところが、本日の三月四日を調べてみますと、何の何の、三月三日には及びませんが、「ミシンの日」・「バームクーヘンの日」・「みたらしダンゴの日」・「差し入れの日」など、十以上が紹介されています。
このうち、「みたらしダンゴの日」は、三月三・四・五日の三日連続で制定されています。また、「差し入れの日」というのに興味がひかれ調べてみますと、「日本残業協会」という組織が制定した物だそうで、「仕事で頑張っている人たちに前向きになってもらおうと差し入れしましょう」といった趣旨のようです。
三月四日も頑張っています。
三月三日と四日の二日を調べてみただけでも、多くの記念日が有り、それぞれに物語が秘められているようです。
実は、私は知らなかったのですが、「一般社団法人 日本記念日協会」という組織があって、記念日制定の受付を行っているようです。もちろん、各人の記念日は、各人が勝手に決めても問題はないのでしょうが、こうした組織で登録されるているのは、それなりに公共性がある物と考えられます。
記念日の登録は年々増えているようですが、廃止される物もあるそうです。従って、データーは日々変わるようですが、入手できる資料によりますと、もっとも記念日が多い日は、八月八日で、十月十日、十一月十一日と続いていて、いずれも五十以上の記念日が制定されているようです。そして、やはり「ぞろ目」が並んでいます。
月別では、十一月、十月の順で、三百を超えているそうですから、この協会に登録されている分だけでも、三千を超えているのではないでしょうか。
かつて、私は、大変苦しい時期を送った経験があります。一日一日が長くて、あっという間に十年ほどの時間が吹っ飛ばないかなどと考えたりしました。
その時の一つの手段として、直近の記念日のような日を追っかけていくことで、自分を騙すようにして時間を過ごしたように思います。もちろん、その記念日というのは、個人的な事柄に基づく物が中心でしたが、二十四節気とか、節句や雑節といったものをかなり勉強しました。私の場合は、それによって、幾分か心を鎮めることが出来たように思っています。
しかし、やはり、祝日や社会の大きな記念日、あるいは、先人たちが守ってきた節句のようなもの、さらには、三千を超えるような様々な記念日などは、個人の大切な日に加える形で、日々の生活を心豊かに導くためのものに位置づけたいと思うのです。
毎日が何かの記念日というのも、少々しんどいものですが、独自のカレンダーを心に刻んで、一日のうちの数分でも思いを馳せるといった生き方もあるように思うのです。
( 2023.03.04 )
頻発していた強盗事件は、遂に殺人という最悪の事態になってしまいました。
この事件の多くに関係していたとされる実行犯が多数逮捕され、指示役とも、主犯に近いとも予測される人物たちが、フィリピン政府の尽力のお陰で逮捕にいたり、全容解明への進展が期待されています。
ただ、振り込み詐欺から変貌していったとも言われるこの種の組織は、他にも幾つもあるとも言われていますので、この種の犯罪の制圧は簡単なことではなさそうです。
それにしても、実行犯として逮捕されている人数の多さに驚き、犯罪に踏み出す決断の壁の低さに、唖然としてしまいます。
しかも、この事件ばかりでなく、例えば無差別殺人といった凶悪事件の犯人も同様で、その一線を越えるとどうなるのか、越えてしまえば後戻りは出来ないのだということを、どの程度考えたのだろうかと、首を傾げたくなるような事件が多すぎるような気がしてならないのです。
「後悔先に立たず」「後の祭り」「覆水盆に返らず」「こぼれてしまったミルクを嘆いても仕方がない」「破鏡再び照らさず」等々、一線を越えてしまえば戻ることが出来ない、と言った格言はたくさんありますが、それは、慎重に決断することが重要なことの証左なのか、手を変え品を変えて教えられても守れないほど私たちの判断力は頼りないということなのか、まさに判断に迷うところです。
「賽(サイ)は投げられた」という有名な言葉があります。
この言葉も、本来は「もう、後戻りは出来ない」といった意味だと思うのですが、「一線を越えること」「背水の陣を敷くこと」、時には「決断を促す」場合などにも使われるようです。
ご承知の通り、この言葉は、歴史上の大英雄である、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の名言です。
紀元前49年、カエサルはローマ元老院に背いて、自ら率いる軍隊を属国との境界線に当たるルビコン川を渡るに当たって、その決意を表現した言葉です。「ルビコン川を渡る」といった言葉も使われることがありますが、この時の状況から生まれた物でしょう。
カエサルに限らず、ローマの政治家は雄弁でなければ務まらなかったようですが、カエサルには、他にも、「来た、見た、勝った」とか「ブルータス、お前もか」といった言葉も伝えられています。クレオパトラとの関係など、今となっては大スペクタル映画の第一人者のような存在ですが、その賽を投げるに当たっては、決してはずみで下した結論ではなかったはずです。
ネットの応募につられて、安易に凶悪事件の手下になったとされるような人物に、カエサルのような周到な決断を求めるのはとても無理なことでしょうが、一国を背負うような人物には、たとえカエサルに及ばないまでも、決断するに足る智力の積み上げや情報分析能力を高めて欲しいと祈る思いです。そうしたものがあってこその決断であって、一か八かでサイコロを投げられたのでは、多くの民は苦しむばかりです。
ロシアによるウクライナ侵攻も、情報を持たない私などは、利己的な暴挙に見えてしまうのですが、ロシアにはロシアの正義があるのかもしれません。
しかし、そうだとしても、正義のためであれば、多くの人を殺傷することも容認されると考えたのでしょうか。
投げられた賽を元に戻すことも出来ないし、焦土と化した街や田園を以前に戻すことも出来ませんが、止まることは出来るのではないでしょうか。今さら何をしても遅すぎるのでしょうが、それでも、止まることに意味はあるはずです。
一日一日、両国の多くの人が亡くなっていっていることに、世界は、これほど無力なものなのでしょうか・・・。
( 2023.03.07 )
WBCが始まりました。
日本チームの初戦は中国戦ですが、本稿はその途中で書いています。
序盤はどうもやきもきするような試合経過ですが、一次ラウンドでの一番の難敵は、二戦目の韓国だと考えていましたが、その韓国は一戦目のオーストラリアに敗れましたから、メジャー選手が各国にたくさん加わっている今大会では、どの試合も簡単な試合はないようです。
それにしても、WBCの盛り上がり方は大変なものです。
メジャーリーグの選手が参加することから、早い段階から注目度が上がっていましたが、宮崎にダルビッシュ選手が加わってからは、爆発的と表現したくなるほどで、球場どころかグッズを手に入れるのが大変という状態ですから、報道されている映像の中には、殺気立っていると表現したい状態のようです。
今回の日本チームには、4人のメジャーリーグの選手が加わっていますが、練習風景や強化試合などの報道を見ますと、実に大きな戦力になってくれている事が伝わってきました。
宮崎キャンプ中のダルビッシュ選手は、他の日本選手ばかりでなく、多くのファンの気持ちをわしづかみにしたかのような、強烈なリーダーシップを感じました。おそらく、接した選手の方にとって、特にまだ実績の少ない選手にとって、大きな宝物を授けてくれたような気がしました。
そして大谷選手は、その存在感は、圧倒的の一言に尽きます。強化試合での2本のホームランは、少々「次元が違う」という気さえしました。しかも、あの2本は、きっと、やや湿り気味であった打線を目覚めさせてくれたのではないでしょうか。
ヌートバー選手の参加は、私などは、「だれ?」と驚いた方ですが、よくぞすばらしい選手を見つけ出してくれたものと、感動のようなものを覚えています。母親が日本人とはいえ、まったく日本語が話せない人が、日の丸を背負ってくれるという、スポーツならではのすばらしさを感じました。本人の緊張をほぐすために周囲の人たちの気配りが、報道される映像からも感じられますが、それに十二分に応えて、明るいキャラが感じられ、きっとすばらしい働きをしてくれることでしょう。
そして吉田選手ですが、個人的には、今年からメジャーに移るだけに、チームに残って少しでも早くメジャーに慣れて欲しいと思っていましたが、強化試合を見ますと、栗山監督などの首脳陣は、どうしてもこの選手が必要だと固執したらしいことがよく分かりました。
一戦目の結果で浮かれることなど無いでしょうが、今回のチームに関わった方々にとって、この大会を通じて得ることの大きさは、きっと、想像以上のものになるのではないかという予感がします。
もちろん、成績は大事です。監督以下多くの選手が「優勝以外は考えていない」といったコメントをされています。外野席から好き勝手に応援している私などでも、優勝して欲しいという願いは強いものです。
しかし、もしかすると、それ以上のものを今回のチームは私たちに伝えてくれるのではないかという気持ちが強くなっています。
やや下降気味のようにも感じる、わが国の野球というスポーツの活性化や、さらには、もっと世界的にもメジャーなスポーツへの足がかりになる可能性も秘めているようにさえ思うのです。
そうした、大きな大きな夢への期待を感じているのですが、それはそれとして、まずは、わが国での準々決勝までは勝ち抜いて欲しいとの思いは、強まるばかりです。
( 2023.03.10 )
WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)は、大変な盛り上がりの中、わが日本チームは一次リーグB組を全勝で突破し、次は、A組二位のチームとの準々決勝戦ということになりました。
優勝への道程は、むしろ、ここからが本番ということになるのでしょうが、まずは、日本での最終戦となる準々決勝を勝ち進みたいところです。
大会はまだまだ続きますが、昨日までの状況を見る限り、わが国での大会は大成功と思われます。
おそらく、いわゆる「にわかファン」といわれる人たちが、これほど大会を盛り上げてくれたことは、野球の大会では無かったのではないでしょうか。
試合結果もさることながら、ダルビッシュ効果とか、大谷効果などと表されるような現象が、数多く見られています。試合そのものばかりでなく、練習などを通して、スポーツの持つすばらしさの一面を、私たちは見せていただいているように思うのです。
そうした効果の一つに、「ヌートバー効果」も大きな役割を果たしてくれているように思われます。
ヌートバー選手が代表メンバーに選ばれた時、「だれ?」と驚いた人は少なくなかったと思います。私もその一人ですが、今となっては、この選手をリストアップした人、そして決断した一人であろう栗山監督に大きな拍手を送りたいと思います。
わが日本チームの不動のトップバッターとしての大活躍もさることながら、そのひたすらな姿、お母さんが日本人だとはいえ、ほとんど日本語を話せない人が日本の代表チームの一員として活躍してくれている姿は、私たちに強い感銘を与えてくれています。
今回のWBC本大会には20チームが参加しています。このうち16チームは予選免除であり、4チームは予選から勝ち上がってきたチームです。予選には、12チームが参加したようですから、今大会全体としては32チームが参加したことになります。
野球というスポーツをメジャーなスポーツに発展させるということを考えた場合、サッカーのワールドカップの予選に参加した国や地域は209だそうですから、その差は大きすぎます。
歴史の差など理由は様々あるのでしょうが、世界中の地域ごとの野球連盟に加入している国などは、全部で130を超えているという資料もありますから、今後ののびしろは十分あるともいえます。
今回、わが日本チームに加わって下さったヌートバー選手のような資格で、メジャーリーグの選手などの選手が様々な国に加わることも、野球というスポーツを広めるということでは、一つの手段のような気がしました。
三月十一日、佐々木朗希投手が、対チェコ戦で先発し力強い姿を見せてくれました。
東日本大震災の傷跡は、私たちにとって、12年を経た今も様々な影を投げかけています。
佐々木朗希投手の心境を勝手に推測させていただくだけでも、胸がつまるものがあります。同時に、「奇しき縁(クシキエニシ)」というものも感じさせられました。
四季は廻り、年は流れ、時間は多くのものを癒やし、多くのものを記憶の世界に繰り入れてくれます。しかし、その時間は、私たちの命の時間では、とても賄いきれないものを必要とすることも多いようです。そして、その時間は、一人一人ごとに、それぞれの曲線を描いているように思われます。それも、平面ではなく、四方八方、三次元四次元にさえ広がっているのかも知れません。
そうした曲線と曲線が、たとえ瞬間であっても出会うことは、まさに「奇しき縁」と表現せざるを得ないように思うのです。
今、野球というスポーツを通して、得がたい感動をいただいていることに感謝しながら、懸命の拍手を送り続けたいと思っています。
( 2023.03.13 )
大変な盛り上がりを見せているWBCも、いよいよ今夜の準々決勝のイタリア戦で日本での試合が終ります。
先発投手は、すでに大谷選手が二刀流での登板が決まっています。この準々決勝でも投手の球数制限が決められていますので、リリーフ陣にも注目が集まっています。今大会においては、第二先発投手という言葉をよく聞きましたが、球数制限の関係で、先発投手は好投しても3~4回程度がせいぜいなので、次の3回程度を担う二人目の投手の重要性が増しています。
わが日本チームのこれまでの戦いにおいても、第二先発投手の頑張りが、勝利に大きく貢献しています。
さて、今夜の第二先発投手は誰なのでしょうか。夢の継投が実現するのでしょうか。
昨日のテレビ番組の中で、水原一平氏に注目するコーナーがありました。
水原一平氏は、大谷選手の専属通訳として、テレビ報道でこれまでもよく見かけていますので、その存在が小さくないことはよく承知していますが、今回は代表チームの通訳としての参加だそうです。当然、チーム全体の通訳としての仕事が有り、監督と外国人選手、外国人審判たちとの通訳に当たることが目的なのでしょうが、テレビで見る限り、ヌートバー選手にとっては心強い存在と思われ、もちろん大谷選手にとっても、通訳の仕事は必要ないとしても、精神的な面で少なからぬ影響を受けているように見受けられます。
通訳という仕事の第一は言葉の意味を伝えることなのでしょうが、単に言語ということではなく、専門的な知識を有していることが絶対必要で、大谷選手と水原氏の関係を見ていますと、互いの深い絆のようなものを感じます。
古来、わが国には、「言霊(コトダマ)」という言葉があり、そうした考え方があります。
万葉集の中には、『 しきしまの やまとの国は ことだまの たすくる国ぞ まさきくありこそ 』という歌が載せられています。
万葉の時代やそれに続く時代においても、宮廷歌人という存在がいて、身分は必ずしも高くなかったようですが、慶弔あるいは吉凶などにつけて、歌を詠むことで、喜びを増し、哀しみを癒やし、あるいは吉事を誇り、凶事を避けられると信じてきました。
「沈黙は金、雄弁は銀」とか「物言えば 唇寒し 秋の風」といった名言もありますが、それらも含めて、「言霊」というものは存在していると思うのです。
水原氏を例に挙げさせていただいているようで申し訳ないのですが、通訳の仕事とは、「言葉を伝える仕事」と言えます。「他の言語を自由にそれ以外の言語に変えて、別の人に伝える」といった技術は、私などでは神業のように見えます。伝言ゲームという遊びがありますが、日本人が日本語を伝えていっても、およそ20人も伝えていけば、かなり大きな違いが出てしまうものです。
通訳に限らず、共通の言語を伝える場合でも、言葉そのものだけで正しい状況を伝えることは簡単なことではなく、表情や、身振り手振りといったものも重要な役割が有り、何にもまして、相互間に、信頼・敬意といったものがあるかどうかが大きな意味を持っていることは確かでしょう。
ある人の言うことは素直に受け取れるのに、どうもお前に言われるとナァ・・、といったことは多くの人が経験していることではないでしょうか。
それはさておき、今夜は大事なイタリア戦。必ずや勝ってくれるはずですが、水原氏の動向や、選手間の意思疎通がどのように行われているのか、この点も注目したいと思っています。
( 2023.03.16 )
WBC第1次リーグB組を全勝で突破したわが日本チームは、準々決勝も勝利してベスト4入りを果たし、翌日、日も昇らないうちに米国に向かうという厳しいスケジュールで、マイアミに到着しました。
日本での5試合は、結果としてはいずれも大差の試合となりましたが、その経緯は、いずれの試合も手放しで眺めていられる試合はなかったと思います。それだけに、多くの感動と思い出を私たちに残してくれたのではないでしょうか。
そして、準決勝の相手はプエルトリコに逆転勝ちしたメキシコに決まりました。
米国で行われてきた1次リーグのC組・D組も大変な接戦で、下馬評では最有力と言われていた国も1次リークで敗退するなど、戦力が伯仲してきていることがよく分かります。
準決勝の相手に決まったメキシコチームの戦力分析は、場外監督としては十分時間があります。
また、自称解説者としましては、時差や気候の変化、東京ドームほどの圧倒的な声援は期待できない、などのマイナス面も考慮した上で、きっちりと勝ちきる戦略を構築しておく必要があります。
さらに、にわかファンとしましては、それらを参考にして、遙か1万数千キロ離れた地でのわが日本チームの健闘に、懸命の拍手と念力を送るとしましょう。
それにしても、わが国での大会は、多くの予想を大きく上回る盛り上がりだったのではないでしょうか。試合そのものに加えて、練習風景やファンの動向などからも多くの情報が伝えられるなど、本当に多くの感動を頂戴しました。
そうした多くの場面や情報の中でも、「大谷選手のセーフティバント」には大変驚きました。
おそらく、球場内で予想した人が、たとえ一人でもいたのでしょうか。確かに、映像で守備位置を見ますと、三塁手はショートの位置にいたわけですから、三塁側に転ばせばセーフになる可能性は高く、あの試合では、むしろ投手がよく追いついたわけで、結果は暴投まで加わりましたが、大谷選手の意図する以上の結果が生れました。
勝手な想像をさせていただきますと、二遊間を詰められた守備位置を見ますと、大谷選手とはいえ、ホームランを打つのと内野ゴロを打つ確率は互角だと考えたとしますと、内野ゴロでダブルプレーにされてしまいますと、試合の流れを相手に与えてしまうことを懸念したのではないでしょうか。勝利のための最善は何か、チームに良い流れを引き込むには何がもっとも確率が高いか、そうしたことを瞬時に判断されたのではないでしょうか。
時に私たちは、何を為すべきか見えなくなってしまうことがあります。為すことのことごとくが、上司や周囲から否定され、仲間内からさえ避けられているように感じてしまうことがあります。
為すべき事が分からない日々は、辛いものです。自己嫌悪に陥ることも、誰もが、一度ならず経験することではないでしょうか。
そうした日々から脱出することは、そうそう簡単なことではありませんが、必ず、そこから離れられる時は来るはずです。
前にはだかっている大きな壁を乗り越える形での解決などは、現実には、そうそうあるものではなく、少し道を変えてみたり、時には引き返してしまったり、敗退を認めてしまうものも含めて、自分を納得させる最低限の道を求めることも必要なのではないでしょうか。
多くの人がホームランを期待し、それを実現させることが十分な能力の持ち主である大谷選手でさえ、時には、最も実現可能な手段を選択することがあるということを、噛みしめたいと思うのです。
( 2023.03.19 )
大変な試合を見せていただきました。
WBC準決勝戦で、わが日本チームは、メキシコチームに見事な逆転サヨナラゲームを演じてくれました。
中米の国々には、メジャーリーグの選手が多く、メキシコも同様で、さすがに迫力のある選手が多かった。栗山監督は「厳しい試合になる」とおっしゃっていたが、まさにその通り、よくぞ勝ってくれたというのが本音です。
それにしても、見事な逆転劇でした。
佐々木・山本の先発候補の両投手を投入して必勝を期すも、最終回までリードを許すという苦しい展開でしたが、九回裏、先頭打者の大谷選手が気迫の二塁打、次の吉田選手が四球、ノーアウトでランナー一、二塁となり、バッターは村上選手。
村上選手はこれまで不振で、今日もこれまで3三振1邪飛、村上選手も試合後のインタビューで口にされていましたが、ここは送りバントという考えを持ったファンも少なくなかったかも知れない場面でしたが、監督の方針は『打て』だったとか・・。
その結果、まるでドラマを見ているような「サヨナラ劇」が誕生しました。おそらく、この回の攻撃については、今後WBCが行われる度に、永く語り継がれるシーンになるのではないでしょうか。
ずっと以前のことになりますが、大きな賞を受賞されたある研究者の方が、インタビューの中で、「結果として、この研究を評価していただいたが、実際は、試行錯誤、そして失敗の連続だった」と語り、成功に至った秘訣は、と言う質問に対して、「絶対諦めないことです。何度思う結果が得られなくても、諦めない限りは、それは失敗ではない」といったことを話されていました。
スポーツと科学研究とを同一目線で考えるのはどうかと思いますが、私は、村上選手のサヨナラ打の瞬間、このインタビューのことが思い浮かびました。
ふだん、この科学者のインタビューを思い出すことなどほとんどないのですが、まるで直結しているかのように浮かんできたのはどういう神経構造なのか、自分でも可笑しくなってしまいました。
「最後の最後まで諦めるな」「勝負は下駄を履くまで分からない」などといった言葉があります。
いくら不利な状態でも、最後まで諦めるなというのは、スポーツの世界では、最も基本的な指導方法の一つだと思われます。しかし、実際の試合においては、野球に限ったとしても、絶望的な状態で、これらの言葉を思い出し、日頃の苦しい練習を思い出して諦めなかったとしても、それによって逆転に結びつくことなど、そうそうあるものではないはずです。
ところが、村上選手の殊勲打を見せつけられますと、やはり、「絶対に諦めない」という教えは正しいのかもしれないと、改めて教えられました。
( 2023.03.22 )
日本中が、と言えば大げさすぎるかも知れませんが、WBCに沸き立った日々が終りました。テレビ番組などは、まだまだ熱気が冷めていないようで、優勝の瞬間や、劇的な場面を何度も何度も放映しており、それを、こちらも何度も何度も、チャンネルを変えることもしないで見ているのですから、何だか、洗脳されたか、熱病に罹ってしまっているのではないかと、気になりかけています。
「鳥の目、虫の目、魚の目」という言葉があります。社員研修などでは、よくお目にかかる言葉です。
当ブログでも何度か使わせていただいていますが、鳥の目とは、高い場所から広く全体を見なさい、ということでしょう。虫の目とは、おそらくこれはチョウとかトンボと言った類いというより、地を這っているような虫をイメージしていて、相手に近くから泥臭く監察しなさい、ということであり、そして、魚の目とは、水の流れ、潮の変化を見定める目を育てなさいといったものと、私は受け取っています。
もっとも、教訓といった種類の言葉は、使われる場面や使う人の立場によって、少しずつ意味合いが違ってくる傾向はあります。同時に、この言葉もそうですが、実行するとか、実体験するといったことは、そうそう簡単なことではありません。
私たちが、WBCでの日本チームの活躍に沸き立ったのには、もちろん、日本チームが優勝にまで至った大活躍や、個々の選手の活躍やその背景に感動したことによりますが、もう一つは、私たち一人一人が監督になりコーチになり、時には大谷選手になって、自己陶酔と言えば少し違うかも知れませんが、実体験しているようにのめり込むことが出来ていたのではないでしょうか。
つまり、わが日本チームを、時には鳥の目で以て、時には虫の目で以て、時には魚の目で以て、熱く熱く一体化することが出来たのではないでしょうか。
ずっと以前に、ある著名な作家の方がこのような話しをされていました。
「私が歴史小説を主体に書いているのは、時の流れや人物などを俯瞰的に見ることが出来るからです」と。つまり、鳥の目で以て全体像を見ることが出来るといった事を述べられていたのでしょう。
私たちは、自分自身の生き様を客観的に見ることは、なかなか難しいことです。鳥の目として見ることはもちろん、虫や魚の目として見ることも難しく、おそらく正しく見ることなど出来ないでしょう。
しかし、見ることは出来なくても、私たちは懸命の人生を綴っています。いくら拙くとも、自分だけの人生を懸命に綴っています。
今回のWBCにおける日本チームは、およそ次元の違うハイレベルなものではありますが、私たちに夢のようなドラマを、まるで私たち自身のものように見せてくれたように思うのです。
心から感謝したいと思います。
( 2023.03.25 )
イギリスに、「三月はライオンのようにやって来て、子羊のように去って行く」ということわざがあるようですが、わが国でも、この半月ばかりは、初夏と冬とが行ったり来たりで、ライオンほどでもないようですが、かなり荒れ気味です。
当地も同様で、菜種梅雨というには少し寒く風の強い日もあり、あちらこちらから桜の満開が伝えられていますが、当地はまだ少し先になりそうです。
可哀想に、たいした世話をして貰えないわが家の庭は、自然の天候にお任せ状態なので、今年は、当地としては珍しく積雪を見たこともあって、庭に置かれっぱなしの鉢植えのアロエやゼラニウムは、大分痛めつけられてしまいました。
例年今頃は、球根類が次々と花を咲かせてくれていて、今年も、スイセン、ヒヤシンス、ムスカリなど元気なものもありますが、チューリップがどうやら不作のようです。
実は、昨年は、値上げに負けたというわけでもないのですが、チューリップの球根をまったく買わないで、掘り起こした物だけを植え付けました。それでも、小さな物も含めて200個程は植えたと思うのですが、今のところは花を着けているのは3~40程度で、一枚葉しか出していない物もかなりありますので、どうやら半分も花を着けてくれないようです。
わが家の、まことに細やかな庭の、しかも満足に手入れもしてもらえない庭を語るのは、草花たちから叱られるかも知れませんが、その狭い世界にも栄枯盛衰があるようです。
この一、二か月の状態からも、山茶花や白梅は元気に花を着けてくれましたが、ここ数年、庭の通路を埋め尽くすほどに花を着けてくれるノースポールは、通路を少しいじったせいもあって、ほとんど姿を消しています。現時点では、まだ小さな物が10本あまり小さな花を着けているだけなので、必死になって大切にしているところです。
WBCが行われていた期間は、テレビを見る時間がかなり増えました。もともとテレビ好きの私は、ながら族(もう死語でしょうか?)さながらに、テレビを見ていることが多いのですが、この半月ばかり、コロナに関するニュースへの関心度が急速に薄れていることに我ながら驚いています。新規感染者数が減り、ニュースも激減している為もあるのでしょうが、本当にもう終息なのでしょうか。
それ以上に気になることは、ウクライナに関するニュースなどを見ることが減っていることです。ニュースそのものも減っているように感じます。しかし、ウクライナをめぐる惨状が軽減していることなどまったくありません。明日は我が身と思いながらも、明日のことはやはり傷みがないということなのでしょうか。
わが家の庭から栄枯盛衰を語るのも何ですが、国家の盛衰も、ちょっとしたことが切っ掛けで大事に至ってしまう例は、歴史の至る所で示されています。
どう考えても、厳しい位置に国土が存在しているわが国は、ウクライナの現実を他国の出来事などと眺めてなどいられないような気がするのです。
( 2023.03.28 )